【今週はこれを読め! ミステリー編】エリスンの内面が浮かび上がる短篇集『愛なんてセックスの書き間違い』
文=杉江松恋
人の心を覗き込むと、そこにはこういう景色が広がっているのだろうと感じさせられた。
ハーラン・エリスン『愛なんてセックスの書き間違い』(国書刊行会)である。SF叢書〈未来の文学〉の一冊として刊行された本書だが、その内容は犯罪小説あり、性愛小説ありと多種多様である。非SF作品ばかりの短篇集がなぜ〈未来の文学〉に収められたかといえば、本書の収録作を通読すれば、SF作家ハーラン・エリスンの内面が見事に浮かび上がってくるからに他ならない。Love Ain't Nothing But Sex Misspelledという題名の原書は元版が1968年に刊行された。それがペイパーバックス化された際、エリスン自身によって収録作の入れ替えが行われたのである。編者を兼ねる訳者の一人、若島正がそのペイパーバック版を意識して独自の編纂を行ったのが本書ということになる。
エリスンは尖鋭的な作風で知られたSF作家だが、実は犯罪小説方面の書き手としても評価する人が多い。短篇集『死の鳥』所収の「鞭打たれた犬たちのうめき」「ソフト・モンキー」といった作品が訳された際の掲載誌は「ミステリマガジン」であり、他には見られない求心力のある物語に当時の読者は魅了されたのだった。本書の収録作でいえば、巻頭の「第四戒なし」が本道をいく犯罪小説で、季節労働者の〈おれ〉が父親に対する殺意に執着する少年と出会うところから話が始まる。エリスンの小説はいつもそうだが、肉切り包丁を構えて突っ込んでくるような出だしでまず心を掴まれる。
「父さんのこと、殺す」と少年が言った。
「見つけたら、名乗ったり、挨拶したり、そういうことはしない。ただ近づいて殺す」少年は背が高く、やせていて、緑色の瞳は飢えたようだった。
本篇は最後に二回ほど話が転回して見える箇所がある。ミステリーのプロットとしてはもちろん満点の出来なのだが、小説の価値はそれよりも、真相を知った〈おれ〉が「孤独な者は知らない。孤独な者には知りようがない。彼らはただ旅路を行き、歩きつづけるだけ」だと絶望に打ちひしがれる結末にある。人間の心には言語化が難しいほどに未分明な情念が渦巻く領域があり、主人公はそこに何の準備もなく直面してしまうのである。その重さが彼を絶望させた。
混沌を描いて異様な迫力を生んでいるのが「盲鳥よ、盲鳥、近寄ってくるな!」だろう。舞台は第二次世界大戦下のバン・ド・ブルターニュで、偵察に出た31歳のアーニー・T・ウィンズロー曹長は、ナチス・ドイツ兵がいっぱいの敵地で孤立する。ここでエリスンは、フラッシュバックの技法を活用している。冒頭でいきなり、ドアに鍵をかけられて締め出しを食った少年の悲鳴が「お母ちゃん、お、お願い、お母ちゃん、入れて、入れてよ、お母ちゃん、い、いじわる、し、しないで、お母ちゃあん!」と綴られてびくりとさせられる。これはアーニーが子供のころに母親の財布から小銭を盗んで仕置きをされた記憶なのだが、それ以外にも頭部を負傷して一時的に視覚を奪われ、撤退病院に運び込まれたときのことが出てくる。それらをつなぐものは闇だ。敵から逃れるために必死になって闇の中に逃げ込んだアーニーの意識は混乱し、過去と現在がない交ぜになっているのである。彼のそうした生の意識が編集されず読者にはぶつけられる。地下道を彷徨う体験の気持ち悪いこと、怖いこと。
こうした意識の流れを描き、さらにそれが音楽的に流暢であるのがエリスン文体の魅力である。若島の解説から借りると、エリスンは編集者時代にスタンダップ・コメディアンのレニー・ブルースにコラムを担当させたが、実際には口述を彼が筆記していたのだという。レニー・ブルースのシック・ジョークを思わせる、他者と自己とを均等に傷つける軽口をエリスンは本書で多用しているが、それはこの雑誌編集者時代に培われたものだろうか。
本書には二篇の音楽小説も収録されている。一篇は「ラジオDJジャッキー」で、一つの番組を放送中のDJの喋りを中心に構成された会話劇だ。音楽を流している間にゲストに来ている愛人の歌手と本音の話をするのがおもしろく、それが結末の落ちにつながる。もう一篇は有能なジャズ・ピアニストと、彼のマネージメントを引き受ける男の話「クールに行こう」で、浮き立つような喋りでジャズの演奏について語られ、犯罪小説としての顔が浮かび上がる終盤まで一度として停滞することがない。
これも解説の受け売りになるが、ハーラン・エリスンは1954年にバロン団という少年ギャングに10週間潜入し、その体験を元に非行少年ものの犯罪小説も手掛けるようになる。長年疑問だったのは、非常によく似た名前のハル・エリスンという作家がいることである。ハル・エリスンは日本版「マンハント」などにも訳載された非行少年ものの名手だった(ハヤカワ・ミステリから『警察にはしゃべるな』という短篇集が出ている)。この両エリスンの関係がよくわからなかったのだが、若島によればハル・エリスンを成功モデルとしてハーラン・エリスンは非行少年もの執筆を思いついたとのこと。本書には「ガキの遊びじゃない」「人殺しになった少年」と二篇の非行少年ものが収録されている。
後者は、1954年に『暴力教室』を書いてこの分野の先駆者となったエヴァン・ハンターが、エド・マクベイン名義で発表した〈87分署〉ものの長篇『死にざまを見ろ』を思い出させる。または黒人刑事ヴァージル・ティッブスを登場させたジョン・ボールの『拳銃をもつジョニー』を。ご注意いただきたいのは、人の生の感情を描くエリスンゆえ、マクベインやボールほど後味を良くすることには注意を払っていない点である。生々しく、舗道に放置されたごみ缶と、流れた血が混じり合ったような腐敗臭がする。
本書で特にお薦めしたいのは、最も長い「ジェニーはおまえのものでもおれのものでもない」だ。恋人がルームシェアしている女性が妊娠させられたことに義憤を覚えた主人公がくだんの男を成敗してやる、といきり立つ。その出だしはいいのだけど、次第に話は怪しい方向に流れて行って、主人公自身の内面にある腐った部分、そして情欲が首をもたげてくるのである。主人公が自身の偽善を意識しつつも妊娠した女性のために世話を焼く、という中盤の展開がたまらない緊張感を醸し出している。
エリスンは人が表に出したがらない内面に関心を持つ作家だったと思うが、本書ではそれが自身にも向けられる。「パンキーとイェール大出の男たち」は、前述の非行少年取材をした若き日を偽悪的に振り返ることから話が始まるし、「教訓を呪い、知識を称える」は功成り遂げた作家が娘ほども若い女性をベッドに引っ張りこもうと躍起になる話で、これも本人の過去が反映されているらしい。後者でおもしろいのは最後に変てこな展開が準備されていることだ。ミステリー的などんでん返しともちょっと違い、モニターを急に暗くして、そこに写っている視聴者の顔を揶揄うような趣向とでも書いておこうか。さらに「ジルチの女」は、エリスンが別名義でポルノ小説を書いていた時代のことを下敷きにしており、昨年の話題作であったドナルド・E・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』を連想させる。
題名になっている「愛なんてセックスの書き間違い」という文章は自己言及的な「パンキーとイェール大出の男たち」と「教訓を呪い、知識を称える」に続けて出てくる。この二篇が作家を主人公にしているだけに、一見露悪趣味から来た言葉のようだが、もう少し深い意味がありそうだ。愛と信じていたものが実はもっと散文的なもの、本能の反映にすぎない無価値なものだったという幻滅、人間とはその程度の駄目な存在なのだという現実主義者の視点がそこに働いているのではないだろうか。自分の心を覗き込んで、なんだ、ガラクタばかりじゃねえか、と呟くエリスンの姿が脳裏に浮かんで消えた。
(杉江松恋)