【今週はこれを読め! ミステリー編】感情を激しく揺り動かす圧巻のスリラー『終焉の日』
文=杉江松恋
まるで暴れ馬のたてがみにしがみついているような乗り心地、読み心地であった。
スペイン・バルセロナ出身の作家ビクトル・デル・アルボルが2011年に発表した長篇『終焉の日』は、読む者の感情を激しく揺り動かす圧巻のスリラーだ。嵐の晩に小舟で海に漕ぎだしたような、と言い換えてもいい。舟はあっという間に波に翻弄される。怒り、悲しみ、困惑、絶望と、ありとあらゆる感情が押し寄せてきて読み手は制御が効かなくなるのだ。オールを手からもぎ取られ、迫りくる波の壁を呆然と眺めながら、これからどうなってしまうのだろうと呟くしかない。まさか読書で難破しかけるとは。
1941年12月のメリダにおける寒々しい駅舎の情景から1981年5月のバルセロナでとある終末期の患者が横たわる病室まで、約40年にわたって繰り広げられる物語である。人間関係も入り組んでいるので、1976年11月のバルセロナを起点に整理するのがいいだろう。主人公はマリア・ベンゴエチュア、弁護士である。ある日彼女は、けちな犯罪者ヘスス・ラモネダの妻プーラの依頼を引き受けた。夫が悪徳警官から暴行され、昏睡状態にあるというのだ。その男、セサル・アルカラ警部を告発し、塀の向こう側へと送りこんだことによって、マリアは名声を得る。彼女はDV夫のロレンソに悩まされてもいたのだが、社会的に成功したことによって彼と別れ、職務上のパートナーであったグレタを恋人として選んで再出発こともできた。すべては丸く収まった、ように見えたのである。
しかし3年後、彼女の頭上には暗雲が立ちこめ始める。元夫のロレンソは国家の治安を司る国防省上級情報センターに勤務していた。その彼が姿を現わし、二つの憂慮すべき情報をマリアに告げる。一つは、昏睡状態にあったはずのヘスス・ラモネダが意識を取り戻し、妻とその浮気相手を惨殺して逃亡したという事実だ。もう一つは、セサル・アルカラが告発されるに至った状況の背後には疑わしい状況があるということ。彼には当時12歳だった娘がいたが、何者かによって誘拐されていたらしい。その娘を人質にされたことで、セサルは不本意な行動をとらされているのではないか。ロレンソの上司であるペドロ・レカセンス大佐に要請され、マリアは刑務所へと赴く。自分が地獄へと送りこんだ相手に会って、秘密を引き出すためだ。その背後には行方をくらませたラモネダの影がちらつく。
ここまでが全体の三分の一までに語られる1980年代パートの明かしてもいい情報である。わからないのは小説の冒頭近くで描かれるメリダ駅の情景、イサベル・モラという女性が夫と家庭を捨てて出奔しようとして失敗し、身柄を拘束される場面との関係だ。実はその1941年12月の出来事こそがすべての出発点なのである。ご存じのとおり1940年のスペインは、前年まで続いた内戦が人民戦線敗北で終結し、ファシスト政権による弾圧が開始されていた。イサベル・モラは、そのファランヘ党幹部の妻なのである。物語の裂け目を除くと、そこにはスペイン現代史の暗部が見える仕掛けになっている。
二つの時間軸が並行して進んでいく。一つは1980年のマリアが狂言回しとなるもので、少女失踪をはじめとする謎の数々が読者を待ち受ける。このパートのもう一人の重要人物は獄中にあるセサルだ。元警官として受刑者たちに命を狙われ、家族とは二度と会えないという絶望の淵に沈んでいる彼の姿は痛ましいものである。1940年の叙述では、ドーナツの穴のように不在のイサベルが語りの中心になる。彼女が巻き込まれた運命は、イサベルだけではなく複数の人々を不幸にしていたのである。その連鎖を引き起こしたのは、イサベルの夫であるギリェルモ・モラの腹心として暗躍するプブリオという男だ。このプブリオは1980年代のパートでは国会議員にまで出世しており、彼こそが悪の黒幕であろうことは最初から読者に示されている。
問題は、そのプブリオの手駒となって動いたのは誰かということだ。語りの中では「彼」として表示される謎の人物は、いったい何者なのか。その正体が明かされた瞬間、読者は目の前にあった断片的な情報が勝手に動き出し、ある形が浮かび上がるのを見るだろう。イサベル・モラを中心とした過去の悲劇とわけもわからずにマリア・ベンゴエチェアが巻き込まれた現代のそれとが、これ以上はない必然をもって結合するのである。すべてが無駄なく組み合わされる伝奇小説の理想形と言ってもいい。
謎を追究する理知的な関心と登場人物の救済を希望する感情が読者の中にあるとすると、本書では後者が常に繰り延べにされる。何が起きたのか、起きつつあるのかは薄々わかっているのに、それをどうしのげばいいのかがなかなか示されないのだ。だから罪もない者たちが容赦なく破滅させられていく。特にイサベル・モラの悲劇連鎖が繰り広げられるあたりの凄まじさたるや。ファシスト政権の車輪が次々に人々を轢き殺していくのだ。全体主義者の手にいったん主権が奪われたら、待ち受けるものは暗黒の運命しかない。その残酷さを描くことは間違いなく作者の狙いであっただろう。
中盤ではやや後方に退いて存在感を失うマリアだが、後半になって再び前面に戻ってくる。そこからは彼女の物語なのである。彼女は夫のDVに苦しめられるだけではなく、ある人物の身勝手さに振り回され、人生を損なわれる。本書の中では男性から女性への暴力がさまざまに形を変えて描かれる。国家による弾圧とその暴力とを対比させているからだ。マリアはその痛みを読者に伝えるために招聘された代弁者でもある。
「私を殺す? 無抵抗な女を殴ることと、迎え討つ気がある女を殺そうとするのではわけが違うと肝に銘じたほうがいい」
そんな啖呵を切るマリアの瞳を、女を殴っておきながら、僕だって手が痛いんだ、と被害者ぶる男たちは直視できないだろう。
本書は10ヶ国以上で翻訳され、特にフランスでベストセラーになったという。人物配置のやり方などにピエール・ルメートルを連想させるところがあり、それもうなずける。凄惨な場面もあり、冒頭で書いたように息が詰まりそうになるような感情も味わわせられる作品だが、決して残酷一途の話ではない。荒波を乗り切った先には晴れ間が見えるはずだ。
(杉江松恋)