【今週はこれを読め! ミステリー編】破滅の作家ブッツァーティの短篇集『現代の地獄への旅』

文=杉江松恋

  • 現代の地獄への旅 (ブッツァーティ短篇集)
  • 『現代の地獄への旅 (ブッツァーティ短篇集)』
    Buzzati,Dino,ブッツァーティ,ディーノ,徹, 長野
    東宣出版
    2,420円(税込)
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 ある日うっかり地獄行き。

 ミラノの新聞社で記者として働くディーノ・ブッツァーティは、ある朝、編集長に呼び出される。地下鉄の工事現場で作業員によって偶然発見されたものがある。それは地獄へと続く小さな扉だった。扉の向こう側に広がっているのは業火の燃え盛るような特殊な眺めではなく、自分たちの住んでいるのとほとんど変わらない世界なのだという。編集長はブッツァーティに、その地獄に紛れ込み、地獄の人間になりすまして特ダネをものにしてくるように命じる。だが、最初に扉の向こう側に行った者は戻ってこなかったのだ。

『現代の地獄への旅』は、イタリアを代表する幻想作家ディーノ・ブッツァーティの作品を日本独自で編纂した短篇集の第二弾である。冒頭で紹介したのは表題作の第一章にあたる部分だ。八つの章から成るこの中篇は、作者と同じ名前を持つ男を主人公にした物語である。舞台となる地獄は、ダンテ『神曲』で描かれたような階層を持つ世界ではなく、いたって普通の光景が広がる、現代風の街だ。ブッツァーティ記者はそこを住処のあるミラノと見たが、世界中のどこの都市であっても不思議ではない(東京の地名も文中に出てくる)。現実の写し鏡といってもいい場所なのだが、決定的に欠けているものがある。人間的な情愛だ。人間性がごく簡単に否定される場面がブッツァーティの眼前で次々に繰り返される。ここでの寓意は明らかで、現実と瓜二つである地獄で行われる非道は、人間たちの行いを醜くデフォルメしたものなのだろう。

 この地獄にはキリスト教義ではありえないことにこどもがいて、彼らの哀しみも描かれる。その誤りを指摘しようとする人に向けて作者はこう書くのである。「子どもの哀しみと絶望なしに、どうやって非の打ちどころのない地獄がありえよう?」と。ブッツァーティは日常の出来事をずらすことで非日常の世界を現出させ、そこに読者を誘うという魔の力を持った書き手であるが、こうした一文にも彼の際立った視点を見出すことができる。

『現代の地獄への旅』には、この中篇を含む全十五作が収録されている。訳者あとがきによれば本書にはブッツァーティの作家活動のうち中後期の作品が収録されているという。初期から中期にかけての作品を集めた『魔法にかかった男』と読み比べると、いくつかの点で変化が見られる。一つは恋愛絡みのものが多いことで、特に強い印象を受けたのが「空き缶娘」だ。ある娘が青年に声をかけられることから始まる話だが、破滅の作家ブッツァーティのことだから、甘い蜜のような物語になどなるはずがない。作中時間の進ませ方に独自性があり、二人の関係の変化が早回しで示される。その結果、一方の人間が生気を失い、まるで無機物のような存在になり果てるのである。外見描写を用いずに変身を描くやり方に舌を巻かされる。ブッツァーティの小説はどれも幕切れの一文が恐ろしいのだが、この小説も情景を想像すると凄まじいものがある。

 人間が他の生物や異なる存在に姿を変える話が多いのも特徴の一つである。「空き缶娘」と同じような主題をより直截的な表現で書いたのが「公園での自殺」、そして人間関係が逆転して対になる話が「キルケー」である。前者は「九年前、友人で同僚の、三十四歳のステーファノは、自動車病に罹った」という目を惹く書き出しから始まり、おとぎ話のような物語が展開する。「キルケー」もやはり友人の身に起きた出来事を描くという体で、はるかに年齢が下の女性にはまっているという話を聞き、主人公は彼女の様子を見に行くのである。どちらも寒々しい終わり方をするのだが、訳者あとがきをカンニングしてしまえば、ブッツァーティは五十歳を過ぎたときに「キルケー」を思わせる恋愛をしてそれを実らせることができず、深刻な打撃を受けたのである。その報復として忌まわしい恋愛を書いたようにも見えるが、人が人を思うあまりに常軌を逸するという状態を、作者は一種の自己喪失として受け止めたのではないかと思われる。作者は、自分が自分でなくなってしまうという恐怖体験として恋愛を描くのだ。

 私が最初に読んだブッツァーティは結末が明示されないために想像力が膨らむリドル・ストーリーの名篇「何かが起こった」(岩波文庫『七人の使者・神を見た犬 他十三篇』収録)である。同作は人類が滅亡に転じる瞬間をとらえたものとして読むこともでき、ためにブッツァーティといえば破滅小説の書き手という印象が強い。本書にも「自然の魔力」という短いのに壮大な規模を持った一篇が含まれる。もう一作「老人狩り」は、四十を過ぎた人間が若者に追い回され、暴力によってなぶり殺されるという理不尽な世界を描いており、これも文明が後退し、人心が荒廃し果てた後の世界を見るようである。

「老人狩り」の内容は表題作「現代の地獄への旅」のある章と呼応している。個人の存在がゼロに近くなるまで卑小化される社会の物語なのである。この短篇の結末近くで起きる逆転は、そうした非人間的な倫理観がよしとされる社会では、犠牲者になることからは誰も逃れられないのだという冷酷な現実を読者に示している。そうした場所で暮らす者は、それだけで地獄行きの直通列車に片足を乗せたようなものなのだ。

(杉江松恋)

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