その1「吉川英治との意外な縁」 (1/5)
――伊東さんは横浜のご出身だそうですが、どのあたりですか。
伊東:石川町です。今も同じ場所に住んでいますよ。自宅から歩いて5分ほどのところに吉川英治さんが生まれた場所があるんです。吉川さんが根岸の生まれだということは以前から知っていたのですが、二駅ほど離れたところだと思っていたら、町名変更される前の中村根岸は僕の自宅の近所だった。吉川英治文学新人賞をいただいた時に吉川さんの『忘れ残りの記』を読んでそのことを知りました。吉川さんは僕の家の前にある遊行坂を下って山内尋常高等小学校に通い、僕は坂を登って石川小学校に通っていたんです。つまり、時を隔てて同じ通学路を逆に歩いていたのです。しかも感動したのは『忘れ残りの記』に登場する御新造先生というアダ名の若い先生が、僕の幼稚園の校長先生だったこと。母の記憶によると、よく僕の頭を撫でてくれたそうです。吉川さんの頭を撫でたと同じ手で、50年余の歳月を隔てて、僕の頭も撫でてもらっていたんですよ。
――吉川英治作品はよく読んでいたのですか。
伊東:歴史が好きになったきっかけとなったのが吉川作品です。小学6年生の時に見た大河ドラマの『新平家物語』が面白くて。まず、その原作本を手にしたのが、歴史小説初体験ですね。伊勢佐木町の有隣堂に行くと、クリーム色の表紙の講談社文庫が並んだ吉川英治コーナーがあって、片っ端から読みました。『新平家物語』はもちろん『三国志』、『水滸伝』、後になって『宮本武蔵』、『新太平記』、『新書太閤記』『将門記』...。今日は当時読んだ『三国志』を持ってきました。これだけは、なぜか六興版で、当時380円なんです。
――わあ、きれいに保管されているんですねえ。外で遊ぶよりも、家で本を読むことが好きな子供だったのですか。
伊東:はじめて小説を書いた42歳まで、ずっと外で遊んでいる子でした(笑)。でも本は好きでしたよ。小さい頃は魚や虫の図鑑が好きでした。親に何かひとつ買ってやるといわれて、おもちゃ売り場などをまわった末に「ゴン」と言って書店で図鑑を買ってもらっていました。「ホン」と言えずに「ゴン」と言っていたようです。小学生の頃も伝記やファーブル昆虫記やシートン動物記が好きでした。小6の時に井上靖の『しろばんば』、中学に入ってから『夏草冬濤』『北の海』の三部作を読みました。一人の人間が成長していく過程が実に面白かったです。父に薦められて『路傍の石』や『次郎物語』も読みましたね。
――その頃、ちょうど吉川英治作品で歴史小説に目覚めたわけですね。
伊東:それと同時に、角川文庫も読み始めました。横溝正史、森村誠一、高木彬光、あとは角川文庫ではないけれど松本清張。ミステリ系の本も歴史小説と並行して読んでいました。歴史小説は、中3の時に司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』を読んだことも大きかったですね。15歳で読んだので、その後25歳、35歳、45歳と10年に1回読むようにしています。なぜか『竜馬がゆく』を読むと、喩えようもない高揚感に包まれ、「男は、志を持って生きねばならない」と思うのです。
――自分は歴史小説が好きだという自覚はあったのでしょうか。
伊東:当時は小説といえば歴史小説だったんです。社会人になってからは、おもに実用本やノンフィクションばかり読んでいたので、ずっと小説の王者のなかの王者が歴史小説だと思っていて、いざ小説を書くようになってから歴史小説が売れていないという寂しい現実を知ることになりました、まさに、浦島太郎状態ですね。あとは中学生の頃、福永武彦が好きでした。『草の花』は今でも自分のベスト10に入ります。他にも夏目漱石、森鴎外、川端康成、島崎藤村といった古典的な作家はほとんど読んでいます。作家の文章力は、いかに古典文学をしっかり読んでいるかによると思うので、若い頃に読んでおいてよかったと思っています。
――その頃、小説家になりたいと思ったことはなかったのですか。
伊東:なかったですね。普通の人と同じような憧れはあったかもしれませんが、自分がなれるとは思っていませんでした。その後、社会人になってからも、仕事に追いまくられて、まったく考えていませんでした。ですから私の場合、習作とか没原稿なしで、書いたものはすべて活字になっているんです。これは本当です。