【今週はこれを読め! ミステリー編】フィルム・ノワールのような警察小説『刑事失格』

文=杉江松恋

  • 刑事失格 (ハヤカワ・ミステリ文庫 マ 18-1)
  • 『刑事失格 (ハヤカワ・ミステリ文庫 マ 18-1)』
    ジョン・マクマホン,恒川 正志
    早川書房
    1,210円(税込)
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 一言で表すなら、フィルム・ノワールの気配をまとった警察小説である。

 ジョン・マクマホンのデビュー作『刑事失格』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、アメリカ南部のジョージア州を舞台とした警察小説だ。主人公のP・T・マーシュは、かつては腕利きの刑事だと言われていたが、ここ一年ほどは酒に溺れ、同僚からは腫れ物に触るような扱いを受けてきた。妻子を事故で失い、その衝撃から立ち直れていないのだ。

 ある晩マーシュは、ストリップ・クラブで働くクリムゾンことコリン・ステーブルズに頼まれ、同棲相手のネオナチ男を締め上げた。彼女に暴力を振るうのを止めないと後悔することになるぞ、と。だが翌朝、彼が痛めつけた相手であるヴァージル・ロウが死体となって発見される。殺人現場は、前夜に自分が押しかけたその部屋だった。酒で意識が朦朧としていたマーシュには自信が持てない。ロウを殺したのは本当に自分ではないのか。脅すために殴りつけただけではなく、絞め殺してしまったのではないか。

 部屋には大量のマリファナがあった。因果を含めてコリンを街から逃亡させ、マーシュは相棒のレミー・モーガンと形ばかりの捜査を続けていく。しかし、別の事件が発覚して潮目が変わる。近くの農場で火災があり、アフリカ系の少年が死体で発見されたのだ。首を縛られ、半身が黒焦げになった無残な死にざまは、私刑があったことを物語っているように見えた。検死の結果、少年が死ぬ前に両肘を折られていたこと、生きたまま火にかけられて焼かれたことが判明する。これは人種差別主義者による犯行なのか。ヴァージル・ロウの死とリンチ殺人が結びつき、事態は急転回していく。

 自分自身が白か黒か、すなわち無罪か有罪かの判別がつかない刑事が事件を捜査していくという不安定な状況が物語の特色になっている。展開は1980年代から流行して一世を風靡したサイコ・スリラーを思わせるが、そこまでの内面描写はない。前述したとおり、マーシュが酒の問題を抱えるようになったのは妻子の死が原因だ。亡き妻のリーナはアフリカ系の女性で、つまり彼らは異人種婚の夫婦だった。保守的な土地であるジョージアでは、そうした結婚への偏見も存在したであろうし、家族を喪ったマーシュが精神の均衡を崩してしまったのもそれが一因と推察される。だが、そうした点について作者は深く掘り下げようとしはしないのである。このへんのあっさりとした書きぶりが、現代の犯罪小説としてはちょっと珍しい。

 殺された少年はケンドリック・ウェブスターという名前だった。背景にある人間関係を調べている間に突発的な事態が発生し、事件は不完全な形ながらいったん落着する。このあたりで全体の五分の二くらいか。マーシュと共に読者は、どっちつかずな状態で投げ出されるのである。マーシュは人殺しなのか否か。ウェブスター殺しは本当に見かけ通りの単純な事件だったのか。そしてあちこちに投げ出されている、どこにも当てはまらないように見える手がかりは、いったい何を指し示しているのか。そうした収まりの悪い感じがしばらく続き、話の成り行きに不満が募り始めたころに事件が再び動きだすのである。今度は、予想もしなかったようなおかしな方向に向けて。

 突拍子もないことを言いだす登場人物がひょいと現れたり、ありえないような偶然の一致が起きたりと、中盤は不可解なことがいくつも起きる。日本ではこういうとき、狐につままれたような、と言うのだがジョージア州ではなんと表現するのだろうか。

 この、世界が混沌に包まれた状態が、本書のいちばんの読みどころなのである。光の側にいたかと思えば次の瞬間には闇の中に足を踏み入れている。確かに見えた地盤がまったくそうではなく、足をとられる泥濘であったことが判明したりする。あやふやな感じが実にフィルム・ノワールっぽい。世界は善と悪にくっきりと分かれているわけではなく、一人の中にも両性が存在する。普通の市民もきっかけさえあれば犯罪者に転じうる。そうした運命の危うさを、光と影の映像技術を用いて示したのが一連の暗黒映画だったのである。孤独なマーシュはときおり愛犬と会話を交わしている。彼以外にも本書では、複数の者が語りかける声を聞いてしまう。世界には別の一面があるのだ、と示唆するような声を。この声の存在が、物語に底知れぬ不気味さを与えている。終始薄暗がりの中を歩いているような物語だ。

 作者がどこまで計算して書いたかわからないし、むしろ天然でやってしまったような気がしないでもないが、この不穏な感じは悪くないと思う。倫理観が明確ではなく、行動がぶれまくっているようにも見える主人公は、かなり危なっかしい。正義を貫きたいんだけど、もしかすると俺には無理なのかも。そんなことを呟きながら歩いているように見える男なのだ。一緒になってはらはらしてもいい、という読者向きの小説である。

(杉江松恋)

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