【今週はこれを読め! ミステリー編】物語に呑み込まれるミステリー『国語教師』
文=杉江松恋
ひさしぶりに物語を怖いと感じた。
といっても怖い物語を読んだのではない。物語というもの自体を怖いと感じたのだ。
物語には上書きという機能がある。一つの現実が書き換えられ別の物語になって流通していくようになる。物語は現実を追認するだけのものではない。時には物語が現実以上に力を持ち、人の生き方を左右することもある。もちろん物語から力をもらった、と明るく宣言できる人がいる。しかし物語によって自分の人生が掻き消されたと感じている人もいるだろう。それほどに物語は力を持っている。人間が生み出した、もっとも危険な道具が物語なのかもしれない。
オーストリア・リンツ出身の作家ユーディト・W・タシュラーが2013年に発表した『国語教師』は、ドイツ語圏におけるミステリー小説最高の栄誉であるフリードリッヒ・グラウザー賞(ドイツ推理作家協会賞)長篇賞を2014年に授与された作品である。同賞の過去受賞作としては、『朗読者』のベルンハルト・シュリンクの作品『ゴルディオスの結び目』(小学館)、風変りなベンチャー企業を起こした若者たちが犯罪に巻き込まれていくゾラン・ドヴェンカー『謝罪代行社』(ハヤカワ・ミステリ)などがある。まだ邦訳は少なく、全貌を掴みがたい賞だったが、今回の作品によってさらに期待論が高まるのではないか。
ページをめくり始めたときには、『国語教師』は単純極まりない構造の話に見えた。主要な登場人物は二人である。一人は、作家のクサヴァー・ザントだ。彼は、ティロル州教育省文化サーヴィス局が企画した「生徒と作家の出会い」に参加する十五人のゲストの一人になった。作家が一週間学校を訪問し、生徒と創作ワークショップを催すというものだ。クサヴァーは訪問先の学校(ギムナジウム)の担当国語教師に連絡をとる。偶然にもその相手は、かつて彼が同棲していた相手であるマティルダ・カミンスキだったのである。彼女がもう一人の登場人物だ。
懐かしい相手と連絡が取れたクサヴァーは、ワークショップの相談などそっちのけでマティルダと旧交を温めようとしだす。その模様が文通のやりとりで描かれるのだが、クサヴァーの喜びぶりとは裏腹になぜかマティルダは体温低めの対応だ。
その理由はすぐにわかる。なんとクサヴァーは、16年前のある日にマティルダとの二人の住まいを突如として引き払い、姿を消していたのだ。捨てたのか、ひどいやつ。しかもそれだけではなく、彼には当時並行して交際している女性がいて、そのおなかにはすでに新しい生命が宿っていた、といった事実が次第に明らかになってくる。つまり二股だったのである。さらにひどいことに、当時のクサヴァーはマティルダが子供を授かりたいと熱望していたにもかかわらず気持ちに応えようとはせず、頑なに避妊を続けていたのである。
なんて不実な男。そんなひどいやり方で捨てた女をもう一度口説こうとするなんて。地獄に堕ちてしまえ。というかそんなひどい男が主人公の話なんて、読みたくない、読むものか。
ここまで紹介を呼んできて、そんな風に思い始めた読者も多いのではないか。だが、お待ちいただきたい。前述したように本書は、ページをめくり始めたときには「単純極まりない構造」の話、つまり駄目男と捨てられた女の関係を描いた小説に見える。だが、話が進行していくにつれて、それだけでは収まらないもののがあることが判明するのである。こんな屑男はひどい目に遭えばいいのに、とうんざりしながら読み進めていた私も、恐るべき話の構造に気づいて愕然とさせられた。
本書の叙述は、マティルダとクサヴァーが交わす言葉のやりとりが中心になっている。再会する前は手紙の文面であり、再び顔を合わせたあとは会話が綴られるのである。現在進行形の話はそうやって描かれるのだが、二人を立体的に描き出すためのスケッチにあたる章が並走することになる。憎悪の塊のような母親に育てられ、自立して生きたいという願望を強くもっていたマティルダ、大学でクサヴァーという理想の男性に出会い、彼に気に入られよう、役に立つ人間と思われようと努力したマティルダが一方にいる。もう一方にいるのは、創作者になることを志し、そのためにはさまざまな人を利用してきたクサヴァー、現実の人生よりも物語を大事にしてきたクサヴァーである。
こうして二人の心理が掘り下げられるだけではなく、さらに二つの叙述が入りこんでくる。一つは過去に関するものだ。出会う前のマティルダとクサヴァー、十六年会わなかった間のマティルダとクサヴァーの身にはそれぞれに何が起きていたのか。もう一つは「マティルダがクサヴァーが互いに語って聞かせる物語」である。かつて、クサヴァーが成功を収める以前には、彼が物語を紡ぐために二人で協力してその元になるものを作り出していた。マティルダが原型を示し、クサヴァーがそれを完成させた物語もあるのである。そうした協業の中で語られた物語や、現在の彼らが相手に語って聞かせるものが、切れ切れに示されていく。その中には小説全体の中でどういう意味を持つのか初めは判らないものもあるのだが、やがて収まりどころが見えてくる。特に不気味なのは再会後のマティルダがクサヴァーに語って聞かせる物語であり、それが意味するものが見えた瞬間に、現実の蓋が外れて向こう側から黒い水が溢れてくるような幻景を覚えた。現実が塗り替えられる瞬間が到来するのかと私は覚悟したのである。
全体の四分の三が経過したところで始まる「クサヴァーが語りなおすマティルダの物語」が本書のクライマックスといえる。以下の文章が章の初めに置かれている。詳細は書かないが、おおっと私が興奮した、その感じをご理解いただけるのではないだろうか。
クサヴァー 君の物語にふさわしい結末を考えるだけじゃない。物語全体を新しく語りなおしてやるよ。タイトルは『国語教師』。よければ一緒に作っていこう。途中で付け加えることがあれば、口をはさんでくれて構わない。
ここまで書かなかったが、本書の背景にはある事件が存在する。それが彼らの人生にいかなる影を落としているのかは物語後半に至ってもなかなか見えてこない。そちらの成り行きももちろんだが、マティルダとクサヴァーが繰り広げる物語の駆け引きにどのような決着がつくかも大いに気になる。二人が物語を語り合うのは、別の行為、別の人間関係を象徴的に代行しているようにも見える。物語の初めに予想した駄目男への復讐という主題はもっと大きなものに変わっていき、マティルダとクサヴァーをまったく他人とは思えないような親近感、自分が小説に参加しているような臨場感が湧き上がってくる。つまり『国語教師』という物語に私は呑み込まれていったのだ。恐るべき読書体験、恐るべき一冊である。この本を読んだ人は、その中で自身が見聞したものを絶対に忘れないはずだ。
(杉江松恋)