市橋達也『逮捕されるまで』最速レビュー

文=杉江松恋

  • 逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録
  • 『逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録』
    市橋 達也
    幻冬舎
    2,399円(税込)
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 あの市橋達也が事件後のことを振り返った手記を書いた。
 その話を聞かされたとき、にわかには信じられなかった。
 すでに刑が確定した身ではないのである。彼は拘置所で刑事裁判の判決を待つ身の上だ。本が懺悔録のようなものであったとしても、有利に働くとは限らないだろう。逆効果になることだってあるはずである。
 それでも本を出したいというのは何か別の理由があるのだろうと思った。
 亡霊にとりつかれたと信じる人間が、それから逃れるために投身自殺を図るようなものだ。
 吐き出さなければならない何かが市橋達也の中に渦巻いているのだ。

『逮捕されるまで』(幻冬舎)を読んで、自分のそうした直感は的を射ていたと感じた。
 この本は市橋達也(判決が出るまでは「被告」だが、これは書評だから他の本の著者と同様に敬称は略して書く)が自宅のマンションから逃亡した2007年3月26日に始まり、声をかけてきた警官によって逮捕された2009年11月10日で終わる。千葉県市川市から、大阪南港のフェリーターミナルまで。その間に彼が何をしてきたかという記録の書であり、逃亡以前の彼が何をしたか、という点には一切触れられていない。
 念のため書いておくが、2011年1月25日現在、市橋達也は英会話教師リンゼイ・アン・ホーカーさんに対する、殺人と強姦致死の罪で起訴されており、公判を待っている。この本の中に、それらを「やっていない」と否定する言葉は出てこない。「ひどいことをした」という呟きが処々で出ているとおり、著者は自分がその行為に責任がある人間であるということを繰り返し書いているのである。極論すれば市橋が書き、吐き出したかったことは他にある。それは自身を支配していた恐怖の感情だろう。

 マンションの部屋前で待ち構えていた警察の手をすり抜け、4階から1階まで非常階段を駆け下りて脱出した市橋は、その途中で靴を失っていた。逃げ続ける間にガラスを踏み、片足の裏は血で染まる。そして上野駅近くにある大学病院の障害者トイレで、彼はコンビニエンスストアで買った裁縫道具を使って、自ら顔に傷をつけるのである。
 ----鼻筋の横から糸のついた針を突き刺した。反対側から針を抜いて、糸をギュッと締めた状態にして、また反対方向へ針を刺した。それを何度も繰り返した。ちょうどラーメンのチャーシューの肉のかたまりをたこ糸でぐるぐる巻きに縛るようにして、鼻を細くしようと思った。(p19)
 市橋は2年7ヶ月の逃亡生活を通じて、顔を変えることに執着し続けた。逮捕されるきっかけも、名古屋の病院で整形手術を受けたことだった。この鼻筋の破壊手術のあとも、特徴あるたらこ唇をはさみで切り落とそうとしたり、顔のほくろを削ろうとしたりするなど、彼は何度も自分の顔に刃物を向けようとしている。それだけ、捕まりたくないという気持ちが強かったのだ。「市橋達也だろう」と指をさされるのが怖かったのだ。
 実際の逃亡経路についてはすでに報道がされていると思うが、本州内を南北に迷走した後、市橋は沖縄の孤島でロビンソン・クルーソーのような生活を送ることを思いつく。大阪の建築労働現場と孤島とを往復し、最後にはその孤島に帰るフェリーを待ちながら逮捕されたのである。孤独な境遇に慣れてきたという理由もあるだろうが、この逃亡生活後半の暮らしのことは詳しく書かれている。ときおり自筆のイラストが挿入されていて、どこの町を歩いているのかわからなかったとしている逃亡直後とは比べものにならない詳しさだ。孤島では、毒のある蛇をさばいて食べたこともあったという。
 ----ナタの柄でヘビの首を押さえてスコップの刃で首を切った。首を落とす瞬間、ヘビの牙から液が垂れて地面の砂につくと、ジュッと音がした。毒ヘビだと思った。
 ----毒ヘビは首に毒嚢があり、内臓にはサルモネラ菌がいる。そうサバイバルの本に書いてあったので、首の部分は大きく切り落として、肛門から包丁を入れ慎重に内臓を取り除いた。ブツ切りにして焼いて、ネコと一緒に食べた。(p137)

 心細いとき、人は何かにすがらざるを得ないものだが、市橋の場合はそれが「英語の教材」だったらしい。逃亡生活の初期、彼はUSBデータ型のレコーダーに充電をし、その中に入っている『英単語・熟語ダイアローグ1200・1800』『TOEFL英単語3500』を聞きながら歩き続けた。また、沖縄ではJ・D・サリンジャー『The Catcher in the Rye』の原書と英語とフランス語の辞書を購入して読んだ。彼が逃亡生活を送ることになったきっかけを考えると、皮肉な気持ちにさせられる事実だ(リンゼイさんに薦められていた『ハリー・ポッター』の原書も読んだらしい)。滑稽、と読む人もいるだろう。私は人の本質が頑として変わらないことの哀れさを感じた。
 市橋は2年7ヶ月の間に自分が読んだ本のことも書き記している。道尾秀介の著書が持ち物の中に入っていたという報道がされたことがあったが、その書名は出てこなかった。
 ----(前略)古本屋でマンガ『バキ』を買った。地下闘技場戦士が五人の死刑囚と闘う話の箇所を選んで買った。自分も捕まったら死刑囚になる。強くならないといけない。強い死刑囚を見て、自分を励ますためだった。(p94)
 坂東眞砂子『死国』に触れたことがきっかけで同じ版元の角川ホラー文庫を手当たり次第に読んでいた時期もあったらしい。印象に残っている書名として、日本ホラー小説大賞短編賞受賞作の曽根圭介『鼻』を挙げている。その他、横山秀夫『半落ち』、東野圭吾『殺人の門』、天童荒太『悼む人』などの書名も。これらを見て、何かを思う人もいるだろう。

 繰り返すが、これは改悛の情を示すために書かれた本ではない。ひたすら「怖かった」「怖くて逃げ回っていた」とつぶやいているだけの本である。事件の被害者のことを思って不愉快な気持ちになる人もいると思う。本を読むときには、一歩引いて、冷静な気持ちでページを眺めてみてもらいたい。恐怖の体臭を私はここから嗅ぎ取った。恐怖に駆られて逃げ回るとき、人間は単なる動物に近くなる。著者はそのことを他人に知ってもらいたかったのだと、私は思った。

 なお、本の終わりにはこう記されている。
 ----本書の出版で印税を得ることがあっても、僕にそれを受け取る気持ちはありません。リンゼイさんの御家族へ。それができなければ、公益のために使っていただければ幸いです。

(杉江松恋)

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