【今週はこれを読め! ミステリー編】閉じた親子の愛情の物語〜エーネ・リール『樹脂』
文=杉江松恋
どの家にも扉がついている。そこを開けて覗き込むことは家族以外には許されていない。だから、どの家庭にもその扉の中だけの真実がある。
エーネ・リール『樹脂』は、デンマークのごく片隅の地を舞台にした家族小説である。登場人物が〈本島〉と呼んで名称の出てこない島がある。そこに〈首(ハルセン)〉と呼ばれる地峡で〈頭(ホーエド)〉という離れ小島がつながっているのである。〈頭〉に住んでいるのは、イェンス・ホーダーの一家だけだ。イェンスは男の子が生まれたら名前はカールがいいと考え、妻のマリアは女の子が授かったらリウと名付けたいと願っていた。夫婦の思いが通じたのか双子が誕生し、それぞれ約束の名をつけられた。リウこと本書の主人公〈私〉は両親の愛に包まれて育ってきた子供なのである。
しかし物語は不穏な始まり方をする。冒頭の1行はこうだ。
──お父さんがおばあちゃんを殺したとき、白い部屋は真っ暗だった。私もその場にいた。カールもいたのに、お父さんもおばあちゃんも全然気づいていなかった。
イェンスはなぜ枕で自分の母であるエルセを窒息死させたのか。なぜ〈頭〉で誰にも見せることなく荼毘に付したのか。なぜホーダー家の人々はそれを仕方のないこととして納得しているのか。そしてマリアが我が子に向けてひそかに手紙を書き続けてベッドの下に隠している理由は何か。
いくつもの疑問符が読者の頭の上には浮かぶだろうが、作者はそれについて語る素振りもせずに話を進めていく。本書は三代にわたるホーダー家の物語であり、イェンスの父シーラスとエルセ、そして兄のモーエンスについての過去譚が〈私〉の語りを補強するものとして添えられるのである。熟練の大工であったシーラスは、何かの役に立ちそうなものを見つけて持ち帰る才能の持ち主だった。木工の技芸に長けた者の常として樹木の取り扱い方も熟知しており、クリスマスツリーの装飾に仕えるモミの木を植えてちょっとした副収入を得るようなこともあった。やがてシーラスが亡くなると、二人の息子にはそれぞれ別の能力が受け継がれたことが判る。理知的なモーエンスは経営の才能、物静かなイェンスは木工技術と、ものを家に持ち帰る性癖である。
このイェンスの収集癖が一つの鍵となる。小説のごく初めのほうで〈私〉は、〈頭〉の日々に関するいちばん古い記憶が新鮮な樹脂の香りである、と語る。題名の由来でもある樹脂は、シーラスからイェンス、そして〈私〉へとつながる血筋を特徴づけるモチーフなのだ。少年期のイェンスは、シーラスから琥珀を見せられた。太古の昔に蟻を包み込んで固形化した琥珀は、本来樹脂なのだと教えられる。そして成人したイェンスは、物を集めて我が家に貯蔵する人間になる。そして我が子に、森へ行って樹脂を集めてくるように命じるのである。樹脂が、包み込んだものをそのままの姿で保存する琥珀に変わるからだろう。
〈頭〉で孤立して暮らすホーダー家は完全に閉じており、その中で暮らす〈私〉は、外の世界の子供とはまったく違った生活を送っている。〈私〉にとって父・イェンスの言葉は絶対なのだ。読み進めていくうちに、異常な収集癖以外にもイェンスには常軌を逸した部分があることがわかってくる。しかしすべてが歪んだ世界においては、すべてが真っ当なのである。その中でイェンスとマリアが我が子を愛し、〈私〉が両親を愛しているという事実だけは揺るぎない。読者は覗き込んだ扉の中の奇妙さにまず驚き、そして親子の情の強固であることに心を打たれることだろう。歪んではいるが、これは間違いなく愛情の物語である。
物語の結末は印象的なものだ。完全に自閉することによって調和を保っているホーダー家は、崖のへりに危なっかしく乗っている小石のようなものだが、それが現実と接触することから劇的な変化が訪れるのである。扉は開かれ、中の人々は外の世界を見る。193ページからの怒濤の展開に、私は心を奪われた。まるで魔法の国が結界を破られて消えていくように、止められていた時計の針が一斉に動き出すように、物語は結末へ向けて動き出していく。忘れがたい最後の一行まで、とても目を離すことはできなかった。
本作はエーネ・リールの長篇第二作であるが、話題となって各種の文学賞を授与されている。特筆すべきは、北欧ミステリーにおける最高の栄誉「ガラスの鍵」賞を獲得していることだろう。その事実が示すとおりミステリーとして優れた作品なのだが、ぜひ児童文学のファンにも手に取ってもらいたい。閉ざされた離れ小島の生活、イェンスの度を越した奇癖によって物が溢れかえる家の描写は、ローラ・インガルス『大きな森の小さな家』をも連想させ、その中に足を踏み入れてみたいという衝動に誘われる。他にない紐帯で結びついた親子の物語であり、〈私〉の瞳が切り取った世界を読者に示す「視点の小説」でもある。他にない読書体験をお約束する。
(杉江松恋)