その1「最初に憶えたのは「の」」 (1/5)
――ご出身は広島ですよね。
沢村:高校を卒業するまで広島でした。母も、母の母も本好きで、家にたくさん本がありました。書籍に書かれた文字を読んだいちばん古い記憶はひらがなの「の」です。絵本を眺めながら「の」の字を見つけては「の」「の」と言っていたと、親から何べんも言われたので、自分でもそんな記憶があるような気がしています。「の」の次は「と」でした。
――小さな頃から本が好きだったんですね。
沢村:そうですね。家に子供向けの、赤い箱に入った世界文学全集が30冊くらいあって、それを全巻読みました。編集に村岡花子が携わっていたりして、いいラインナップだったと思います。世界のあらゆる地域の作品を揃えようとしていたんですよね。欧米だけでなく中南米の民話なども入っていました。小さいうちに地域を問わずいろんな話を網羅的に読めたことは大きなプラスになりました。その全集のなかで特に憶えているのがニコライ・A・バイコフの『偉大なる王(ワン)』です。ソ連文学の巻に入っていた話で、ワンは虎のことです。系統としてはメルヴィルの『白鯨』っぽいですね。ワンと猟師の話なので。その頃アニメで「ジャングル大帝」がやっていたので、友達はレオ派で私はワン派だ、などと言っていた気がします。友達はワンと言われても何のことか分からなかっただろうけれど(笑)。この全集では他に『天路歴程』も読んで、こういう話もあるのかと、違和感のようなものがずっと残っていました。最近書いた『ぼくは〈眠りの町〉から旅に出た』にそれが投影されているように思います。 宮沢賢治の童話集も家にあって、私は「ペンネンネンネンネネムの伝記」が好きでした。これは『グスコーブドリの伝記』の原型ですけれど、そこまでお行儀のよい話ではなくて、多少の訳の分からなさが好きでした。当時からメジャーよりもマイナー志向だったんですね(笑)。それらを読んだのが小学校の低学年から中学年にかけてでした。
――自分で物語を空想したりしませんでしたか。
沢村:低学年の頃は物語を作っていましたね。ファンタジーだったと思います。当時は作家になりたいと言っていたんですが、高学年になるまでに、大人たちの冷ややかな反応を感じて、作家になるというのは夢物語なんだな、と一度は完全にその夢を諦めました。もうひとつ理由があって、『若草物語』にジョーが「もっと日常のことを書いてみたら」とアドバイスされる場面があるんですが、親がそれにならって私に「空想物語ではなく日常のことを書いてみたら」と言ったんです。私はそんなものは全然面白くない、と思いました。当時は読むものもノンフィクションが一切駄目で、伝記すらつまらないと思っていたんです。その時にそういうことを言われると、書く気が薄れてしまう。「作家になったら自殺するよ」とも言われましたね(笑)。
――当時はそのイメージが強かったんでしょうねえ。小学校高学年になるとまた読書も変わりましたか。
沢村:たぶんその頃に、大人の小説を読むようになりました。家に日本推理作家協会の年鑑があったんです。今は『ザ・ベストミステリーズ』と言われていますが、当時は名前が違ったように思います。その文庫落ちしたものが家にあって、3つ上の姉がその中の1冊からまるまる一篇朗読してくれたんです。それが面白くて、他の短篇も読むようになりました。自分が大人の本を読めるんだということも嬉しかったですね。手が届くところにそういう本を置いていてくれた母に感謝しています。
――お姉さんが読んでくれたのは何だったんですか。
沢村:筒井康隆さんの「母子像」です。
――怖い話だけれど、名作ですよね。お姉さんよくそれを選びましたね。
沢村:姉も気まぐれで選んで、面白かったから最後まで読んでくれたという感じでした。その時は怖いといった感想は抱きませんでした。あれはあれで彼らは幸せそうな雰囲気もありましたから。ただ、シンバルを持った猿の人形は怖くなりました(笑)。ちょうどその頃に、映画の『大脱走』を観て、面白かったから原作も読んだんですよね。そこからノンフィクションも読めるようになりました。原作を読むと、映画では格好よくないのに、〈ミスターX〉と呼ばれたリーダーのロジャー少佐が格好いいんですよ。小学校高学年から中学生の頃にかけて「大脱走」「大脱走」と言って騒いでいた覚えが...(笑)。ずい分後になって気づいたのですが、その頃から孤独なリーダータイプが好きなんですよね。高校生の頃に「機動戦士ガンダム」が流行った時も、私が好きなのはホワイトベースの艦長のブライト少尉だったんです(笑)。自分が書いたものを振り返っても、『リフレイン』も『ヤンのいた島』も『瞳の中の大河』も、孤独なリーダータイプが出てきます。
――中学生になってからはどのような本を。
沢村:相変わらず親の本棚にある推理小説を手当たり次第読んでいました。今思えば推理小説のひとつの黄金期だったんだと思います。高木彬光さん、佐野洋さん、仁木悦子さん...。『チェ・ゲバラ伝』を書いた三好徹さんのハードボイルド系のものも好きでした。鮎川哲也さんの倒叙ものもたくさん読みましたね。 その後10代から20代にかけていちばん好きな本になったのは、スタインベックの『二十日鼠と人間』です。自分は『大脱走』と『二十日鼠と人間』が好きなんだ、という意識がずっとありました。
――出稼ぎ労働者の過酷な話ですよね。どうして好きになったのでしょう。
沢村:誰も悪くないのにどうしようもなく不幸になっていく哀愁でしょうか。出だしが退屈なのに途中からものすごく面白くなっていくところも、読書体験として心に刻まれました。ある種の成功体験ですね。他には、母が旺文社文庫ハードカバー特製版の全50巻を買ったので、それを一生懸命読みました。薄黄緑色の本だったんですが、おそらく申し込んだ人にだけ配本されたものだと思います。その全集ではパール・バックの『大地』を夢中になって読んだことを憶えています。この頃にミステリ以外で読んだものといえば、このシリーズでした。
――そういえば、海外のミステリは読まなかったのですか。子供向けのホームズとかルパンとか...。
沢村:ルパンのシリーズは読みましたが、あれはミステリというより冒険小説ですよね。母が日本の推理小説が好きだったので、そちらをざぶざぶと読んでいました。当時は社会派が主流でしたが、大上段に構えるのでなく、殺人に至るまでの一人の人間の過去や葛藤が自然な流れで描かれるなかで、自分が触れていない社会のいろんなことが描かれたものが好きでした。でも、選んで読んだというよりは、そこにあったから読んだだけだったのかもしれません。特に推理作家協会の年鑑はものすごく読みました。ですから自分の短篇を年鑑に採録していただいた時は、作家になって良かったと思った最大の瞬間だったかもしれません。
――2008年に「人事マン」、2009年に「前世の因縁」が採録されているんですね。高校生になってからもミステリを読み続けたのですか。
沢村:それが、一大転機が訪れまして。それまでは家の本や学校の図書室で本を借りていましたが、自立心が芽生えて自分で本を買って読むようになったんです。家にも図書室にもない本を買おうと思ったことから、SFにハマったんです。高校時代はSFを読みまくりました。『宇宙英雄ペリー・ローダン』のシリーズは150巻くらいまで読みました。全部自分で買えたとは思えないので、誰かに借りたのかもしれません。授業の45分の間に1冊読んでいました。他にはフィリップ・K・ディックやアシモフも読みましたし、ヴァン・ヴォークトもかなり読みました。『宇宙船ビーグル号の冒険』や『スラン』、『非Aの世界(なるえーのせかい)』の人ですね。『スラン』について人といろいろ話した記憶があるので、やはりSFを読む友達がいたんだと思います。 いちばん好きなのはハインラインの『夏への扉』でした。私が書いた『ディーセント・ワーク・ガーディアン』には「秋への扉」が出てきます(笑)。最初に飼った黒猫はピートと名付けました。
――読書記録はつけていましたか。
沢村:当時はしていません。でも最近になって実家に「改築するから要るものを取りにこい」と言われて行ったら、中学時代に1年間だけつけていた読書記録が出てきました。おそらく学校で書かされていたようです。この年にこれを読んだのか、と意外に思ったりするので、そういうものは貴重ですよね。