【今週はこれを読め! ミステリー編】天才クェンティンの恐るべきサスペンス『女郎蜘蛛』
文=杉江松恋
まだミステリーを読み始めてそんなに経たないときに、パトリック・クェンティン『わが子は殺人者』を読んだ。おそろしく怖い本だと思った記憶がある。怖いというと語弊があるか。おもしろいことは抜群におもしろいのである。ショッカーの要素もほとんどない。しかし、読みながら常に圧力を感じるのである。主人公が落ち込んだ不安定な状況が真に迫りすぎていて、読んでいて1ページたりとも安心できる場所がない。ずっとそのまま、宙ぶらりんの状態で話が進んでいくのだ。怖いからじっとしていられない。じっとしていられないからページを繰る。安心できないのに読むのを止められない。それが本当のサスペンスというものなのだとは、当時はまだ知らなかった。
『女郎蜘蛛』はそのパトリック・クェンティンが1952年に発表した作品である。以前に高城ちゑ訳で刊行されていたが、長く絶版のままだった。今回、白須清美訳で甦ったことを祝福したい。
主人公ピーター・ダルースはクェンティンが1936年の『迷走パズル』(創元推理文庫)で登場させたキャラクターだ。彼は最初の妻を事故で亡くしたことが原因でアルコールに溺れるようになり、精神病院に入院するまでになった。『迷走パズル』で彼は、ある事件を解決して社会復帰を果たすことになる。そして、同じく入院患者であったアイリス・パティスンという女性と恋に落ち、めでたくゴールインするのである。
『迷走パズル』に続く、題名に〈パズル〉のつく長篇では、このピーター&アイリスのダルース夫妻が主役を務めることになるのだが、本書はその掉尾を飾る作品である(そしてリチャード・ウィルスン・ウェッブとヒュー・キャリンガム・ウィーラーの合作筆名であったパトリック・クェンティン・チームの、ウェッブが参加した最後の作品でもある)。
シリーズ最終作とはいえ、前までの作品を読んでいる必要はまったくない。『女郎蜘蛛』は独立した長篇であり、シリーズ作ゆえの安定感からはまったく無縁の小説であるからだ。ピーター・ダルースの稼業は演劇プロデューサーであり、妻のアイリスは役者だ。ある日そのアイリスが母親の静養に付き添って長期間留守にすることになり、ピーターはにわかやもめの境遇になる。それを心配し、お節介をやいたのが彼と同じマンションに住むロッティ・マリンという女性で、彼女の部屋で開かれたパーティでピーターはナニー・オードウェイという19歳の作家志望者と知り合う。
このナニーがなかなかキュートに描かれており、読者は最初から心を掴まれてしまう。なにしろピーターにかけた最初の台詞が、
「わたしとおしゃべりしない? そう退屈させないと思うわ。試してみましょうよ」
で、次の台詞が、
「母にいつもいわれたわ。パーティーが始まって三十分経っても男の人が話しかけてこなかったら、自殺したほうがいいって」
なのである。
とはいえ、ピーターとナニーの間にはやましいことは何も起きないのだが、彼は親切心から彼女にある軽はずみな提案をしてしまう(妻のいない間にピーターが浮気をするのではないか、とロッティが気を回しすぎたので、それに対する子供じみた反感も手伝っていたのである)。それが仇になった。数週間後、旅から戻ってきたアイリスとともにピーターが自宅に戻ってみると、ナニーが部屋の中で首を吊って死んでいたのである。有名プロデューサーとしての彼の名はスキャンダルによって失墜し、ナニーの死についての責任も追及されることになる。そしてもちろん、最愛の妻からも疑惑の目を向けられてしまうのである。
ピーターの挙措動作の一つひとつが罠に向けて突き進んでいるように見える序盤、そしてどこにも逃げ場がないほどに汚辱に塗れてしまう中盤が息苦しくて仕方ない。これぞクェンティン、読む者を不安にさせる天才の物語である。文章が体に絡み付いてくるようなこの感覚を味わったら、平板なスリラーなど決して楽しめなくなる。本当にぶん殴りたくなるほどに忌々しい物語を書く作家だが、だからこそクェンティンはおもしろいのだ。
(杉江松恋)