【今週はこれを読め! ミステリー編】読み出したら止まらない『骨の祭壇』がすごい!
文=杉江松恋
「全米の出版社が熾烈な争奪戦を繰り広げた覆面作家の超絶スリラー、ついに日本上陸」
「『ダ・ヴィンチ・コード』を凌ぐと評された圧倒的なスピードとツイストで読者をひっ攫う超大作」
フィリップ・カーター『骨の祭壇』(新潮文庫)上下巻のカバー裏にはこんな文章が連ねられている。
またか?
とお思いになられたあなた、これまで本に関する誇大広告で辛い思いをされてきたのね(黒柳徹子の声で)。よく判る。私も同様の経験を数多く積み重ねてきたからだ。大袈裟な煽りはもう信用しないよ、という読者の心の叫び、本当に気持ちはよく判る。
しかし、もしあなたがもう一度だけ出版社に騙されてもいい、という寛容な心をお持ちだとしたら、この『骨の祭壇』だけは試してみるべきだ。
上下巻で800ページ弱、決して短くはない。だが、呆れるほどに速く読めてしまえる。驚異のページターナーなのである。
冒頭、サンフランシスコで1人のホームレスが謎めいた言葉を遺して殺害される場面が描かれる。その後に続くのは3つの相互に関連のないシークエンスだ。その1、1937年2月、ソビエト社会主義共和国連邦統治下のシベリアの場面では、強制収容所で働く看護師のレナ・オルロワが、1人の囚人を連れて脱走する。不幸なことに囚人は発熱していた。このままでは彼が助からないと判断したレナは、ある決意を固めるのである。
2つめ、現代のテキサス州ガルヴェストンの場面では、老人が神父である息子にある驚愕の事実を告げて息絶える。その過去があるゆえに、老人の血を継ぐ息子たちは命を狙われるであろうとも。神父は遠く離れた場所に住む弟のライに、その事実を伝えようとする。
3つめは、第2のエピソードから1年半後、サンフランシスコに舞台は戻る。DV事案を多く担当する弁護士のゾーイは、旧知の刑事から刺殺された老ホームレスの死体写真を見せられる。その風貌は、彼女の母が遠い昔に死んだと語っていた祖母とそっくりだった。しかも死者は、死ぬ間際にゾーイの連絡先を書いた紙を呑み込んでいたのだ。
ばらばらな3つの筋が縒り集められ、1つの物語として形を成すのが上巻の最後近く。それまでには殺戮に性的な興奮を覚える女殺し屋やロシアン・マフィアの手先などの敵役が続々と登場し、主人公であるゾーイは幾度となく窮地に追い込まれている。彼女は祖母から謎めいた遺言を受け取り、ユーラシア大陸中を駆け回ることになるのだ。10ページに一度は銃声が轟き、硝煙がたなびく。主人公は目隠しのまま猛獣の檻に突き落とされたに等しい。祖母の遺言にはこうも記されていた。「決して他人を信用しないこと。誰一人信じてはいけない」と。その言葉通り、彼女は幾度となく裏切られることになる。なにこれ、すごい!
巻き込まれ型の主人公ではあるがゾーイはお人形さんのようなキャラクターではなく、暴漢を叩き伏せるだけの腕っぷしも聡明な頭脳も備えている。その彼女でも太刀打ちできないような危機の連続なのである。作者は巧妙で、読者に少しだけ先を予見させるような隙を見せながら物語を行っている。当然読者はその手に引っかかるが、それは誘いの罠なのだ。裏の裏をかかれてひっくり返ることになる。ああ、ずるすぎる。
最初にちらりと書いたようにフィリップ・カーという名義は覆面で、正体は別の有名作家だとされている(一説にはハーラン・コーベンとも)。本書を訳した池田真紀子はジェフリー・ディーヴァーの訳者でもあるが、ハイスピードで進む物語にどんでん返しが仕掛けられる展開はディーヴァーのそれにもよく似ている。故ロバート・ラドラムの陰謀小説にも確かによく似ている。要するに「上手い」とされる作家に備わっている特質を、すべて持っている書き手なのだ。名前を挙げられた誰であっても私は納得するだろう。だって、これだけ、腹が立つほどおもしろい作品なのだから。
(杉江松恋)