【今週はこれを読め! ミステリー編】極北の地での過酷な闘い『北氷洋』
文=杉江松恋
大自然の真っ只中に取り残された人間は自分自身を見つめる以外にすることがない。
問いかけに応える者が自分以外にないからである。その者の本質が善ならが返ってくる答えは善であろうし、悪ならば悪しき色に染まっているはずだ。孤独の中に降りていき、自分の真の素顔と対面して戻ってくる。イアン・マグワイア『北氷洋』はそういう小説だ。本書は彼の小説第二作で、2016年のブッカー賞では最終選考過程には残らなかったものの候補作になっている。新人の作品にしては注目された部類に入る。
物語は1859年春のラーウィック港から始まる。ラーウィックはスコットランドの北に浮かぶシェトランド諸島最大の港湾都市である。ここからバクスターという男が船主の、ヴォランティア号という捕鯨船が出航する。当時のイギリスでは鯨油が貴重な資源として用いられてきた。ただし石油がそれに取って代わりつつあった時期でもあり、捕鯨業には斜陽の影も忍び寄っていた。バクスター自身は業界で実績のある人物だったが、今回の船出には初めから不穏な雰囲気が漂っていた。迷信深い船乗りにとっては、船長のブラウンリーがまず忌避すべき対象だった。三年前、彼が乗ったパーシヴァル号が氷山に挟まれて沈没するという事故に見舞われていたのである。
新しく乗組員になった一人に船医のサムナーがいる。彼はインド植民地における従軍から帰国したばかりだ。利己的な上官の犠牲になり、不名誉除隊となったのである。裏切られ、傷ついた心を紛らわせるためなのか、サムナーは阿片チンキに溺れている。誰も知った者のいない船の上で、阿片の見せる幻覚で憂き世を忘れる。決して条件がいいわけでもないヴォランティア号への乗務を選んだのは、そのためでもある。
船は鯨を求めて北上を始める。北極海への旅路である。ある日、サムナーの元に一人のボーイがやってきた。彼の体を診察した医師は、船内で恥ずべき犯罪が行われていることを察知する。ブラウンリー船長に相談を持ちかけたサムナーだったが、憂慮も虚しく、残虐な事件が起きてしまう。犯人は間違いなくヴォランティア号の乗組員なのだ。
物語の前半は事件の犯人捜しを軸に動いていく。サムナーの持つ医学的知識が役立つ場面もあって一応はミステリー的な展開だ。しかし読者は、サムナーよりも遥かに先行している。ヴォランティア号に忍び寄る不吉な影の正体、登場人物たちも知らない情報を作者から教えられているからだ。その一つが、銛打ちのヘンリー・ドラックスである。
本書の第一章は「この男を見よ」という一文で始まっている。この男とはヘンリー・ドラックスだ。ヴォランティア号に乗船する以前に、ドラックスは残虐行為に手を染める。それは彼の初めての犯罪ではなく、また特別な行為ですらない。あまりに平然と、また淡々と事を進めるため、それが銛打ちにとっての日常にすぎないということが暗示されるのである。彼の手は完全に、血に染まっている。しかしサムナーをはじめとする乗組員たちは、そのことを知らないのである。ブラウンリー船長の呪われた運命以上にドラックスが不吉だということが、中盤からは次第にわかってくる。彼が物語に血の臭いを呼び寄せるのだ。
小説が大きく展開するのは船が漁場に到達した後である。乗組員たちの生命が脅かされる出来事があり、そこから冒頭に書いたような大自然との闘いが始まる。阿片の雲の中に遊べなくなったサムナーも、自分自身と向き合わなければならなくなる。物語の後半では、彼がヴォランティア号に起きた出来事を背負いながら、生き残りのために格闘するさまが描かれるのである。舞台は極北の地であるのに、物語を彩る色調は雪と氷の白一色というわけではなく、むしろ暗い血の色こそがすべてに勝っている。腐臭や、時に糞便の臭いなども織り交ぜつつ、作者は生と死のグロテスクな諸相を描いていく。狩りの場面は特に印象的だ。前半部では船員たちが殺した鯨を解体するときの生々しい描写が印象に残るし、後半にはサムナーが生きるために北極熊を狩るくだりがある。その迫力に、思わず息を呑む。
----鋸で引くようにナイフを動かして、胸骨を上に断ち割ってゆく。刃先が喉まで達したところで、気管を切断する。断ち割られた胸骨の片側をブーツで踏みつけ、反対側の胸骨を両手でつかんで、力まかせにめりめりと押しひらく。突然、内臓の熱気が噴きあがり、むかつくような肉の臭いが鼻に押し寄せる。ナイフを雪の上に放り出し、もうもうと湯気立つ内臓に両手を突っ込む。冷え切っていた指が急に温められて、もげ落ちるように感じられる。(後略)
あまり絵解きをしてしまうと興醒めだろうから、小説の柱だけを若干説明しておく。阿片中毒によって過去から逃避しているサムナーが本書の主人公だが、それと対照的なのがドラックスである。暴虐の王というべきドラックスは他人に危害を加え、自らの欲望を吐き出し続ける。その剥き出しの悪に、サムナーがどう向き合うかが物語の焦点となるのだ。ヴォランティア号が遭遇した過酷な運命によって彼はかりそめの幻想から追い出され、暴力的な形で現実に直面させられる。生気に満ちたドラックスと、傷つき、死者のように影の薄くなったサムナーとが対比の際立つ形で描かれていく。
通読し、本書に犯罪小説としての構造が備わっていることを確認した。結末近くになるにしたがってその構造が次第に浮上し、サムナーの行動によって幕引きが行われる。一面の氷原を思わせる、荒涼としたものが後には残った。
(杉江松恋)