【今週はこれを読め! ミステリー編】不安に満ちたサスペンス『ケイトが恐れるすべて』
文=杉江松恋
初めての街で暮らすとき、誰もが現実感を少し失う。
目の前で展開されている出来事が映画の一場面のように感じられる。
街頭ですれ違う人々が、舞台の書き割りのように見える。
生の流れさえもいっとき途絶える。世界から切り離されたという孤絶感。
ピーター・スワンソン『ケイトが恐れるすべて』(創元推理文庫)はそんな齟齬の感覚を味わわせてくれる見事なサスペンスだ。
ロンドンの住人であるケイト・プリディーは、生まれて初めて大西洋を渡り、アメリカはボストンの地にやってくる。又従兄のコービン・デルのロンドン転勤が決まり、六か月間住居を交換して彼のアパートメントで暮らすことにしたのだ。
コービンの住まいは立派なものだった。しかし、新生活の一日目から不安な出来事が起きる。隣の住人らしいオードリー・マーシャルという女性と連絡が取れなくなったと言って、その部屋の扉を叩いている訪問者を見てしまったのだ。不吉な予感は的中する。オードリーが室内から死体で発見されたのである。殺されたらしい。
何もわからずにボストンに投げ出されたケイトは、それでも新しい生活を始めようとする。初めて少し心を動かされた男性は、向いの棟の同じ階に住んでいるアラン・チャーニーという人物だ。会話をして別れた後、ケイトは彼の顏をスケッチする。彼女は〈名前記憶魔〉と呼ばれたことがあるほど人の名前を覚えるのが得意で、同時に顔も記憶に留めることができる。街を歩いているときに、ジャック・ルドヴィコと名乗る男性に出会う。ジャックはオードリーの友人であると言い、その身に起きたことを深く嘆いている。ケイトは彼の顏も描く。
ケイトはコービンがオードリーの死と関係があるのではないかという疑念を持ち始める。アランによれば彼はオードリーと情交を持っていたはずなのに、事件のことを知らせると、故人についてはほとんど知らないと言ってきたからだ。しかしそのアランも、オードリーに執着を持っていて、日常的に部屋を窃視していたらしい。信頼していい人間が誰もおらず、確かなことが何もないという状況の中で、ケイトは追い詰められていく。
サスペンド、読者を宙吊りにする感覚はミステリーの基本だ。川出正樹氏解説からの孫引きになるが、スワンソンは十歳のときにアルフレッド・ヒッチコック監督『ダイヤルMを廻せ!』でミステリーに開眼し、古今の小説や映像作品を観賞しまくっているマニアなのだという。アランが窓越しにオードリーの私生活を見ているという設定は言うまでもなくコーネル・ウールリッチの短篇をヒッチコックが映画化した『裏窓』を連想させるし、『ふくろうの叫び』(河出文庫)などのパトリシア・ハイスミス作品に出てくる、他人の人生を窃視する者というモチーフも本書には盛り込まれている。とにかく読者を居心地悪くし、いたたまれない気分にさせる。そうすることが最高のもてなしなのだとスワンソンは承知している。
巧妙なのは、主人公のケイトをパニック発作の持ち主にさせていることだ。そうなったのは、かつて付き合っていた男性のせいである。異常な嫉妬心の持ち主だった男はケイトを束縛しようとし、ある日極端な行動に出て彼女に心の傷を与えた。その壊された人生をケイトは修復しようとしているのである。だからこそ見るものすべてに不安を感じ、誰も信じることができないという設定が活きてくる。女性性のいわれなき蔑視や嫌悪、いわゆるミソジニーが物語の根底にあり、ケイトはその犠牲者なのだ。痛めつけられることに対する恐怖についての小説であると言ってもいい。
本作のもう一つの特徴は、ネットワークの発達によって個人間の距離が異常に接近した現代の世相が大前提になっていることだろう。直接顔を合わせたことがないケイトとコービンはメールを通じてやりとりをする。ボストンとロンドンは大西洋に隔てられた遠い場所なのに、同じ市内にいるような気軽さで連絡を取って、衣類乾燥機はどこにあるの、などと問い合わせることができる。現代人はこの便利さを決して手放すことはないだろう。それどころかSNSでは、アカウントを通じてしか相手を知らない間柄であっても、幼い頃からの友人であるかのように親しくやりとりをすることが当たり前になっている。私生活をネットで公開するのが普通になった世界では、自分自身を構成する要素の一つに、見ず知らずの他人との関係が含まれていることも珍しくない。個人という枠組が崩壊し、そこに外部が入りこんでいるのだ。そういう世界だからこそ起こりうる事態を想像力豊かにスワンソンは描いた。
とにかく不安になる小説である。前作『そしてミランダを殺す』(創元推理文庫)は四人の語り手が交替する構成になっていたが、本書でも実は複数視点からの叙述が行われる。語り手が替わると新しい事実が判明し、それまでとは話の見え方が変わってくる。前作よりもその技巧はこなれており、話の展開に自然な形で織り込まれているので、読者は何度も不意を衝かれるはずだ。行く先の見えない話を楽しんでもらいたい。
私ごとで恐縮だが、実はこの本を二冊買った。一冊目は半分まで読んだところで上りの高崎線の中に置き忘れてきてしまったのだ。あれは上野東京ラインの東京行きだったか、それとも湘南新宿ラインの小田原行きだったか。連絡すれば取り戻すこともできたのかもしれないが、あえてそのままにしておいた。行く先を知らないあの列車の中で『ケイトが恐れるすべて』を拾った誰かは、前半だけにやたらと付箋が貼られた本を見て何を思っただろうか。
(杉江松恋)