【今週はこれを読め! ミステリー編】人間の残酷さを浮かび上がらせる作品集『おれの眼を撃った男は死んだ』

文=杉江松恋

  • おれの眼を撃った男は死んだ
  • 『おれの眼を撃った男は死んだ』
    シャネル・ベンツ,高山 真由美
    東京創元社
    2,080円(税込)
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 シャネル・ベンツ『おれの眼を撃った男は死んだ』(東京創元社)には、優れた短篇に与えられるO・ヘンリー賞を2014年に獲得した「よくある西部の物語」を含む10の小説が収められている。知っている限りベンツが邦訳されるのはこれが初めてだ。テネシー州メンフィス在住で、ローズ・カレッジで教鞭を執っているという以外の経歴はわからない。

 本を一目見た瞬間、『おれの眼を撃った男は死んだ』という題名に心を鷲掴みにされた。いや、されるだろう普通。2017年に本国で出た原書もThe Man Who Shot Out My eye Is Deadなのだが、こういう題名の短篇は本書には入っていない。これは「死を悼む人々」という話の中に出てくるフレーズなのだ。作者かエージェントか編集者かが、これを題名にしたら読者はびびりまくるぜ、と思いついたのだろう。やるな。

 純粋なミステリーの枠に収まるような小説ではないが、収録されているのはすべて死と暴力を扱った作品である。たとえば上にも書いた「よくある西部の物語」は、兄と娘の物語である。親が亡くなったために引き取られたおじの一家で、ラヴィーニアは虐待を受けていた。そこに会った記憶さえない兄のジャクソンがやってくる。ラヴィーニアは彼と一緒に行くことを選ぶのである。

 本の題名を見ただけで心ある読者ならピンと来るはずだが、この一篇の冒頭数行を読めばそれは確信に変わる。引用しよう。



----兄はあたしを迎えにきた最初の男だった。酒をしこたま飲んで、ニューメキシコの売春宿の外で、素っ裸の姿をあたしの目のまえにさらした最初の男でもあった。約束をしたら、それを守るだろうとあてにできる最初の男でもあった。



 このリフレインが生みだす効果をベンツはよく承知しており、他の短篇でも使用している。何が起きているのかがわかれば文章はそれでいいと考えている作者ではないようだ。時系列があえて混乱させられているために事実関係を把握しにくい「外交官の娘」のような作品もある。同作ではっきりわかるのは暴力の痕跡、そしてよるべなき者を引き合わせる力の強さ、孤独によってできた真空の虚ろさだ。どの短篇にも印象的なモチーフがいくつか示される。それのざらざらとした手触りを確かめているうちにいつの間にか文章は進んでおり、突如待ったなしの場面に立たされている自分を読者は発見するのである。たとえば「思いがけない出来事」の74ページ、「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」における147ページ。気が付いたら空中に突き出た板の上にいた。落ちたらきっと鮫の餌食だ。

「よくある西部の物語」の話に戻る。引用した部分はラヴィーニアの回想であって、物語の最後にはそこに戻ることになる。円環や枠物語の構造なども本書では多用されている技巧だ。そのためにパロディの技巧が用いられているのが二篇目の「アデラ」で、副題に「最初は"黒い航海"として知られ、後に"心臓という赤い小箱"として再版された物語 一八二九年、作者不詳」とあるように、十九世紀小説の模倣が行われている。

「アデラ」がこうした形式で書かれているのは、人間のある残酷な一面を間接的に浮かび上がらせるためである。どんなぼんくらな読者でも見逃さないとは思うが、この小説の主語が「わたしたち」という複数形になっていること、そして世間知らずの少女の視点で書かれていることには意味がある。話が後先になったが「よくある西部の物語」は主人公が馬で移動していることからもわかるように十九世紀の出来事であり、法律が未整備で倫理観が現在とは異なっているからこその野蛮がそこでは描かれる。「アデラ」に書かれているのはまた違った種類の野蛮さであり、その残酷さはより現代に近いものがある。「わたしたち」って誰だよ、って話だ。

 本書には「アデラ」のように、過去に刊行された記録が時代を超えて再版されるという体のものが多い。「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」もそうで、副題は「アメリカの奴隷----奴隷自身による著書」である。歴史的過去を扱った小説にはたいてい、鏡像としての現在を浮かび上がらせる狙いがある。「オリンダ・トマス」などはまさにそうした作品で、ここに書かれたことは形を変えて今も繰り返されている、と読みながら確信した。副題からもわかる通り奴隷制度廃止前の時代を書いてはいるが、自分が偽善者であることに気づかない男の小説だからである。

 主人公のオリンダは黒人だが、フランス語の読み書きができたことからフレデリック・クローフォードという男に買い取られた。オリンダに詩才を発揮させることで人種差別撤廃の啓蒙をするつもりなのだ。二人が奴隷市場のあるニューオーリンズにやってくることから話は始まる。当然ながら恐怖を感じるオリンダの「いくじのなさにたいそうがっかりし」たフレデリックは「その経験からすばらしい詩を書きたまえ」と励ますのである。ああ、もう嫌な予感しかしないこいつの態度。

 女性に対する男性の暴力、人権に対する尊厳が微塵もない世界で突如として訪れる死が十篇にはくり返し出てくる。暴力小説であり、冒頭の「よくある西部の物語」のように、銀行強盗や暴動などが描かれる作品がほとんどなので、犯罪小説集と言ってもいいだろう。

「死を悼む人々」はその中でも屈指の理不尽さが描かれる作品であり、売春宿を営む父親と、彼の指示に流されるままの人生を送ってきた娘のいびつな関係が話の柱になっている。背景にあるのは次々に人命を奪っていく伝染病の流行で、そもそも冒頭からして、夫の遺体に主人公が添い寝する場面から始まるのである。死の予兆が全篇を覆い尽くすが、理不尽さに塗れた現実よりはそちらのほうがよほどましと思わされる瞬間さえ出現する。動の「オリンダ・トマス」と静かな「死を悼む人々」は対をなす作品である。

 最後の「われらはみなおなじ囲いのなかの羊、あるいは、何世紀ものうち最も腐敗した世界」はクロムウェルの暴力的な清教徒革命が世を席巻した十六世紀の物語だが、作者は歴史的過去にことよせながら現代社会への絶望の意を表明しているように見える。この小説は祈りの言葉によって終わる。



----私の心を清めてください。私の魂を正してください。私をお見捨てになることなく、私のなかに聖霊をとどめてください。何世紀ものうち最も腐敗した世界のなかで、神よ、どうかわが祈りを聞き届けたまえ。



(杉江松恋)

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