【今週はこれを読め! ミステリー編】おなかいっぱいゲップー!の恐るべき冒険物語
文=杉江松恋
少し/かなり遠い未来、人類は愚かな〈逝ってよし戦争(ゴーン・アウェイ・ウォー)〉によって互いを滅ぼしあった。僅かに残った者たちは混沌に満ちた世界をなんとか再建し、〈可住ゾーン〉に寄り集まって生きている。そのために必要な装置が〈ジョーグマンド・パイプ〉といわれる浄化装置だ。〈パイプ〉から排出される魔法の化学物質〈FOX〉が清めてくれる範囲の中だけで人間は生きていける。しかし〈FOX〉にまつわる技術はすでに失われたもので「たいていの人は配線やらライトやらに覆われた卵のような形をした大型の機械があって、空気と月光から材料をとりだして濃縮し、大きな樽にぽたぽた溜めるのだと想像している」。そのパイプの一つで、大規模な火災が起きてしまったのだ。
そこで登場してくるのが〈ぼく〉と親友のゴンゾー、二人が勤務する〈エクスムア州運送&危機物質緊急民間自由会社〉の面々である。〈パイプ〉はこの世のエリート中のエリートたちが運営をしているが、そこから鉛筆首をしたエリートのはしくれ連中がやってきた。彼らは〈ぼく〉たちに言う。「われわれはくそったれ火事を消しにいかなくちゃいけません。くそったれ蝋燭みたいに吹き消すんです。さもないと......」このくそったれ世界にくそったれの焼け焦げ穴が空いてしまうということだ。それはもしかすると致命的な事態を呼ぶかもしれない。
しかしエリートどもは本当のことをすべて語ったわけではない。彼らは最新のぴかぴかトラックを持ってきていて、仕事を引き受ければ贈呈するという。つまりそれは、〈ぼく〉たちが死ぬということだ。「われわれが」火事を消すのではない。〈ぼく〉たちが消す。そしてたぶん、死ぬ。当然のように会社は仕事を引き受ける。そういうときのために存在している会社だからだ。縁起かつぎのように右前輪に小便をかけ、見送りの者たちにパンツをおろして尻を見せた後で、トラック野郎たちは発進する。〈ぼく〉は短い祈りを捧げる。
神さま、ぼくは故郷に帰りたいです。
『世界が終わってしまったあとの世界で』は、本邦初紹介の作家ニック・ハーカウェイが2008年に発表したデビュー作だ。ただいま紹介したとおり、第一章で語られる話は終末SFのそれで、〈ぼく〉が世界を救うために闘う冒険小説、という体である。ところが、ところが。第二章に入ると様相は一変する。そこには終末の「し」の字も出てこないのである。そこで展開するのはごくごく普通の青春小説だ。田舎のハイスクールで運動部のエースとして君臨するゴンゾーと、永遠のナンバーツーとしてひっそり生きている〈ぼく〉。二人の運命があることから変化する。〈ぼく〉は〈声なき龍〉という拳法と出会い、それを学び始めるのである。体がすでにできあがっているゴンゾーでは無理だが、可塑性の高い〈ぼく〉にはまだ学ぶことが可能だった。〈ぼく〉はめきめきと頭角を現し始める。そして知ることになるのだが、〈声なき龍〉の老師ウーは、実はニンジャによって命を付け狙われていたのだ。
ええっ、と声を上げた読者は多いのではないかと思うけど、まだそれは早いぞ。次は大学だ。「大学教育、セックス、政治、もろもろの結果」と副題のついた第三章では、〈ぼく〉のジャーンディス大学における生活模様が描かれる。もうこうなると突っ込むのも面倒くさくなるほどだが、いったいどうなっているのか。ゴンゾーとか〈パイプ〉とか〈声なき龍〉とかどうなっているのか、と思っていると、あるものは突然話の中に戻ってきたり、あるものはそのまま彼方へ消えてしまったりする。とても自由だ。さまざまな小説の形式や手法が詰め込まれ、それぞれが邪魔をしあわないように(込み合ったバスの中のように)譲り合って共存しているのだ(〈ぼく〉が孤児という設定なのは、明らかにピカレスク小説の常道を踏襲している)。そしてゲップー、読者はもうおなかがいっぱいゲップーとなったころ、おもむろに作者は書きたい話を再開する。
これはそんな感じで展開される冒険物語だ。誰もが一度は読みたいと願うが、運が悪いと一生巡り合わないこともありうる。そういうタイプの小説だ。少なくとも私はこういう小説がずっと読みたいと思っていた。ありがとうハーカウェイ、ありがとう訳者の黒原敏行。やっと会えたね。
というわけでお好きな方はすごくお好きだと思うのでお薦めします。すごいよ。あ、作者のニック・ハーカウェイは、イギリスのスパイ小説作家ジョン・ル・カレの息子なんだってさ。知ってた?
(杉江松恋)