その1「きれいな絵本より怖い話が好き」 (1/4)
――古い読書の記憶といいますと。
千早:私は喋るのがはやくて、1歳8か月で「私は、~だから、~なの」と、三文節の会話ができたらしいんです。なので記憶も古くからあるんですが、その頃は『どろんこハリー』や『どろんここぶた』という絵本が好きでした。母に言わせると泥が好きだったようです。落ちていた手袋のなかに動物たちがどんどん入っていくウクライナ民話の『てぶくろ』や、お風呂に入ると鯨などが出てくる『おふろだいすき』といった、超空間ものも好きでした。怖いものみたさの好奇心も強くて『おばけのジョージー』や、『花さき山』といったあまり子供受けしない絵も好きだったようです。妹は『花さき山』を読んで怖がっていたので、姉妹で絵本の傾向はあきらかに違っていました。妹はシンプルで色がきれいなもの、私はドロドロ系が好き。山姥とかが出てくる民話なんかが好きでした(笑)。
――たしか、お母さんは国語の先生でしたよね。
千早:そうです。だから読み聞かせもすごく上手なんですよ。山姥の話なんて、本当にそこに老婆がいるかのようで、楽しくて眠れなくなるほどでした。それらと並行して好きだったのが恐竜や動物の図鑑で、よく眺めていました。母は国語の教師ですが父は獣医で、どうも文系脳と理系脳が混じっているようです。
――喋るのがはやかったということは、読み書きもはやかったんですか。
千早:本は好きだけれども、字をおぼえる気がなかったようです。2歳くらいから口述筆記で日記はつけはじめていて、理屈っぽい子供ではあったんです。保育園でお昼寝の時間になっても「私は眠くないのにどうして寝なくちゃいけないのか」といって先生たちを困らせていたそうです(笑)。そんな風に自分が納得しないということを聞かない子だったので、親も無理に文字をおぼえさせようとはせず、5歳くらいまで放置していたそうです。でも5歳のある日、家にあった『ドラえもん』を手にして「『ドラえもん』が字で読みたいのー!」といきなり叫んだらしいです(笑)。それまで『ドラえもん』は絵だけを追って読んでいたんでしょうね。50音表を貼ったら3日でおぼえたそうです。それで一人で『ドラえもん』を読むようになり、読書生活が始まりました。50音表を貼られたところから、記憶が鮮明になっているんですよ。文字を憶えると世界の認識が変わるんだなって思いますね(笑)。
――そこから自分で文字を読むようになって。
千早:家に母の『コミグラフィック 日本の古典』という、暁教育図書から出ている古典を漫画化したシリーズがあったんです。『ドラえもん』の次はそれを読みだして、すごく好きでした。『古事記』『雨月物語』『今昔物語』『南総里見八犬伝』『平家物語』などは好きで、『源氏物語』はなよなよした話だなと思っていました。その中に近松門左衛門の心中ものも入っていたので、その影響でのちに文楽好きになったのかなと思います。このあたりから母の読み聞かせも高度なものになっていったのですが、そのなかで「この本は面白い」と思ったのが灰谷健次郎さんの『兎の眼』。これは小学校の話ですが私にはとても衝撃的で、ハエが好きな、ちょっと変わった男の子に生まれてはじめて感情移入というか、自己投影しました。保育園の頃から自分の好きなように生きて何が悪い、という感じの子供でしたが、それでもだんだん不安になってきていたから、自己肯定された気になりました。他には『窓ぎわのトットちゃん』もすごく好きでした。
――小学生の頃はアフリカのザンビアに住んでいたそうですが。
千早:北海道で生まれて、小1の一学期後にザンビアに行き、小4の終わりに帰国しました。あちこちのインタビューで小5の時に帰ってきたと話していますが、今回母に確認したら小4の終わりということでした。父は獣医といっても病理学のほうをやっていて、JICAで派遣されてザンビア大学で教えていました。その頃住んでいた家はプールもついている豪邸で、使用人もいましたね。普段はアメリカンスクールに通って、週末は母が先生をしている「ルカサ補習教室」というところで日本語の教育を受けていました。
――その日本人の学校はお母さんが作ったと聞いていますが。
千早:教師資格をもっていた母が中心になって、父兄のみんなで外務省に申請して作ったそうです。母は厳しかったですよ。家でも毎日日記を提出していたんですが、赤ペンが入って返ってくる。「楽しかったです」と書くと「どのように楽しかったのか書きましょう」と書かれるし、「今日は」という書き出しが3日くらい続くと「今日であることはわかっています」と書かれてくる。編集者みたいにチェックが入るんです(笑)。帰国子女団体の作文コンクールで賞をもらったこともありますが、文章を書くことが好きかどうかなんて考えたことはなくて、書くことが当たり前でした。一回試しに「今日はお母さんに怒られました。でも私はこういう気持ちでこんなに泣きました」みたいなことを日記に書いて提出したら、赤ペンが「それは大変でしたね」とだけあって、あとは間違っている箇所が直されている(笑)。その時に理解しました。赤ペンを入れている間は、この人は母親ではないんだって。それ以来、赤ペンは赤ペンとして受け止めていました。
――当時の読書生活は。
千早:母が祖母たちに頼んだ岩波少年文庫が月5冊送られてくるので、それを夢中で読んで、次に送られてくるのを待つ生活でした。しょっちゅう停電がおきるので、蝋燭をつけて読むこともあり、目が悪くなりました。その頃読んだ本のなかでは『秘密の花園』が好きでした。小さい頃に好きだった童話の傾向にも通じるような、一瞬怖い感じがありましたし、動植物が好きだったので。他は『シートン動物記』や日本の民話も好きで読んでいました。あまり本がないので同じ本を繰り返し読んでいたんですが、今でも同じ本を何度も読むほうです。
――ザンビアの生活は楽しかったですか。
千早:あのまま日本の学校にいたら、かなり駄目になっていたと思います。小学1年生の頃、気に食わないことがあると勝手に家に帰っていたんです。まわりに構われるのもすごく嫌でした。みんなが同じ時間に同じ方を向いて机に座って50分間を過ごすことが耐えられなかったんです。でもザンビアのアメリカンスクールはみんな好きな場所に座って授業を受けていいし、がんばって勉強したら飛び級もできる。自由な場所だったので助かりました。例えば歯が抜けたらその歯をどうするかも、国によってみんなやり方が違う。違うのが当たり前であることが居心地よかったです。