【今週はこれを読め! ミステリー編】私立探偵スカダーの長い歩み『石を放つとき』
文=杉江松恋
私立探偵小説のすべてがここに詰まっている。
ローレンス・ブロック『石を放つとき』(二見書房)はニューヨークの私立探偵、マット・スカダー・シリーズの最新作だ。五百ページにもなる厚い本なのだが、それもそのはずで二冊の原書が合本されているからである。
一冊は2011年のThe Night and The Musicで、これは刊行時に存在するすべてのスカダーもの短篇をすべて収録した作品集だった。すべて田口俊樹によって訳出されていたが、一冊にまとまったことはなかったのでこれで全短篇をまとめて読めるようになった。収録作のうち「ミック・バルー、何も映っていない画面を見る」と「グローガンの店、最後の夜」は『ハヤカワ・ミステリ・マガジン』に掲載されたのみだったので、単行本初収録である。もう一冊は2018年に刊行されたA Time to Scatter Stonesで、こちらが表題作になっている。スカダーものの最新長篇なのだが、実際には中篇くらいの分量なので訳出は難しいかも、と思っていた。そうか、合本で出すという手があったか。この手を思いついてくれたのがどなただか知らないが、感謝である。
ご存じない方のため簡単に書いておく。マット・スカダーのデビューは1976年の『過去からの弔鐘』だった。元ニューヨーク市警の刑事だった彼は、不幸な成り行きで犯罪とはまったく関係ない少女を射殺してしまい、職を辞し、妻子とも別れて孤独な暮らしを始める。その時点で私立探偵の免許は取得していなかったが、ときおり頼まれごとを請け負い、その収入で食べていたのである。少女を死なせてしまったときか、あるいはそのずっと以前からスカダーは人生を見失っており、自分でも説明のつかない倫理観にすがるようにして、もぐりの探偵業を続けていた。その暮らしの中で逃げ込んだのが酒だったが、完全なアルコール依存症となり、第五作『八百万の死にざま』(1982年)でその事実と向き合うことを決意する。ここまでシリーズ前期であり、人の孤独をつきつめていく物語としてスカダーのサーガはいったん完結している。
ブロックもスカダーという人物を描き切ったという実感があったのだろう、若干の試行錯誤があったのち、第八作『墓場への切符』(1990年)からはスカダーを決まった目的地に向かわせようとせず、彼とともに歩いてまったく新しい主人公像を作り上げようとしていく。日本では〈倒錯三部作〉と呼ばれていたこともある『墓場への切符』『倒錯の舞踏』(1991年)『獣たちの墓』(1992年)を読めば、ブロックが古典的な私立探偵小説からの逸脱も辞さない決意でスカダーを描こうとしていたということが理解できる。この三作でブロックは、スカダーの前に強大な悪、法や論理で裁くことも難しい暴力そのものである敵を立ちはだからせた。三作においてスカダーは探偵というよりも降りかかった火の粉を払おうとする一個人であり、調査という名目で他人の人生に踏み込む第三者という気楽な立場を失った上で事件に関与しなければならなくなるのである。後に妻となるエレインやギャングのミック・バルー、ホームレスのTJといった人々が現れ、以降のシリーズ・レギュラーとなっていった。
ブロックはある時期からスカダーの年齢設定を変更し、自分とほぼ同世代として、つまり分身の一人として描くようになる。自身の創造物というよりも、心境が読み取れる昔馴染みとして遇することにしたのである。『石を放つとき』に収録された短篇は、執筆時期がはっきりと分かれており、発表順に配置されている。「窓から外へ」「バッグ・レディの死」の二篇は、ペイパーバック版として書かれた最初期三作の後に書かれた。シリーズが人気を獲得できていない時期の短篇だ。ここでのスカダーは、法の正義を司るどころか、自分自身の心さえももてあましている男として登場する。彼がもっとも口にする言葉は「わからない」だ。この二篇でスカダーは事件を解決に導くが、誰かを追い詰めるわけではない。むしろ罪を犯した重さに耐えかねるようにして犯人は自壊するのである。「バッグ・レディの死」の最後で「自分で思うかぎり、私は何もしなかった」と彼が言うのは本質をついている。
次の「夜明けの光の中に」はMWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞最優秀短編賞を獲得した作品で、第六長篇『聖なる酒場の挽歌』(1986年)の原型になった。ここでスカダーは、おかしくなってしまった世界の吊り合いをとるため、あることをして事件を終結に導く。必ずしも法に忠実ではなく、個人の判断で犯罪者を裁こうとする態度は最初期の長篇からスカダーが見せていたものだが、本篇以降1990年代の諸作においてその傾向は顕著なものとなっていく。「窓から外へ」「バッグ・レディの死」「夜明けの光の中に」の三作は単独でも素晴らしい。だが続けて読むことによって私立探偵という個人のヒーローが犯罪小説の中で果たしてきた功績と限界とが見えてくるのである。あくまで個人の立場で動くしかない私立探偵には社会のどの部分を切り取って見ることができたのか、という風に言い換えてもいい。
「バットマンを救え」以降の短篇はかなり後になって書かれたもので、別の観点から物語を楽しむことができる。確立されたマット・スカダーという人物に読者は同化し、彼の目を使って世界を見ることになるだろう。そうした意味ではミステリーというよりもキャラクター小説的な興趣の方が先に立つのだが、「ダヴィデを探して」「レッツ・ゲット・ロスト」のような侮れないプロットの短篇もあり、実に楽しい。特に前者は再読してみてフレドリック・ブラウンの某短篇を思い出した。単純な話なのだが、忘れ難い余韻が残る。
表題作について触れるのが遅くなった。これは御年おそらく八十歳を超え、体のあちこちに不調も出始めたスカダーが、妻エレインに頼まれて、ストーカー被害に遭っている女性のために働く話である。おそらくブロックもシリーズの終焉を見据えているものと思われ、TJなど過去のシリーズキャラクターへの言及が多い。出てくる名前をすべて、それはどの作品に出てきた人、と言い当てられたらあなたも立派なブロック・マニアだ。おもしろいのは、完全な老人になりながらもスカダーがちゃんと自分の足で動き回って探偵としての仕事をしようとすることである。一時期のスカダーは暴力沙汰はミック・バルーに、情報収集はTJに、と分担させてチームで事に当たるようなところがあり、そこを批判する私立探偵小説ファンもあったと記憶している。彼らの手助けを一切借りず、八十代にしてまた一本独鈷でがんばるわけである。「こんなろくでもないことをするには私は歳を取りすぎた」とかなんとかぼやきながら。私立探偵小説というジャンルは老いて、今や犯罪小説の主流とは言いがたい。傾いた屋台骨をスカダー一人が背負っているような観さえあり、非常に感慨深い。
果たして私立探偵というキャラクターは犯罪小説の中でしかるべき成果を挙げたのか、それとも「何もしなかったのか」。その答えは一人ひとりが本書から読み取るべきだろう。
(杉江松恋)