【今週はこれを読め! ミステリー編】犯罪小説史に残る大傑作『チャイルド・オブ・ゴッド』
文=杉江松恋
今週のお薦めはコーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』(早川書房)を措いて他になし! これは犯罪小説史に残る大傑作であり、殺人者の精神世界に分け入った物語としてもほぼ比肩するもののない高みを極めた小説である。でも、難しいんでしょう、『ブラッド・メリディアン』(早川書房)みたいに長いんでしょう、ですって奥様? とんでもない、わずか240ページ弱、一晩で読みきれる分量ですわ。ただし読み終えた後で全身に震えが来て、眠れぬ夜を過ごすことになっても責任はもたねえけどな!
物語は、とある山間の土地に不動産の競売人が見学客を引き連れてやって来る場面から始まる。単なる徒歩行ではなく、バイオリン弾きを連れてお祭り騒ぎだ。競売人は満面の笑顔で物件を勧め始める。「絶対に確実」な投資物件だからお見逃しなく、と。しかしその群衆の中に招かれざる客がいる。
ライフル銃を持った男の名はレスター・バラード、その土地の元の持ち主だ。おそらくは税金を払わなかったため郡に土地を取り上げられ、追放されることになったのである。
バラードは殴られ、居合わせた保安官に逮捕される。ジョン・グリアーという男がその土地を買う。バラードはライフル銃とわずかな家財道具を持って山の中の打ち捨てられた小屋に移り住む。狐やオポッサムの糞が室内に転がり、壁板のほとんどが失われた小屋だ。バラードは唯一の光源であるランプの火でジャガイモを炙って食う。灯油の味がして中は生のままのジャガイモだ。その殺風景な部屋で死人のように口を開けてバラードは眠る。
こうしてバラードの新しい生活が始まる。彼は文明世界から半ば追放されたようなものだ。ところどころに挿入される住民の談話から、バラードが粗暴な性格のゆえに忌避される存在であったことがわかってくる。しかしバラードは決して好んで世捨て人の境遇になったわけではない。その証拠に下半身には滾るような性欲がある。若い娘が彼をからかい25セントで裸の胸を見せるというが、彼はそれを出すことができない。ある朝、彼はレイプの犠牲者らしき女性を発見するが、その体に触れたために拘置所で9日間を過ごすことになる。バラードが触れることを許されるものはもはや何もない。そしてある日、彼の運命に決定的な変化が訪れる。
本書を読んで真っ先に連想したのが、1938年に津山事件を引き起こした都井睦雄のことだ。都井は徴兵検査で不合格となり、狭い共同体の中で居場所をなくす。鬱屈を募らせた彼は、猟銃と日本刀によって村民30人を殺害したのである。マッカーシーが1973年にこの小説を書いたときに津山事件のことを知りえたはずはないので、バラードと都井の間にある共通点は単なる偶然だろう。
物語の冒頭、バラードが始めて登場する場面で、マッカーシーはこう書いている。「おそらくあなたによく似た神の子だ」と。何気ない記述だが、物語の後半でバラードが行ったことを知ってからここに戻ってくると言葉の意味合いが違って感じられるようになる。バラードは自分とは違う、ねじくれた心を持つ単なる異常者なのだ。そう思えればどんなに魂は安らかであることか。しかしそうではなく「あなたによく似た神の子」なのだ。造物主によって生み出された大量生産の規格品。そういう意味ではあなた(読者)とバラードの間になんの違いもないのだ、とマッカーシーは言うのである。おそらくは都井睦雄も、すべての殺人者たちも。おれたちみんな。すべて。
(杉江松恋)