【今週はこれを読め! ミステリー編】日常が断絶し、不安が形をとる短編集〜ブッツァーティ『怪物』
文=杉江松恋
世界が抱えている根源的な不安を形にするとディーノ・ブッツァーティの小説になる。
北イタリアの小都市ベッルーノに生まれたこの作家は、新聞記者として働くかたわら創作にも手を染め、多くの小説や戯曲を残した。彼の小説は時に寓話の色彩を帯びることも多く、突如として街中に出現した大穴を覗きこんでいるような居たたまれなさを読者に感じさせる。この欄でも何度か取り上げて来た東宣出版の未訳作品短篇集が第三巻の『怪物』でついに完結したので、この機会に既刊『魔法にかかった男』『現代の地獄への旅』と併せ、ぜひ読んでもらいたい。全18篇、どれも文句のない良作揃いだ。
表題作は、ゴッジという家で家政婦兼家庭教師として働くギッタ・フライバーという女性が、不用品を片付けておく屋根裏部屋で恐ろしい怪物を見つけてしまうことから始まる。「棍棒のような細長い形をしていて、はっきりとした手足がなく」「頭頂部には、気味の悪い瘤が突き出ていて、目か口とおぼしき穴がいくつか開いて」いるという姿にまず嫌悪感を掻き立てられるのだが、もっと薄気味悪いのは怪物について話した家の人々がみな、ギッタが何か勘違いをしたのだと言って取り繕おうとすることだ。自分が見間違いをしたとは思えない家庭教師は、勇気を振り絞って再び屋根裏部屋に向かうが、扉には鍵が取り付けられ、中が覗けなくなっていた。
世界の秘密を発見してしまった者が、そのために今までとは同じ自分でいられなくなる。確かな足場が急に消え失せ、たった一人で浮遊しているような感覚を味わうことになる。「怪物」とはそういう小説だ。この日常の断絶こそがブッツァーティ小説を特徴づける独自の感覚なのである。集団によるリンチの理不尽さを描いた「挑発者」の残忍さを見ていただきたい。行方不明の息子を雑踏の中で見かけたと思い、後を追いかけようとした教授が突如暴力の渦に巻き込まれてしまう。この小説は、カメラが引いて主人公から永遠の距離に遠ざかっていくような終わり方をするのだが、その構図が内容の非人間性をさらに印象づけるのである。
収録作のうちでは「流行り病」にも似た味がある。コロナ・ウイルスがパンデミックするか否かという話題が世間を騒がせている時節であるが、本作に出てくる流行り病は奇妙極まりないものだ。官製インフルエンザ、しかも「厭世主義者や、懐疑主義者や、反体制派や、あらゆる場所に巣くう祖国の敵だけに感染する」のだという。暗号解読課で働くエンニオ・モリナス大佐は、このウイルスについて聞かされた日から心の平穏を失っていく。職場の同僚たちは次々に病魔に蝕まれて去っていく。自分も高熱を発しながら、「祖国の敵」だと見なされるのを怖れる大佐は、衰えた肉体を鞭打って出勤するのだ。急に出現した落し穴に足をすくわれまいともがく人間の姿が滑稽かつ哀れ極まりないものとして描かれる。
汚辱という切り口で人間を観察した作品もいくつか収録されている。「最後の血の一滴まで」は、勇猛果敢な人物と思われた将軍が、島の危機に瀕して真の顏を見せてしまうという話だ。ブッツァーティの小説では登場人物が人間から別の存在に変身してしまうことがよく起きる。内面の変化が、外見にまで影響を及ぼすのだ。本編でも将軍はあるものに変身する。威風堂々たる姿だった前身との落差が、いっそう惨めさを際立たせるのだ。
「偽りの知らせ」は、ある戦争に参加した若者たちの物語だ。連隊を率いるセルジョ・ジョヴァンニ伯爵がアンティーオコの郊外まで戻ってくると、サン・ジョルジョの村長だという老人が待ち構えていた。村から参戦した若者たちを郷里の英雄として凱旋させるため、出迎えにきたのだ。しかし伯爵が彼に告げた言葉は、村長にとって意外極まりないものだった。知りたくない事実をつきつけられてしまった者はその重さを受けとめかねて苦悩する。村に帰った彼がひとびとと交わす会話の裏に苦衷が滲むのだ。結末で村長の脳裏に浮かぶ情景はまるで時が止まったようで、その中で己の恥辱を晒し続ける者たちの姿が残酷に映し出される。
陰々滅々とした作風のみだと思われてはブッツァーティに気の毒だ。時に壮大な法螺話を書くこともある作家なのである。本書で言えば「エッフェル塔」か。ご存じのとおり1889年に開催されたパリ万国大博覧会の目玉として築かれた高層建築で、先端まで含めれば324mの高さを持つ。しかし本当はそれどころの高さではない塔だったのだという話で、建設に携わった男の視点から、そのとんでもない建築の一部始終が描かれる。神話めいた構造を帯びた物語で、ぬけぬけとよくこんなものを書くものだ、と感心させられる。これもブッツァーティの一面なのだ。
ミステリー読者にいちばん好まれそうなのは「可哀そうな子!」なのだが、あえて詳述は避けておこう。とにかく短篇小説が好きな人には絶対のお薦めといえる一冊で、これを読まずにどうする、と私は思う。訳者あとがきによれば、未訳作品はまだまだ残っているのだとか。ブッツァーティ、一度知ると二度とそれなしでは生きられなくなる作家である。
(杉江松恋)