【今週はこれを読め! ミステリー編】現実の非情さを描く『地下道の少女』
文=杉江松恋
重苦しい枷を足にはめられていたはずなのに、いざ走り出してみたらどこまでも駆けていける。
アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム『地下道の少女』(ハヤカワ・ミステリ文庫)の読み心地を喩えると、そんなことになるだろうか。
描かれている内容は重い。興味本位ではなく、登場人物一人ひとりの心を作者が分け合うような書き方がされているし、巻末の「著者より」を見なくても綿密な取材が行われていることは判る。したがって密度は非常に高い。にもかかわらず、軽快に読めてしまうのだ。一気呵成、おまけに後半に近づくにしたがって加速がつく。第一義として飛び切りの娯楽小説である、というのが本書の凄いところなのである。
『地下道の少女』はジャーナリスト出身のルースルンドと元服役囚のヘルストレムのチームが手掛けた長篇ミステリーの第4作にあたる。北欧ミステリーの正統を受け継ぐといっていいこのシリーズには毎回、スウェーデンの現在を、人々が無意識のうちに目を背けようとしている社会問題を主題として取り上げ、物語の中で浮き彫りにしていくという特徴がある。たとえば第一作の『制裁』は人が人を罰するという行為自体に光を当て、誰もが当事者となりうる身近な問題なのだということを読者に認識させた。続く『ボックス21』はシリーズ中でももっとも凄惨な内容であり、人身売買と強制売春の問題を扱っている。
大事なのは、そうしたいわゆる〈社会派〉に分類される作品であっても、ミステリーとしての興趣を第一に作者は考えているということなのである。本シリーズは最初ランダムハウス講談社(後の武田タンダムハウス)から刊行されたが、版元倒産によって翻訳が中断してしまった。シリーズ第5作である『三秒間の死角』が角川文庫から刊行されたのは僥倖であったのだが、これはあっと驚くような謎解きミステリーの傑作だったのである。小説の中にいつの間にか織り込まれていた仕掛け、後になって読み返せばなるほどと思うような伏線が最後に効果を挙げ、読者を綺麗に欺いてくれる。どんでん返しのみで成り立つ小説ではなくて、むろんその前の展開すべてがおもしろいのだが、結末で見えてくる光景の鮮やかさゆえに、一度このチームの作品を読むと、何割かの人は重度の中毒になってしまう。
今回の『地下道の少女』で取り上げられているのは、地下である。無数の人々が暮らす都市にはさまざまな不可視領域が存在する。法の外という意味でもアンダーグラウンドという言葉は用いられるし、文字通りインフラストラクチャが存在する地面の下という意味でもある。それらすべてがこの小説の中では描かれるのだ。
小説の中では二つの時間が進行する。一月九日と日付の書かれた「現在」と、五十三時間前からカウントダウンの始まる「過去」である。「現在」はストックホルム市内のある教会が舞台だ。そこに一人の少女が現れる。彼女は汚れた不潔な身形をしており、心を閉ざして誰とも接触しようとしない。転じて「過去」のほうでは、初めに二つの事柄が描かれる。一つは異常な出来事だ。真冬の街角にバスが停まり、車中から四十三人もの子供たちが吐き出されてくる。彼らは小さなビニール袋を手渡され、文字通りゴミのように捨てられるのである。もう一つの事件は、とある病院の地下で女性の死体が発見されるという事件である。死後数日を経過した遺体は、顔面に大きな欠損があった。ネズミによって喰い荒らされたのである。死因はそれではなく、鋭利な刃物で四十七回も突き刺されたことだった。
この二つの事件をストックホルム市警の刑事たちが扱う。中心になるのはエーヴェルト・グレーンス警部である。シリーズを通しての主人公であり、彼を補佐するスヴェン・スンドクヴィストと、前作『死刑囚』から登場したマリアナ・ヘルマンソンの両警部補もそれぞれのやり方で事件に立ち向かう。特にヘルマンソンにとっては今回の事件は大きな意味を持った。彼女の父親は元ルーマニア人だが、路上に遺棄された四十三人の子供たちもそうだったのである。社会主義政権に端を発する負の遺産、チャウシェスク・チルドレンの問題がルーマニアには存在する。劣悪な環境下で育児遺棄と児童虐待を日常的に体験した子供たちは、街に逃れてストリート・チルドレンになった。中には危険な地上を逃れて地下で生活する者も多かったのである。
だが、ルースルンド&ヘルストレムという優れた合作者たちは、この小説を「国境の外からやってきた悲惨な現実」というような形では書かなかった。チャウシェスク・チルドレンのような問題はなぜ起きるのか。それは自分たちの国と本当に別世界の出来事なのか。本質が実は自身と地続きのところにあるということを、作者は物語の中で明らかにしていくのである。おそらく日本の読者にとっても、この小説に書かれたことは他人事には見えないはずである。誰もが目を背けたがる「地下」を題材とする所以がそこにある。
本シリーズの主人公であるエーヴェルト・グレーンス警部は、心根の優しさとは別に救いがたい保守的な価値観の持ち主であり、そうした感覚から逃れられないがゆえに、自身でも正体がわからない怒りによってがんじがらめにされている。世代が異なり、グレーンスが警察官としては推奨しない性の持ち主であるヘルマンソンは、彼を「かわいそう」と感じるのだ。今回のグレーンスは個人的な事情からさらに頑なであり、その態度が捜査にも影響を及ぼしていく。自身の不完全さに気づいていながら、それを直視することのできない者の矛盾を、グレーンスはまじまじと見せつけてくれるだろう。日本の読者風に言えば「共感しにくい主人公」なのだが、彼を中心に据えた作者の意図を最後には理解できるはずだ。
本シリーズの特徴は、現実の非情さ、不条理さを厳格に描くことである。ハッピーエンドが安易に訪れることはない。本作の前に書かれた『死刑囚』は、政治的解決という「落としどころ」がグレーンスたちに迫ってくるところに凄味があり、目的のためなら個人を押しつぶすことに躊躇しない体制というものの恐ろしさを見事に描いた。本書でもそうした身も蓋もない現実が読者に突き付けられるはずである。視野の隅に追いやっていたもの、甘い夢を打ち砕くものを見せつけられ、心はおののき続ける。にもかかわらず、おもしろいのだ。いささか逆説的ではあるが、物語の力を感じぜずにはいられない。
とにかく手にとってもらいたい。驚くほどの速さで読んでしまうはずだ。最後の一行を読んだとき、「え、これで」と何割かは呟くはずだ。そして次の瞬間、幕切れの持つ重い意味が胸に迫ってくるのを感じるのである。
(杉江松恋)