【今週はこれを読め! ミステリー編】鼻つまみものの刑事の危険な小説『笑う死体』
文=杉江松恋
探偵は信用できないが、謎解きのためには作者を信頼するしかない。
自分が興味を惹かれるミステリーについて考えていたら、そんな共通点が浮かんできた。探偵かもしくはその助手が視点人物を務めるが、それぞれ問題があって、彼らの言うことをそのまま素直に受け止めることはできない。与えられる情報には偏りがあるかもしれないと疑ってかかる必要がある。しかし作中で行われる謎解き自体はフェアプレイのルールに基づいて行われているので、手がかりはなんらかの形で必ず呈示されている。それを見つけ出す作業は語り手の中にある偏向の原因を知ることにもつながる。事件の謎を解くと同時に探偵の中にある闇も晴らす必要があるのだ。
ノルウェー作家ジョー・ネスボのハリー・ホーレ・シリーズがたとえばそういう小説だ。アイルランド出身のエイドリアン・マッキンティによるショーン・ダフィ・シリーズも。昨年の話題作、アンソニー・ホロヴィッツの『メインテーマは殺人』もそうか。そして今、ぜひ読んでもらいたいのがイギリス発の警察小説、マンチェスター市警エイダン・ウェイツ・シリーズなのだ。2019年に第一作『堕落刑事』が出た。最新作『笑う死体』はその続篇にあたる。文庫解説を私が書いているのだけど、ちょっとご容赦いただいて紹介させてもらいたい。
エイダン・ウェイツは一口で言うなら鼻つまみものの刑事だ。そうなった理由は第一作の『堕落刑事』に詳しい。彼は麻薬組織に深く食いこんだ汚職警官だったのである。しかしそれは上司に命じられた極秘の潜入取材であった。あと一歩でそれが成功するというところで殺人事件が起き、エイダンのしていたことが明るみに出て彼はどん底に落とされる。立場は最悪、薬物を使用したために精神も破滅寸前まで追いつめられるが、真相を突き止めようという執念がぎりぎりのところで安全弁となり、エイダンは奇跡的に復活を果たす。謎解きが探偵自身を蘇生させたのである。汚れた警察官を主人公にした犯罪小説と犯人当ての謎解き小説、二つの興味が絶妙な形で配合された見事な一作であった。
『笑う死体』はその1年後の物語である。市警への復帰を果たしたエイダンだったが、周囲の目はまだ厳しく、彼はパトロール巡査として日々を送っている。組まされているのはピーター・サトクリフという自分本位な男だ。ある晩彼らは廃ホテルの一室で、なぜか顔に満面の笑みを浮かべた不可解な死体を発見する。死んだ男の指紋はあらかじめ何かの処置で消されており、自ら身元を隠そうとしていた可能性があった。死者はいったい何者なのか。エイダンはそこから調べなければならない。
実際にオーストラリアで起きた未解決事件が話の元ネタになっている。オマル・ハイヤーム『ルパイヤート』から切り取られた語句が遺体のポケットに入れられていたことから、「タマム・シュッド事件」と呼ばれており、現在に至るもその身元は判明していない。作者はこの事件から着想を得て、後は自由に空想を膨らませたのだろう。笑う男の死から始まる物語は、ある意外な地点に読者を導いていく。最後の謎解きではジグソーパズルにピースがはめ込まれるが如くに不明だったことの真相が明かされていくが、それらに気づくため必要だったヒントはエイダンの目や耳を通して手がかりが伝えられていたことが指摘されるのである。伏線が律儀に回収されることには快感すら覚える。
ここまで書いたのは小説全体を構成する要素の半分だけである。残り半分の要素を入れると、物語は突然不穏なものになる。エイダンが捜査の模様を語るのと並行して、ある事件に関する記憶の断片と思われるものがたびたび挿入されるのだ。それがどのような意味を持つのかは、ページの半ばを過ぎたところで唐突に明かされる。ただでさえ不安定だった物語は、そこから何が起きてもおかしくない危険な小説へと姿を変える。捜査をしていたら実は幽霊屋敷だったことに気づいた、とでも言うべきか。そうなってからが『笑う死体』の物語は本番なのである。ぐらぐら揺れる世界の中でエイダン・ウェイツがどう行動するか、というのが読みどころだ。
読者によっては逢坂剛〈裏切りの日日〉シリーズなどを連想する人がいるかもしれない。エイダンが警察組織内で追いつめられることになったのは、上司であるバーズ警視が彼に潜入捜査を命じたのがきっかけだ。前作から登場しているバーズが、本書では怪物的な顔をいよいよ剥き出しにしてきた。卑劣かつ非情。外見のイメージはまったく違うが、『仁義なき戦い』の山守義雄くらい狡猾。子が親に銭を出し渋る極道がどこにおるんなら、とか今にも言い出しそうだ。警察官のキャラクターでここまで悪辣な印象の人物も珍しいだろう。続篇のThe Sleepwalkerでは、さらにエイダンを痛めつけるらしい。上司による過酷なパワハラによって追い詰められる男を描いた小説でもあるのだ。労働組合に相談しようぜ、エイダン。
作者のジョセフ・ノックスは『堕落刑事』がデビュー作で、現在は第四作を準備中だとのことである。手がかり呈示を誠実に行いながら意外な謎解きまで読者を惹きつけていく技巧は素晴らしい。ミステリー作家としてのバックボーンがどの辺にあるのかは不明だが、間違いなく今後気をつけるべき注目株である。私はジョセフ・ノックスを信じるぞ。
(杉江松恋)