【今週はこれを読め! エンタメ編】過去から続く因縁と秘密〜遠田潤子『紅蓮の雪』
文=松井ゆかり
つらくなるのはわかっているのに手に取ってしまう、それが遠田潤子の小説だ。本書は、主人公・伊吹の双子の姉である朱里の葬儀のシーンから幕を開ける。朱里は「伊吹、ごめん」とだけ書かれた書き置きを残して、町外れにある城の石垣から飛び降りたのだった。伊豆の老舗旅館の跡取り息子である大学の先輩との婚約も整い、幸せそうに見えたのに。両親からの愛情を与えられずに育った姉弟として、お互いを一生守ると約束したのに。
伊吹と朱里の実家は、「椀久」という小料理屋を営んでいた。すでに亡くなっている父・良次は料理人で、「端正な顔立ちで、はじめて観た人がはっとするほどの美形」。しかし右頬に大きな傷があり、右目の視力はほとんどなかった。母・映子も、「すこし目尻の吊り上がった、切れ長の眼が印象的な」美人。表向きは何の問題もなさそうな四人家族だったが、伊吹と朱里は両親から愛された記憶がない。伊吹は幼い頃に良次から「触るな、汚い」と言われて以来、父親がなくなる日まで言葉を交わすことはなかった。さらに、その言葉をきっかけに他人との肉体的接触を苦痛に感じるように。映子は伊吹に日本舞踊と剣道を習うことを強要し、踊りに関してだけは息子を気にかけていた。朱里に至っては、両親のいずれからも関心を寄せられたことがない。そんな歪さを抱えた家庭の中で、伊吹と朱里はお互いの存在だけが支えだった。
そのたったひとりの理解者である朱里を失った伊吹は、遺品を整理していたところ姉が自殺する直前に大衆演劇の舞台を観たと知る。朱里に観劇などという趣味があっただろうかと疑問を抱き、伊吹は「鉢木座」という劇団の地元・大阪で行われている公演に足を運んだ。そこで舞台に登場した一座の若座長・慈丹の存在感に圧倒される。公演後、座長と慈丹の元に向かい、姉のことを知らないかと問い質す伊吹。座長はとりつく島もなかったけれども、なぜか慈丹に気に入られた伊吹は一座に加入することになってしまう。
梅沢富美男さんが「夢芝居」という曲を引っさげてブレイクした時代をリアルタイムで見ているので、大衆演劇というものが存在するのはもちろん知っていた。しかし、どういう演し物を披露するのかとか劇団の構成などがどうなっているのかとかは、本書を読んで初めて知ることばかり。こんな濃い世界にハマったらえらいことになるなと思う一方、見ている間は何もかも忘れられるほどの高揚感を与えてくれる役者や舞台に翻弄されるのも幸せかもという気もしてくる。
伊吹が足を踏み入れたのは、そんな場所。他人に触れられないために苦痛が増す一方、日を追うごとに舞台に魅せられていく。自分を受け入れてくれた慈丹に応えるために日々精進を重ねていた伊吹だったが、過去から続く因縁は否応なしに彼を窮地に追い込む。自分に花を付けて(おひねり的な現金を渡して)くれるようになった若い女性客とのトラブル、故郷で高校時代に初めて付き合った相手・和香が引き起こした事件、そして明らかになった両親たちの秘密が伊吹を容赦なく傷つけることに...。
舞台に降るのは紙の雪。美しく舞いはしても、儚く溶けることはない。消えない雪なら、決して知られたくない秘密も隠そうとする者の思いも白く覆ってしまうことができる。しかし、伊吹はすでに知ってしまったのだ。両親の過去を、朱里が自分ひとりの胸に秘めたままにしようとした思いを。すべてを知ったうえで歩き出そうとする伊吹の肩に降るのは、清らかな白ではなく燃え盛るような紅蓮の雪なのかもしれない。
読むとつらくなるのはわかっている、でも、ただつらいだけの読後感しか味わえないのだったら、次からは遠田作品を手に取りはしない。往々にして歪だったり一般的な基準からすれば真っ当とはいえなかったりもするような物語とわかっていてなお、魅了される読者は多いに違いない。登場人物たちがすべてを知って打ちのめされ何もかも失っても、かすかに残された希望の光を心に焼き付けるために。他人から見たらどうしようもない人生かもしれないけれど、それでも生きなければならない者の物語を必要とする私たちは、どうしても遠田潤子という作家に書き続けてもらわなくてはならない。
(松井ゆかり)