その1「絵本から大きな影響を受ける」 (1/6)
――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
最果:親がすごく読書家で、絵本の読み聞かせをいっぱいしてくれて。寝る前に読んでもらっていた絵本は、『しろくまちゃんのほっとけーき』や『くまさんにあげる』など、くまの絵本が多かったですね。『ゆうびんやのくまさん』などもありました。毎日、絵本をたくさん読んでもらっていたので、その記憶がいちばん根深いというか、いちばん影響を受けたかなって思います。
――影響というのは。
最果:のちに絵本を読み直して、かなり日本語が自由だなということに驚きました。日本語が踊っているというか......。そうした言葉は今でも好きですし、だから詩というものを書くようになったのかなと思っています。たとえば『しろくまちゃんのほっとけーき』は、今読み直すと「そんな話の進め方ってあるの」と思うんですよ。「ふらいぱんと ぼーると おおきな おさらを そろえました」とあって、「ざいりょうは なあに」という質問はあるけれど、次のページでは特に答えはなく、「ひとつ ふたつ みっつ たまご ぽとん あっ われちゃった」と続く。大人になって見てみると、これは親切な書き方ではない、とか思ってしまいます。やっぱり「たまご ひとつ ふたつ みっつ ぽとん あっ われちゃった」っていうほうが、前のページからの流れからして、わかりやすいです。でも、そういうことじゃないんだな、っていうのも同時に思います。「ざいりょうはなあに」というのは、読んでいる子が「ほっとけーき、どうやって作るんだろう?」という気持ちの代弁のように登場するけれど、でもこれはあくまで、しろくまちゃんがお母さんに尋ねる言葉なんです。絵本だから、カギカッコもついていないし、言葉が台詞なのかモノローグなのかもだいぶ曖昧になっていますが。そしてたぶん、絵本には描かれないところで、しろくまちゃんは質問の後、お母さんにたまごをとるようにいわれていて、だからもう答えをしろくまちゃんは知っている。もはや「ひとつ ふたつ みっつ」のページでは、しろくまちゃんは「たまごを取りたい」という気持ちでいっぱいなわけです。この語順は、しろくまちゃんの「たまごを揃えたい」という気持ちのあらわれであって、読んでいる子はそれを眺めているだけ。答えを教える、ということを、放棄したまま話を進めているんです。この絵本は、そのあともずっと、伝えるとか、教えるために描いているというよりは、子供が気づくまで待つような描き方をしていて。人称もずれるんですよね。卵を数えて割ってという、しろくまちゃんのひとり言みたいな台詞のあとに「しろくまちゃんが まぜます」という、誰目線の言葉や、みたいな文章が挟まってくる。たぶん、親が読み聞かせをするのを前提にしているから、人称のずれはあまり関係ないんですね。この、言葉をあえて整理さず、ダイナミックなままでごろっと差し出す感じが、すごく好きです。言葉の見え方は、大人になるとぎょっとしてしまいますが、でも、子供が大人の会話とかテレビの音声をぼーっと聞いていたときの、全貌が見えない感じにとても似ているのではと思いました。暗黙のルールとか、社会における文脈とかそういうものから外れた、言葉そのものの奇妙さが、絵本には閉じ込められていて、それは詩とも通じるところがあると思います。長く生きると、これはこういうものだから、とか、そういうときはこんな言葉を言うべきだ、とか、世の中を頭の中で単純化させて、どんどんわかりやすくしてしまう。でも、本当は他人の気持ちとか考えなんて、予想はつかないし、わかるわけがない。わかった気になって、安心したいから、無理やり世の中を単純化してしまうのかもしれません。子供にとっては、でもほとんどのことがまだ「わからない」ままで、だから、絵本は「わからなさ」を恐れずに、言葉をそのままで書いている。わけのわからない世界を生きている子どもに向かって、わけのわからないけどおもしろいでしょ、すてきでしょ、という物語を伝えるのが絵本なのかなあ、と思います。でも、今、そうやって絵本を見ると、ちっちゃい頃にそうした絵本を何も考えずに自然に読んでた自分、ヤバイなって(笑)。
――ヤバイ(笑)。
最果:子どもってすごいんだな、そして言葉って、本当はこんなに面白いんだな、と絵本を見ると思います。そして、子供の頃のヤバイ感覚がいまだに自分の中に残っているとしたらすごく嬉しいなと思ったりもします。私にとって、詩は、共感とか「わかる」から逃れたところにある言葉なんです。私はずっと、「わかるように話す」とか「友達に共感してもらわなきゃ」とか意識することがすごく苦手で。わかるって、あるのかな、共感ってありうるのかなってどうしても思ってしまうんです。それぞれ違う人生を生きているのに、互いのこと完全にわかるわけがないし、むしろそのわからなさがおもしろいんじゃないかって。詩はそうしたそれぞれの人間の「わからない」ところに、ぎゅっと届く言葉であると思っていて。これは子供のころに、ダイナミックで、生々しくて、そうして親切では決してない言葉に出会ってきたからこそ思うのだと思います。
――それにしても親御さん、そんなに読書家だったんですか。
最果:本を心底愛していて、ゲームや漫画は家にありませんでした。なので、「本を読みなさい」って空気がこの世でいちばん嫌いでした。
――あ、逆にそうなってしまった、と。
最果:しばらく本に対する反抗期があって、離れていた時期がありました。小学校に入ってからだったと思います。国語の教科書は毎年配られると先に読んでしまうタイプの子で、文章を読むのは好きだったんですけれど、図書室で本を借りるという行動は、なんだかいい子ぶってる気がして、苦手でした。本を読んでいると親が喜ぶけれど、それはちょっとつまらないし、と思っていて。その頃に漫画を知ったんです。単純に漫画って面白いんだという気持ちと同時に、親は漫画に拒否反応を示していたので「これは自分が見つけた世界だ」という気持ちになってテンションが上がりました。本も普通に自分が見つけていたら、もっと好きになっていたと思うんですけれど、親が知りすぎていて「これはいいよ」「これはいいよ」「これはいいよ」ってやられると......。
――「宿題しなさい」と言われた瞬間する気をなくす心理と似たものがある気が。
最果:やっぱり、親が知らないけれど自分は知っている面白いものを見つけられたというのが嬉しかったです。それで漫画を読んだりしていたらあっという間に小学校が終わっていた、みたいな感じですね。
――漫画はどのあたりを?
最果:近所の図書館に『らんま1/2』があったんです。図書館にある漫画といえば『ドラえもん』や『じゃりん子チエ』くらいだったのが、誰かからの寄贈本なのか、全巻はなくて、真ん中の3冊くらいだけありました。「なんでこんなところにあるんだろう」と思いながら読んだのが最初かな。「この世にこんなものがあるんだ」って思いました。途中だけ読んでも面白かったですね。それまで漫画という形式にあんまり接してなかったから、最初は「え、え、え、どう読むの」って(笑)。でも面白かったので、親に「漫画読みたい」って言ったら、「月に1冊だけ買ってあげる」って。それが小学校卒業するまでのルールだったと思います。お小遣いで買うのは禁止で、月に1冊買ってあげるから、それ以外は買うなっていう。
みんなが「なかよし」とか「りぼん」とか読み始めている頃でした。でも「なかよし」を買うと、もうそれで1冊なんです。『らんま1/2』の新刊が発売されるとそれを買っちゃうから、「なかよし」が読めなくなる。それで何を買ってもらうのかをずーっと悩みながら、小6まで頑張った憶えがあります(笑)。それとは別に学習漫画みたいなものは親が買ってくれるので、歴史の学習漫画とか、「ドラえもんが教える〇〇」みたいなものは読んでいました。
――好きだった漫画は。
最果:少女漫画を読んでも、恋愛もよく分からなかったのでロマンティックなものはあまり求めていなかったし、戦いたい欲もあまりなかったから、敵をやっつける話もあまり格好いいとは思っていませんでした。その時に、近所のお姉さんが引っ越すからといって佐々木倫子さんの『動物のお医者さん』と、岡田あーみんさんの『ルナティック雑技団』をくれたんです。それがすごく面白かった。『動物のお医者さん』のシュールな笑いとか、あーみんさんのギャグとかには、ものすごく心惹かれていきました。『ちびまる子ちゃん』も何冊かもらったのかな。そこですごく「ギャグ漫画が好き」ってなって、それはずーっと変わらなかったですね。中学校に入ってもやっぱり「ギャグ面白いな」って意識が強かったです。