【今週はこれを読め! ミステリー編】"カリブ海のメグレ"を目指す!『ネルーダ事件』
文=杉江松恋
ミステリーは治安の良い民主主義国家のみで発展しうる娯楽である、という説がある。犯罪者が出れば警察がそれを捕らえ、法に定められたとおりに処罰する。その体制が成立していなければ、事件発生から謎解きまでを描く小説は受け入れられない、というのがその骨子だ。実はこの言説は自文化中心主義にもつながりかねないので、発言者には自重が求められる。以前、アメリカの編集者兼評論家のオットー・ペンズラーがこういう趣旨の発言をしていたのを読んだことがあり、はいはいアメリカ人、アメリカ人と思ってしまった。そうですね、アメリカはすごいね。最高だね。
皮肉はさておき。動乱が相次ぎ、混沌が支配しているような地ではミステリーは成立しえないのか、という疑念が当然のように湧いてくる(民主主義国家が安定している、というのも幻想に過ぎないとは思うのだが)。チリ出身の作家、ロベルト・アンプエロの長篇『ネルーダ事件』(ハヤカワ・ミステリ)は、そうした問いへの返歌のような作品である。主人公のカジェタノ・ブルレはキューバ出身だが、西側に亡命し、チリ人の女性と結婚してかの地に移住した。その彼がある日、パブロ・ネルーダに呼び出されることから物語は始まる。1973年の冬のある朝の出来事であり、小説は現在のカジェタノが過去を追憶する形式で書かれている。
パブロ・ネルーダは実在の人物である。1970年、流血を伴わない平和な政権交代の形でサルバドール・アジェンデ大統領の社会主義政権が成立した。ネルーダはその社会主義革命の主導者であり、アジェンデの右腕として外交にその辣腕を振るった。詩人としても高く評価され、1971年にはノーベル文学賞も授与されている。
そんな高名な人物が、一介の異邦人になんの用があるのか。怪訝に思いながらも彼に会ったカジェタノは、ネルーダから意外な依頼を受けた。ネルーダが若いころに交流を持っていた、アンヘル・ブラカモンテという人物を見つけ出してもらいたいというのだ。ブラカモンテは薬草によって癌を治癒するための研究を行っていた。癌に侵されて余命いくばくもないネルーダにとって、彼は最後の望みなのだろう。そう理解したカジェタノは、ネルーダの望みを入れてなれない捜索行を開始する。
本書のキーワードは、メグレ警部だ。自分は探偵ではない、と言って尻込みするカジェタノに、ネルーダはメグレを手本にして捜査を行うように勧めるのである(ネルーダは駐仏大使として功績を上げた経歴がある)。彼の言葉を引用しよう。
「(前略)メグレ警部からなにがしか学びたまえ。探偵小説の生みの親と言われる偉大な詩人ポーや、シャーロック・ホームズの父コナン・ドイルを読むのはお勧めしない。理由がわかるかい? そこに出てくる探偵たちはあまりにも変人で頭脳的すぎるからだ。南米のような混沌とした場所では、簡単に解決できる事件などない。たとえばバルパライソでは、路面電車でスリが財布を盗み、丘の子供たちは人に石を投げ、犬は通りで人を追いかけて噛みつく」
こう言われてカジェタノは詩人からシムノンを貸され、たちまちその虜になって『怪盗レトン』っていいなあ、とか呟くようになるのである。実在する小説を教科書代わりにして行動する探偵の話は、たとえばスティーヴ・ホッケンスミス『荒野のホームズ』(ハヤカワ・ミステリ)などの作品があるが、これもその仲間に入る作品だ。作中では他にエリック・アンブラー『ディミトリオスの棺』(ハヤカワ・ミステリ文庫)、ユリアン・セミョーノフ『春の十七の瞬間』(角川文庫)などへの言及がある。そうした細部がまず楽しみどころだ。果たしてカジェタノは「カリブ海のメグレ」になれるのか否か。
南米史に詳しい方ならば、この物語の時代設定を聞いて、あっ、と思うはずである。1973年はアジェンデ政権にとっての大事件が起きた年だからだ。小説の後半ではその事件が描かれる。まさに混沌が支配する世界が現出してしまうのである。その中でカジェタノがなお探偵としての自己を貫き通せるか、ということが物語の柱になる。本書では舞台が目まぐるしく入れ替わる。アンヘル・ブラカモンテから延びた線はチリ一国に留まらず、メキシコや冷戦体制下のベルリン、そしてカジェタノの祖国であるキューバにも飛んでいくのである。カジェタノには故郷喪失者の性格が与えられており、根無し草の孤独、何ものでもなくなってしまったがゆえの落魄感が常に胸の内にある。そうした人物が世界の中で自己を再発見していく小説でもあるのだ。さらにいえば、ある人物のエゴを形として見せ付けられていく小説でもあり、スティーブン・ドビンズ『奇妙な人生』(扶桑社ミステリー)などの諸作も私は思い浮かべながら読んだ。
ミステリーは民主主義国家の専有物って本当かな? ねえ、本当なのかな?
(杉江松恋)