【今週はこれを読め! ミステリー編】すべてを描く作家のノワール『コックファイター』
文=杉江松恋
あらゆる中毒者のために。
チャールズ・ウィルフォード『コックファイター』を(扶桑社ミステリー)をミステリーという枠で紹介するのは適切ではない。美術に関する素養が活かされた『炎に消えた名画』や、その精妙なプロットが多くの読者を感嘆させた『拾った女』など、数々の名作を残してきた作家である。1919年生まれのウィルフォードは、作家生活のほとんどを不遇なまま送り、晩年になってようやく相応の評価を受けるようになった。1980年代のパルプ・ノワール・ブームの中で再発見されたのだ。ブームの立役者となったジム・トンプスンにはジェフリー・オブライエンにより〈安物雑貨店のドストエフスキー〉の称号が送られた。トンプスンは現在も文遊社で著書の刊行が続いており、ミステリーの周縁部に属する作品も読めるようになってきた。ウィルフォードにもぜひ、同様の形で光が当たってもらたいのだが。
何度も書くが、中毒者のための小説である。何に。自分の魂に。願望が、欲望が肥大しすぎて他のものが見えなくなった人間は、自分自身であることのみに執着するようになる。一つの道筋を歩くこと以外には何も求めなくなり、やがてはそれ以外のすべてを憎み、世界から消し去ろうとするようになる。
本書の主人公フランク・マンスフィールドはプロの闘鶏家だ。鶏を飼育し、他の鶏と闘わせる。この競技に命を捧げた男には、ある目標があった。ほんの一握りの者だけが手にできる栄誉、最優秀闘鶏家賞のメダルを手に入れることである。ある失敗から慢心と、それからくる饒舌こそが敵であると確信したフランクは誓いを立てる。念願成就のその日まで、決して喋らないと。ゆえにこの小説の主人公は、全篇を通して無言である。メモや身振り手振り以外の手段を使わないので、周囲の人間は彼が失語症だと思っている。魂胆があって喋らずにいるだけだと知っているのは一部の者だけだ。
パルプ・ノワールの巨匠として同じく尊崇の対象となっているジム・トンプスンとチャールズ・ウィルフォードだが、実は用いる技巧がかなり違う二人である。トンプスンのそれは視点の集中とでも言うべきか。読者の視線は作者によって誘導され、ある一定の場所、方向だけを見るように仕向けられる。その結果生じる歪んだ視界こそがトンプスンの世界だ。レンズそのものが壊れているために、登場人物たちのねじれた言動が調和して見えるのである。ウィルフォードは違う。時に偏執的といってもいいほどにウィルフォードは細部の描写に力をそそぐ。視界のすべてにピントが合っているが、そのため逆に平板にさえ見えてしまう。すべてが並列に扱われ、丹念に画布の上に描きとられていく。そのカメラアイが最も効果的に用いられたのが、この『コックファイター』という作品なのである。
物語は、フランクが鶏のくちばしを削る場面から始まる。その闘鶏、サンドスパーが傷ついて弱っているように見せかけ、試合の賭け率を吊り上げる算段なのだ。不運続きのため、フランクの全財産はこのサンドスパーと住んでいるトレーラーハウスだけなのである。すべてを賭けて勝負に臨んだフランクであったが、敗れてしまう。
勝負は勝負とあっさりフランクは負けを認め、トレーラーハウスの権利も相手に譲る。同棲相手、というより家出をしてそのまま住み着いてしまった少女・ドディも備品の一部としてやってしまうのだ。そして次の勝負で闘わせる鶏と、種銭を手に入れるために旅に出る。
序盤から中盤にかけてはこの放浪の旅がいくつかのエピソードをつなぎ合わせるような形で書かれていく。やがて彼は故郷であるジョージア州に戻ってくるが、それは自分を騙して父の遺産を掠め取った弟から金を取り返すためだ。このとき読者は、彼にメリー・エリザベスという婚約者がいることを告げられる。メリー・エリザベスは南部の娘らしく信心深く、旧い道徳を守っている女性だ。すでにフランクとは体の関係があるが、それをすることを「例の場所に行く」という言葉でしか表現できない。例の場所とは松林の中にあるちっぽけな水溜りで、二人は常にそこで交わるのである。一度フランクが週末のドライブに誘ったところ「わたしのこと、いったいどんな女だと思っているの?」と泣かれた。彼女にとって自分のいる世界でいいなずけと愛を交わすことと、モーテルでセックスをするのは別物なのだ。
旅の中途でフランクは、バーニス・ハンガーフォードという金持ちの未亡人とも関係を持っている。バーニスには自分が闘鶏家だとは教えず、プロのギタリストだと思わせたままで誘惑したのだ。途中で金がなくなったフランクはギターを弾いて金を稼ぐのだが、4ページに及ぶ演奏場面はこれが音楽小説だと言われても納得するほどの充実ぶりで、さすがはすべてを描く男・ウィルフォードである。おそらくフランクは、自身の才覚で何かを成し遂げるという情熱と執着の塊なのであり、それに魅せられるのがバーニス、そうした自分主義から最も遠いところにいるのがメリー・エリザベスなのだろう。予想通り、フランクはこの二人のどちらかを選ばなければならなくなる。
念願の金を手に入れ、闘鶏家として再出発を切ってから終盤に至るまでの熱に浮かされたような展開については、あえて省略するのでぜひ読んでもらいたい。読み終えるころには、すべてを描く男によって、闘鶏という競技のことを一から百まで教え込まれているはずである。類例のない闘鶏小説であり、これを読めば他を求める必要はないのではないか、と思わされるほどに何もかもが書かれている。鶏の飼育から訓練、実際の競技の進行やルール、業界を成り立たせている勢力均衡図、世間の人が闘鶏を見ている視線など、何もかもが。物言わぬフランク・マンスフィールドは、そのすべてを体現した主人公なのだ。世界そのものをてのひらに乗せ、それを覗きこむという他にない体験を本書の読者はすることになる。
ここまであまり闘鶏そのものの描写について触れていないので、どんなものだか気になる人もいるだろう。拾い読みするなら224ページからをお薦めする。新しく鍛えることになった鶏の勇敢さを試すためにフランクが自分で「ローマ式」と呼んでいる方法を実践する場面だ。ちなみに一般の闘鶏家が手堅い方法と考えているのは「雄鶏の体中をアイスピックで突く」というものである。「深さ四分の一から半インチくらいまでぶっ刺」し「翌朝そいつがまだほかの鶏と闘おうとすれば、たとえ仰向けに倒れてくちばしで突つくくらいしかできなかったとしても、その個体は勇敢だと見なされる」というのだが、それより過激なローマ式って、なんだよ。
(杉江松恋)