謎多き作家ボストン・テランインタビュー
文=杉江松恋
『神は銃弾』『音もなく少女は』といった傑作で日本で多くのファンを獲得しているボストン・テラン。世界を満たす暴力と理不尽を、カルト教団と戦う父親と傷ついた女性の二人を苛烈な暴力を通じて、あるいは世界との戦いを決意した少女の姿を静かに描く筆致によって描きつづけてきたテランだが、その新作、『その犬の歩むところ』が日本で刊行される。アメリカのさまざまな場所で、降りかかった不幸や災いに立ち向かう男女と、そのそばに寄り添う一匹の犬の物語である。『音もなく少女は』に通じる静かな物語だが、テランらしい詩情と、神話的な語りの横溢した傑作に仕上がっている。
しかしボストン・テランという作家の実像には謎が多い。いまだに年齢はおろか、性別すらもわからないのだ。新作の刊行を機に、ボストン・テラン氏にメールによるインタビューを行なった。
■ふたりで犬を車に乗せたとき、男の肩に海兵隊のタトゥーがあるのが目に入りました
Q 新作『その犬の歩むところ』は犬をめぐる物語です。副題にもStory of a Dog and Americaとあります。犬を決して擬人化せずに、しかしあたたかみのある魅力的な存在として描いているのも心に残ります。
ボストン・テラン(以下BT) 犬と人間の関係には、素晴らしく美しい何かがあって、私の心をいつも強く動かすのです。だから犬についての小説を書きたいとずっと思っていたのですが、同時に、アメリカという国についての物語にしたいとも思っていました。しかるべき時代や土地や人間を物語と関連させながら。一匹の犬が人から人へと旅をするのを追ってゆくことで、その犬がこの国の魂や核心に通ずる「窓」になる――それが私のアイデアだったのです。
Q 個人的に、犬についての思い出などはありますか。
BT カリフォルニアの裏道を砂漠をめざして車で走っていたとき、こんなことがありました。あれは嵐の夜で、ワイパーは雨粒との戦いを強いられていました。真っ暗な道が上り坂になって、サンタフェ鉄道の線路を越える手前あたりで、事故現場に遭遇したのです。ピックアップ・トラックが犬を撥ねてしまったようで、トラックのヘッドライトのなかに傷ついた犬のうえにかがみこむ若い男の姿が浮かび上がりました。私がそこまで走ってゆくと、若い男はこちらを見上げて、この犬をトラックに乗せるのを手伝ってほしいと言いました。町の動物病院まで犬を運んでゆくからと。
ふたりで犬をフロントシートに乗せたとき、その男の肩に海兵隊のタトゥーがあるのが目に入りました。刺青のある肩から手首まで、斧か何かで刻んだような傷跡も走っていて、これは戦傷に違いないと私は思ったのです。
そこで、それを指して、「イラク?」と訊きました。
自分はいろいろなものを体験してきた、彼の顔がそう物語っていました。「イラクです」彼は答えました。
偶然の出会いだったのか運命の紡ぐ詩だったのかはともかく、このわずかな出会いが、私が語りたいもののすべてを証明するものでした。ある人間固有のものから究極的なものまで。この寂しい雨の道で、私は『その犬の歩むところ』と題する「アメリカン・ライフの壁画」の錨となる人物像を見つけた――犬とともに歩む男の姿を発見したのです。
Q 『その犬の歩むところ』の語り手は実在の人物がモデルになっているということですね。そういえば『音もなく少女は』には自伝的な小説のような感触がありましたし、『神は銃弾』に登場する印象的なキャラクター、フェリーマンにもモデルがいると聞きました。あなたの作品はどれも、あなたの人生と結びついているのですか。
BT そのとおりです。現実の人物や出来事やディテール......これらを蒸留し、ページの上に生きる人物やページの上の出来事やディテールとして、再創造するのです。以前に誰かが言っていましたが、そうしたプロセスの中に、あるいはそうしたプロセス自体が、文学のかたちをとった再生であり復活であるのでしょう。
■私たちは世界の一部として生きていて、この世界を必要としている
Q しかし一方で、『その犬の歩むところ』には寓話めいた感触もあります。他のあなたの作品と違って、どこか高いところから全てを見ている何者か語っているような文体になっています。
BT「高いところから語る」ことで、世の中のあらゆる物事が互いにどれほど深くつながっているのかを読者に見せられる――と言えるでしょう。人生や出来事やさまざまな小さな物事が、歳月や距離を超え、どんなふうに共鳴するのか。人間と犬とが、長い旅路をどんなふうにともにするのか。どんなふうに互いの一部になってゆくのか。それは、私たちが世界の一部であり、世界の一部として生きていて、この世界を必要としているのだとあらためて思い出させてくれます。
また、「高いところから語る」ことは、何か大いなるものが働いているということを示すものでもあるでしょう。目的と展望をもつ何ものか、時というものの力をもつ何ものかが存在することを。
Q あなたは直接間接に、神話や伝説といったものを作品に取り込んでいるように思えます。ミノタウロスの神話を下敷きにした『凶器の貴公子』が筆頭ですが、『死者を侮るなかれ』の冒頭のエピソードにも、「死からの復活」という多くの神話にみられるイメージを読み取ることができます。
BT 神話というものは単に使い勝手がいいだけでなく、汲めども尽きないものであり、私たち人間の経験の集合体でもあります。私たちが、例えば地球の大変動とか疫病とか、加速を続けるテクノロジーの影響とかで、まったく未知の新たな地平に相対したときにどうするか考えてみてください。人生を理解し、その意味を探そうとして、私たちは古代の神話を参照してことに当たる。神話というのは私たちの心を写す恐るべき大いなるものであり、理解へ至るための足場を成す積み木です。神話は、私たちが私たち自身にとって何者であるかを説明する一助になってくれるのです。だから私たちは、この恐るべき大いなる心の表出を手がかりに、成長しつづけ、先に進みつづけることができるのです。「エデンの園」の物語を思い出してみてください。あの物語は不断にかたちを変えながらも私たちのそばにありつづけ、同時に、変わらず永遠にありつづけるもののように思えます。
■小津安二郎『東京物語』がいかにも日本的で、同時に普遍的であるように
Q 『その犬の歩むところ』には東欧から亡命してきた女性が登場しますね。『音もなく少女は』にもナチス・ドイツから逃れてきた女性が登場しました。彼女たちを通じて、アメリカを舞台としたあなたの小説にヨーロッパの歴史が流入するかたちになっています。
BT 彼女たちが過去の歴史を背負っていることで、物語に深い奥行きが生まれるからです。彼女たちは作品に歴史と文脈をもたらし、物語に「過去」が与えられるのです。その「過去」――その苦痛、苦難、苦闘、喪失を、彼女たちがいかに女性として自分のものにし、大きな糧にしたかが語られるのです。
Q その一方で、あなたの小説は「アメリカ人であること(being American)」というテーマを常にはらんでいるようにも思えます。銃、神、砂漠、といったモチーフを通じて......
BT「Being American」ですか。......そうかもしれません。けれど私が思うに、「何かである」ということを突きつめれば、普遍性に通じるのではないでしょうか。私が思い出すのは小津安二郎の『東京物語』ですが、あの映画はいかにも日本的であると同時にまったくもって普遍的でした。昔のアメリカ映画も――映画自体もその内容もともに――いかにもアメリカ的であると同時にまったくもって普遍的です。
Q 日本の映画もご覧になるのですね。小説や日本文化一般についても関心はありますか。
BT とくに影響を受けたり好きだったりしたのは三島由紀夫の『豊穣の海』、ジョージ・サンソムの三巻本『History of Japan』、あるいは「地獄変」や「藪の中」といった芥川龍之介の名短編です。日本と日本文化は、歴史や神話、奥深い民話や人間の神秘といったものの壮大な広がりを凝縮していると思います。
Q 日本文化に限らず、影響を受けた作家はいますでしょうか。あなたの文体は非常に独特で、一種哲学的で詩的でもあって、あなたの作品を類のないかたちで荘厳かつ壮大にしていると思います。あなたの文体(voice)の秘密は何なのでしょう。
BT 芸術家の「声 voice」というものは、彼らの魂の産物であり、彼らの中に住まう神秘的で謎めいた世界が造りだしたものです。そんな世界から跳び出してきたのが安部公房の『砂の女』であり、黒澤明の『生きる』であり、その曰く言いがたい美しさです。私は、ボストン・テランがピカソやブリューゲルといった画家と比較されているのを読んだことがありますし、チャイコフスキーのような音楽家、ジョン・フォードやセルジオ・レオーネ、デイヴィッド・リーンといった映画監督と比較されたこともあります。こういった評価は、私にしてみればなるほどと思うもので、自分がそうしたアーティストたちの同類であるという感じを持っています。
■音楽というのは、つまるところビートをともなうストーリーテリングです
Q 音楽はいかがですか。あなたの作品には激しいロック・ミュージックがしばしば登場します。「モッシュピット」という言葉を使った最初期の犯罪小説が『死者を侮るなかれ』でしたし、あなたの作品の荒々しい力感や暴力の詩学といったものはロックやハードコア・パンクと重なるところがあります。新作にも、ジョーン・ジェット&ブラックハーツによるビーチ・ボーイズの「ファン、ファン、ファン」のカヴァーを爆音で鳴らしながら女性バイカー団がフリーウェイを疾走する名シーンがあります。
BT"私は音楽のファンである"――という以上ではありません。音楽というのは、つまるところビートをともなうストーリーテリングです。一方、小説も音楽になりうる。私の作品のなかの音楽は、登場人物の人間像や、彼らの持つ世界観といったものを、より深く読者に伝えるために置かれています。その音楽を知る読者の心に触れることで、音楽が登場人物の対位旋律として機能して、アイロニーやエモーション、喪失や追憶を付け加えることもあります。『グレート・ギャツビー』を思い出してみてください。数々のパーティーの場面や、サクソフォンが「ビートル・ストリート・ブルース」を吹き鳴らすなかギャツビーが人で混みあった屋敷を歩いていく場面。そういうことです。
Q 『神は銃弾』『死者を侮るなかれ』などの作品のインパクトから、あなたは日本で「暴力の詩人」と呼ばれていました。『音もなく少女は』や『その犬の歩むところ』は静かな筆致ですが、わたしたちをとりまく暴力やブルータリティが描かれているのは変わりません。暴力はあなたの大きなテーマのひとつのように思えるのですが、なぜあなたはこの世の暴力とブルータリティについて書くのでしょうか。
BT 暴力とブルータリティは人間の特質の一部だからです。それは人間について知ること、理解することにおいて本質的なものでもあります。ひとが真実を追求するときに、そして自身の存在というものの意味や、あるいは自身の存在の意味の欠落を体験しようとするときに、通らざるをえない門のようなものなのです。
■私が女性について書くのは、女性があらゆる存在の中心をなしているからです
Q 興味深いのは、日本で人気が高い『神は銃弾』と『音もなく少女は』が、タイプの全然ちがう小説ながら、女性読者の心を大きく動かしたことです。「このふたつの小説は女性をフェアに扱っているので読んでいて無用のストレスを感じない」という声もありました。あなたの小説は、苛烈で暴力的である一方、女性であるというのはどういうことか、という問題を描いているようにも思えます。『音もなく少女は』はのちに『THE WORLD EVE LEFT US』という題名がつけられましたが、当初の英語題名は『WOMAN』でしたね。
BT 私が女性でないとは限らないではないですか。まあ、私についてはいろいろな憶測が書かれていますが。女性作家であるとか、「ボストン・テラン」という筆名で作品を発表している作家グループであるとか。
私が女性について書くのは、女性があらゆる存在の中心をなしているからです。女性はあらゆる感情から力を汲み出して動き、あらゆる感情を表現する存在だからです。これまでずっと、女性がより多くのものを得ようとしたら、より多くのことをしなければならなかったからです。長きにわたって男性のものでありつづけた結果、この世界が、女性を押しのけてきたからです。女性の物語は、彼女たちの苦闘は、それゆえに近代の世界の魂に、その中核に、位置しているのです。
Q あなたが女性でないとは限らない――確かにそのとおりです。じつは初めて『音もなく少女は』を読んだとき、わたしは「これを書いたのは女性にちがいない」と反射的に思ったのです。同時に、自分がボストン・テランを男性だと思いこんでいたことにも気づかされました。
BT と言っていただけたというのは、わたしが自分の仕事をちゃんとやりとげたということですね。
Q 性別もそうですが、あなた自身の情報というのはほとんど知られていませんね。
BT あなたがボストン・テランについて――あるいは他の作家についても――知れば知るほど、あなたは彼/彼女の書いた作品を、彼らの過去や半生についての事前の知識と結びつけてしまうようになります。知らないことが多ければ多いほど、作品の読み方はずっと自由になりますし、作品を鑑賞する際も「どんなことが書いてあるか」という点から見られるようになれます。そして作家自身も、彼や彼女の個人としてのありようという限界を超えて存在することができるようになるのです。
Q 限界を超える――ということでいえば、あなたは「時(time)」という言葉を、独特のニュアンスでよく使っています。何かの境界を超越した巨大な崇高な何かの存在を暗示するようなニュアンスです。作家自身も「個人としてのありようという限界を超えて存在することができる」とおっしゃいましたが、小説や物語も時間や空間の限界を超えて存在することができると、あなたは考えているようにも見えます。
BT 「時(time)」というもの......それは存在というものを大いなる力で不断に引っぱり、動かし続けるものです。そうした不断の力を描くうえで、芸術家による創造的な作品以上のものがあるでしょうか。どんな芸術家であるかを問わず、あらゆる芸術家の、あらゆるジャンルの、あらゆるグループの、主流の、邪道の......。ある瞬間に生み出された作品は、その瞬間は、確実にその瞬間を生きています。一方でクリエイティヴな作品の99.99%は、それを生み出した者が死んだときに命を享けるのです。そのときこそが、芸術作品――どんなものであるかを問わず――の命が真にはじまる瞬間なのです。芸術作品というものがいかに遠大で、私たちの蒙を啓いてくれるものなのか。それを示す好例が、これだと思います。そこには永遠にありつづける何かがある。時のつくる境界線を、そこに痕が残るほど押そうとする深遠なる何かがあると。
Q あなたを創作に向かわせるものは何なのでしょう。自分が紡いだ物語で読者に何を伝えたいと思っていますか。
BT 人生を終えるときに、自分のやったことが人間の大いなる自由に貢献したと感じられればと思っています。
Q ありがとうございました。何か日本のファンにメッセージはありますか。
BT そうですね。みなさんのもっとも貴重な資産のひとつを私と分かち合ってくれたことに感謝を申し上げます......時という貴重なものを分かち合ってくれたことに。
(質問:文藝春秋 永嶋俊一郎)