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第56回:小池 真理子さん (コイケ・マリコ)

小池 真理子さん 写真

読者の胸に突き刺さるように、微妙な心理を鋭く描く小池真理子さん。その読書歴をおうかがいしました。10代の頃から一冊一冊を深く読み込んできた姿勢には感服。また、マスコミに翻弄された20代、作家としての転換期など、一人の女性の波乱含みの来し方は、小説のようにドラマティックです。

(プロフィール)
1952年東京都生まれ。成蹊大学卒、89年『妻の女友達』で第42回日本推理 作家協会賞(短編部門)、96年『恋』で第114回直木賞、98年『欲望』で第 5回島清恋愛文学賞を受賞。
著書に『無伴奏』『冬の伽藍』『虚無のオペラ』『青山娼館』など多数

【 本のお話、はじまりはじまり 】

赤毛のアン
『赤毛のアン』
モンゴメリ(著)
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チャタレイ夫人の恋人
『チャタレイ夫人の恋人』
D.H. ロレンス(著)
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知と愛
『知と愛』
ヘッセ (著)
新潮社
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――読書の原体験というと?

小池真理子(以下 小池) : 小学校6年生の時に、新潮文庫の『赤毛のアン』を、乏しいおこづかいで買ったことですね。自分で買ったのはそれが初めてでしたから。ただ、うちは父が文学青年だったので、小さな家ですけれど天井まである書棚に、彼の本がつまっているようなところで育てられていたんです。蔵書をひっぱり出してきては、眺めたり読んだりしていましたね。例えば、人文書院から出ているヘルマン・ヘッセの本は、ヘッセが水彩画を描く人だったので、彼の描いた絵が縮尺版になって貼られている。まだ子供だから中身は分からないので、ビジュアルから入ってそれを眺めていました。小学校6年生か中学に入った頃に、世界文学全集に入っていた『チャタレイ夫人の恋人』を読んでいたら、父にすごく叱られました(笑)。ヘッセの『知と愛』も、後で知ったのですが、ヘッセってホモセクシャルっぽいことを書く人で、男同士の友情を書いているのだけれどややあぶなげな内容だったらしく、それも、もうちょっと後で読んだほうがいいと言われました。

――実際、当時読んだ感想はどうだったんでしょうね。

小池 : 別にまずい話が書いてあるという感覚はなかったですね。映像で見るのと、言葉で書かれたものを頭の中で映像化するのでは意味が違いますし、性愛の描写はよく分からなかったし。だからなぜ怒られるのか分かりませんでした(笑)。

――その頃、どんな少女だったんでしょう。

小池 : 小学校低学年の時は身体が弱くて、虚弱児童だったんです。給食が全部食べられず、残すと怒られて、5時間目の授業の時まで目の前に給食のお盆がのっていました。でも無理して食べると吐いてしまったりしていましたね。バスでの遠足も、酔い組と酔わない組に分かれて、私は酔い組のほうに入って、運転席の近くに、他の体の弱い子と一緒に乗っていました。高学年になってから体は丈夫になりましたが。

――どんな本を読んでいたんでしょう。

小池 : 漫画が流行りだした頃なんですよ。『りぼん』や、『なかよし』といった少女漫画の元祖みたいなものや、『少女クラブ』というマイナーメジャー系が好きで、本を読むというよりは、それらを毎号貸し借りして読んでいました。うちは父が文学青年ですが母は絵が好きで、趣味で油絵を描く人間だったんです。それで多少の才能はあったみたいで、自分で物語を作って四コマ漫画を描き、クラスの漫画好きの女の子に読んでもらったりしていました。

――では、当時、将来なりたかったものはというと…。

小池 : その頃、ピアノを習いだしていたんですよね。当時、中流家庭では子供にピアノかバレエ、もしくはバイオリンを習わせるのが流行りだったんです。うちでも父がピアノをやれ、と言って買ってくれて、習ってみたら結構面白くて。ですから、ピアノの先生か、音楽関係にいきたいと、漠然と思っていました。漫画家とか作家とかはまったく考えていませんでしたね。

――小学校6年生で『赤毛のアン』を自分で買ったというのは…。

小池 : なぜ買ったのかは覚えていないんです。誰かから何か聞いたのかもしれません。ちょうどアンのシリーズの第一巻目が文庫化されたときだったんじゃないかしら。新潮文庫は今でも覚えていますね。私は東京生まれで、当時は大田区の久が原というところにいたんですが、隣に千鳥町という駅があって、駅の側の踏み切りの側に小さな書店があり、そこで買ったのをよく覚えています。

――その後も、どんどん本を読んでいたのですか?

小池 : 活字を読むことはすごく好きでした。ただ、中学に入って、父の転勤で関西のほうに行くことになって。兵庫県の西宮市の甲子園口の近くに越しました。その当時エスカレーター式の私立学校に子供を入れるのが、これまた一般中産階級のレベルで流行っていて(笑)、父も例に漏れずなにがなんでも公立には入れない、と。ある程度お金を払って私立のお嬢さん学校に入れるのが、中産階級としての一種の誇りだったんでしょうね。で、転勤した時に某私立エスカレーター式の学校に入ることになったんです。そこはお金持ちのお嬢さんが多くて、音楽をやっている子が多かった。私も本を読むというより、ピアノとか声楽をやっていて、放課後の音楽室をかりて声楽を勉強させてもらったりしていたんです。

――本から遠ざかっていたんですね。

小池 : 本格的に本を読み出すようになったのは中3くらいかな。そこからは怒涛のごとく、ですね。いわゆるみなさんが読んでいたような文学全集の中の作品などを読みました。高校に入ると今度は父が仙台に転勤になったので、県立高校に入ったんです。1960年代後半、70年安保の直前だから、まさに文学シーンでも新しい作家がどんどん出てきていました。五木寛之さん、野坂昭如さん、柴田翔さん…。その時代、どの友達の家に訪ねていっても、彼らの書棚の中にある本というのがあったんですよね。大江健三郎、安部公房、吉本隆明、倉橋由美子、高橋和巳など。だいたい決まっていましたね。そういう本を片っ端から買って読んでいました。高校時代は完全に文学少女でした。

無伴奏
『無伴奏』
小池 真理子(著)
集英社
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――以前エッセイで、学校を早退して喫茶店で本を読んでいた、とお書きになっていたと思うのですが…。

小池 : クラシック喫茶ですね。それが『無伴奏』という作品になりました。実際に仙台に『無伴奏』というお店があったんですよ。正前にすごく大きなスピーカーがおいてあって、列車の客席のようなラブシートが二列になって並んでいて。みんなスピーカーに向かって座って、難しい顔しながらコーヒーを飲んだり、ものを考えたり、本を読んだり。私語は慎まなければならないお店で。今の人には信じてもらえないかもしれないけれど、その頃は、本を読んだり、考えたり、友達と議論したりすることが普通だった。いわゆる男女交際と思想活動などが渾然一体となった時代だったんです。

――その頃影響を受けた本は…。

小池 : その頃に好きになった作家というのは、いまだに好きですよね。三島由紀夫も読んだし、坂口安吾も読んだし、谷崎潤一郎、川端康成も…。三島の自決をリアルタイムで体験したのが18歳の時、高校3年生で、自分が同時代に読んでいた好きな作家が、ああいう死に方をしたというのはショックでしたし、忘れられない体験ですね。それに、何か三島が持っているものが、私の中にあるものと、当時から響きあっていたんだと思うんです。今に至るまで三島熱は変わらないですから。

――三島作品の中で、特に好きなものはありますか。

天人五衰
『天人五衰』
三島 由紀夫 (著)
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春の雪
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三島 由紀夫 (著)
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獣の戯れ
『獣の戯れ』
三島 由紀夫 (著)
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愛の渇き
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三島 由紀夫 (著)
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小池 : すべて好きですけれど、やっぱり小説としてすごく完成度が高いのは『春の雪』だと思っています。「豊穣の海」シリーズの中では『天人五衰』『春の雪』かな。『獣の戯れ』『愛の渇き』も好きです。一連の三島の作品も優劣があると思うんですけれど、完成度の高さから言ったら『春の雪』。あまり長編がうまい人だとはなかったと思っているんです。構成の立て方とかは、現代文学のあり方としては古風な作りをしていた人。そういう意味では新しさもないし、小説家として必ずしも技巧的な人ではない。むしろ、その裏にあるものを読み取っていくタイプの作家でしょう。際立った観念性を持っているし、肌感覚でもって理解するのでなく、それを全部言葉に置きかえていく人だと思う。そのへんの、ものごとに明晰に、明晰に分析していくものの見方も影響を受けました。

――ご自身でも、その頃、書いていました?

小池 : 高校の時から書いていますね。2、3年の頃から詩ばかり書いていたんですよ。当時は詩を書く人が結構いたんですよね。今では死語になってしまったけれど、街頭詩人と呼ばれていました。自分で作った詩をガリ版でわら半紙に刷って、ホチキスでとめて街頭で売るわけ。今、地べたにアクセサリーを並べて売っている人がいるでしょう。それと同じようにして、自分の詩を売っていたんです。ヒッピーの流れからきたものだったのかもしれない。

――小池さんも…。

小池 : 誌の同人誌をやっていた仲間と一緒に売っていました。1冊100円で。仙台の繁華街の一番人が多いところで、路上に並べて。

――その冊子はまだお持ちですか?

小池 : どこかにいっちゃったんですよ。ただ、その時書いていた詩は、コクヨの原稿用紙に書かれたものが残っていて。この間『徹子の部屋』に出た時に、見せてくれと言われて持っていったら、徹子さんが朗読してくれました。恥ずかしくて穴があったら入りたい気分でしたけど。(笑)

【 自分で本を探し出す喜び】

悲しみよこんにちは
『悲しみよこんにちは』
フランソワーズ サガン(著)
新潮社
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――詩もお読みになっていたんですよね。

小池 : 読んでいましたよ。エリュアール、ボードレール、アポリネールとか、フランスの詩人が多かったですね。エリュアールが一番好きでした。なぜかと言うと、フランソワーズ・サガンが好きでよく読んでいたんですが、サガンって自分の本のタイトルをつける時に、エリュアールの詩の一節をとっていたんですよね。『冷たい水の中の小さな太陽』とか『悲しみよこんにちは』とか。それで興味を持って、エリュアールの詩を見つけてきて読んでいました。

――サガンからエリュアールにつながっていった。

小池 : 当時は今と違って、思春期を迎えた小説好きの人たちが買ってきて読む本というのはだいたい決まっていたんです。今ほど書店に本があふれていないし、作家の数も少なかったですから、誰もが同じ作家を読み、同じ作品を読み、そのことについて夜を徹して話すことに喜びを感じていました。その中からさらに、自分の興味のあるものを探していくんです。今はネット社会で、いろいろな情報が、パソコンを立ち上げたら目に飛び込んでくる状態。アマゾンで一冊本を注文すると、次にメールが入ってきて、“この間買った本と類似した本を入荷しましたがどうしますか?”と紹介してくれるでしょう。そうやって本のセレクションが自分の意志とは関係ないところで行われていく。それに比べて当時は自分の感性で本を選んでいくしかない時代だったわけですが、それはすごく面白い作業でしたね。

――ネットもないから、本屋さんでじっくりと探して。

小池 : 書店に長いこといるのは当たり前でした。10分や20分でなく、2時間くらいは平気でいましたね。お金がないから吟味して選ぶ。そうして買ったらアンダーラインをわーっと引いて。自分だけ読んだつもりで人に話すと、その人も読んでいたりして、そこで話が盛り上がっていく。

――アンダーラインを引いていたんですか。

小池 : ああ、私はもう、全部、線を引いています。引きたくなっちゃう。今も基本的にそうですね。本を汚さないようにしたいんですけれど、どうしても気になるところは線を引いてしまう。で、また読み返して。自分がもっている本でも、線が入っていないものはないと思います。特に資料として読む本はそうだし、小説でも、気に入った文章は必ずアンダーラインだらけにしますから。

――どんな文章に、心惹かれるんでしょう。

小池 : これしかいいようのないことを、見事にその言葉でばしっと表現しているもの。心理描写でもアフォリズムや箴言めいたものでも、ああ、こういうことをこの一行で表現してしまう人なんだ、この人は、と思わせるもの。一般人が文章を作るような作り方でなく、明晰さであるとか、観念的に深く踏み込んでいく姿勢など、書き手の姿勢やまなざしが文章に出て、それがびしっとキマっていると、思わず線を引いてしまう。

――10代の頃からそうだったわけですよね。相当、読む力があったんですね。

小池 : 他にもこういう人はいましたよ。昔は娯楽がないですから、10代のまだ働いていない、親のすねかじりの学生が楽しみにしていたのは、本を読むことと、映画を観ること、あとはジャズ喫茶やクラシック喫茶に行くこと、それと政治活動をしたりということくらいで(笑)。情緒的なことは文学作品と映画から取り込んでいたんです。しかもお金を無尽蔵に使えるわけではないですから、友達と貸し借りすること自体が娯楽でした。時代そのものがそうだったんです。

――今、そこまで丁寧に本を読む若い人はどれくらいいるのかなと思ってしまう。

小池 : 今は選択肢が多すぎて、書店にいても売り場が広くて、どこをどう見たらいいか、どの本を読んだらいいか分からないから、いきおいメディアが発してくる情報を自分で検索してたぶんこれがいいだろう、と買っていく。だけど本来、本を読むというのは、自分のために、自分の目で選ぶもの。情報を得て選ぶのと、自分で探して手にするのとでは、天と地ほどの差がある。選択肢が多すぎるのが致命的なのかもしれません。…自分もその中に入って、選択肢を広げているわけだけれども(笑)。

【祭りの後の大学生生活】

若きウェルテルの悩み
『若きウェルテルの悩み』
ゲーテ (著)
岩波書店
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ボヴァリー夫人
『ボヴァリー夫人』
フローベール (著)
新潮社
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ジェーン・エア
『ジェーン・エア (上)』
C・ブロンテ (著)
新潮社
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嵐が丘
『嵐が丘 (上)』
エミリー・ブロンテ (著)
岩波書店
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――エリュアールやサガンがお好きということで、海外小説も相当お読みになっていたんですか。

小池 : 10代の頃は翻訳ものが多かったですね。新潮文庫のリルケの詩集とか、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、フロベール『ボヴァリー夫人』、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』…。翻訳ものって訳者の作った日本語で読んでいくわけですよね。最初に小説を発表した直後に言われたのは、翻訳文に似ている、ということ。知らず知らずのうちに影響を受けていたみたいで。だから作家になってからは文体を意識して作ってきたところはあります。翻訳の文体は翻訳としてはいいけれど、近代文学の流れを汲んだ、こなれた日本語ではない時もある。そういう意味で、自分だけの文体と文章を作っていくという作業は、長い長い時間をかけました。

――大学に入って、東京へいらしたわけですね。

小池 : 一年浪人して大学に入った時にはすでに72年。浅間山荘事件のあとで、祭りの後、という感じでした。70年安保の狂乱の時代が過ぎて、三島は自殺するし、セクトは解体して思想的には何も残っていない。あれだけ学生運動がすごかったのにどこにいったんだろうという時代にさしかかった時に大学に入ったんです。しかも入ったのが成蹊大学という、いわばお嬢さんお坊ちゃんとと呼ばれる恵まれた人が多い大学で、キャンパスも立て看板はほとんどなくなっていて、ハリウッドの青春映画のような、緑の芝生の上で男子学生がギターを弾いているという絵に描いたような光景が見られる状態で。でも私はそうしたキャンパスライフになんとなく抵抗を感じていたので、哲学研究会というカタイところに入ったんです(笑)。哲学を勉強するという名目で、毎晩お酒を飲みに行っていたという(笑)。そういう学生生活でしたね。

――読書生活は。

小池 : 相変わらず読んでいましたね。吉祥寺の近くのアパートに一人で暮らしていて、相変わらずお金がなかったので、本も高価な本は仲間と買ってまわし読みしていました。それと、小説らしきものを書き出したのはその頃ですね。哲学研究会で同人誌のようなものを作っていたので、そこに発表していました。それが最初の小説のはずだけれど、どこかにいってしまって。

――もったいない! その頃読んでいたのは…。

小池 : ありとあらゆるものを読んでいました。哲学研究会に入っていたので、ニーチェ、カントなんかの哲学書も読んでいましたし、小説はボリス・ヴィアンとか、…カミュは大学の時一番よく読みました。まだ翻訳ものにひきずられていますね。

――ボリス・ヴィアン、私も大学の時に読みました。

小池 : あれは必ず大学の時に読みますよね(笑)。

――哲学では、サルトルが読まれていた頃では?

小池 : そうそう。70年安保を境にして、実存主義が流行の思想として学生たちに蔓延していた時ですから。サルトルと同じように実存主義論争をしていたカミュもよく読まれていたんです。

――日本人作家はまったく?

小池:三島は継続して読んでいました。若かった頃の倉橋由美子も。でも、日本人作家を集中的に読み出したのは、大学を出てからですね。

【 苦悩の20代】

――卒業後は出版社に入られたんですよね。

小池 : 自分が作家になりたいとはっきり思い出したのが大学生の頃でしたから、少しでも小説に近いところで仕事をしたいと思って、それで出版社に入ったんですね。でも現実は違って、ハウツー本ばかりやっていたんです。占いの本とか、目がよくなる方法とか、オーディオに関するものとか。文芸のはじっこにいたいと思っていながら、やっていることはそこから外れていたものばかりだったので、それでもう、1年半で辞めちゃって。

――それで、『知的悪女のすすめ』というエッセイ本を出された。

小池 : あれはもともと私が企画を立てたものだったんです。当時は新しいエッセイストの方々がたくさんいたので、そういう方に執筆をお願いして、私は編集者として関わろうと思った企画でした。でも会社を辞めちゃったものだから、失業保険をもらいながら、企画だけ持って小さな出版社をまわりました。こういう企画があって、私はフリーの編集者としてやりますから、企画料をいくらかいただければ、なんて言って。ほとんどのところに断られたんですけれど、山手書房という出版社に持っていった時、そこの社長が私に目をつけて、「あなた作家になりたいなら、こういうのはスタートとしてはいいかもしれないから、あなたが書けばいいんですよ」って。私はプランナーですから、自分が立てた企画通りに書いたわけです。原稿も2か月くらいで書いてしまいました。それで持っていったら、ちょっと面白いかもしれないと言われて。出版にこぎつけたんですけど最初は泣かず飛ばずで。もちろん私は無名ですし、たかだか25歳の小娘が書いた、どちらかというとセンセーショナルなタイトルの本だということで全然売れもせず、話題にもならなかったですね。それが、あるスポーツ紙が目をつけて、私に取材にきてインタビューに答えて、写真が掲載されたら…。

――一気に売れたわけですね。

小池 : それがいいんだか悪いんだか。その後私は何年も、「知的悪女の小池真理子さん」と呼ばれて。そうじゃないんだ、これは私が企画した作品なんだから、といくら言っても、当時のセンセーショナリズムまっさかりの中で、毛色の変わったものを書いた若い女の子ということで、マスコミは飛びつくわけです。インタビューでも、すごく一生懸命真面目に答えているのに、週刊誌や新聞に載るタイトルはけばけばしくておどろおどろしいものになっている。「悪女は語る」とか「悪女は不敵な笑みを浮かべた」とか。もうね、インタビュー受けるのが怖くなっちゃって。その場では記者の人もすごく一生懸命聞いてくれるのに、私がちょっと冗談で言った言葉をばーっと大きく書かれて、できあがった記事はもう本当に滑稽なくらいに愚かしいもの。有名になりたくて悪女路線のものを書いたわけの分からない女の子が出てきましたよ、みなさん、というものだった。虚像が出来上がっちゃったんですよね。その虚像に、私は本当にもう、何年も何年も悩まされて。本当は小説を書きたいのに、どうしてこんな遠回りをしなくちゃいけないんだと思って。

――聞いているだけで苦しくなります。

小池 : テレビ出演や講演も頼まれたりしていて、小説家とはまったく違う、一言でいうならタレントになってしまっていた。これはどこかで軌道修正をしなければ、と思い、ある日ピタッと、すべてテレビも講演もインタビューもやめたんです。本来の姿勢に戻ろう、と小説を書き始めたのが、31歳の時。遠い道のりで小説家になった典型ですね。一発で新人賞を受賞してすくすく育っていく方もいますが、私は最初、小説家ですと言うことも許されず「え、あなたはエッセイストじゃない」「悪女ってどんなふうにしたらなれるんですか?」って言われていた。小説家から縁遠いところから軌道修正してやっとたどり着いた感じです。世間からバッシングされることには結構慣れたんですよ、その時。

――そんな、慣れなくていいことに慣れてしまって……。

小池 : テレビに出ることを避けるようになったのはその頃からですね。年に1回くらい、新刊についての作品の話だけ、という条件つきでテレビに出ることはありますが、また虚像が出来上がるのでは、とトラウマを感じて、しばらくは本当に出るのが嫌でした。

【 実はミステリーが嫌いだった!】

コインロッカーベイビーズ
『コインロッカーベイビーズ (上)』
村上龍(著)
講談社
490円(税込)
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――社会人になってからは、どんな本を?

小池 : 谷崎潤一郎を本気で真面目に読み出したのは大学を出てからですね。川端もまた読み始め、太宰治も、それまで毛嫌いしていたんですけれど、読み出しました。内田百間とかもね。それと、たまたま住んでいたところが村上龍さんの家の近くだったので、彼が芥川賞を受賞した直後くらいに親しくなって、それで『コインロッカー・ベイビーズ』などを読みました。同時代の作家を読むようになったのは、龍さんあたりからかな。それまで現代作家として書店に平積みにされている人たちはあまり読まなかったんです。あ、でも池田満寿夫など、話題になった人たちは読みましたね。

――サスペンスなどは読まなかったんですか。

小池 : やっと小説にたどり着いた時に書いたのが、サスペンスだったんですよね。それまでミステリーというものに対しては、アレルギー反応を持っていたんですよ。

――えっ!意外!

小池 : 事件が起こって警察や刑事が捜査して犯人が捕まってめでたしめでたし、の小説だと思っていて。作品の構造が決まっていること自体が面白くなかったんです。全然読まなかったし、読んでも面白いと思わなかったし、まさか自分がミステリーという分野に足を踏み入れるとは思っていなかったんです。でも、たまたま友人にカトリーヌ・アルレーが好きだった人がいて。フランスの心理サスペンスの女性作家なんですが、面白いよといわれて創元推理文庫で出ている一連のものを読んだら、ああ、こういう書き方があるんだ、と目からウロコだったんです。犯人、つまり事件の張本人が主人公になっていて、その人の目線でもって語られていく。ある意味、一般現代文学に通じるような目線でもって書かれていたんです。殺人事件とか、誰かを殺す殺さないってことだけが主眼になっているのでなく、登場してくる人の心の動きを微細に、丁寧に丁寧に描いていくことによって、全体が波乱万丈の物語になっている。いわゆる心理サスペンスですよね。そこではじめて目覚めて、ルース・レンデルなども読み始めました。いわゆる純文学の作家にはなりきれないだろうなという諦めがあったのですが、これなら書けるかも、と思い、で、第一作目が心理サスペンスになったんです。

――そうだったんですか。

小池 : 日本のミステリーシーンが、第一期が松本清張さんで始まったとするならば、1980年代後半の第二期にさしかかっていて、冒険ミステリやハードボイルド、本格推理なんかが出てきた頃だったんですよね。船戸与一さん、佐々木譲さん、北方謙三さん、大沢在昌さんなど、今活躍しているミステリー作家の方々が、軒並み華々しいデビューを飾り、読者をものすごく獲得できた時代だったんです。私もその末席を汚すという感じで、心理サスペンスを書いていました。でも、私は全然売れなかったんですよ。本格ミステリーやハードボイルドは売れているけれど、やっぱり心理サスペンスって地味で、ファジーなところがあるんですよね。

――ファジー?

小池 : 一般小説なのかミステリーなのか分からない。ミステリーファンたちには物足りないし、現代一般文学のファンにとっては、なんだ、ただのミステリーじゃないか、ってことになる。良かれ悪しかれそういうファジーなところにいたんでしょうね。それで、私も読者を獲得できずにずいぶん悩みました。どういう人たちが読んでくれているのか分からない状態が続いて、それで…。私って何かをばっさりと変えていく人生なのかも分からないけれど(笑)、また全部やめて、『恋』を書いたんです。

恋
『恋』
小池真理子(著)
新潮社
740円(税込)
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――直木賞受賞作ですね。

小池 : ミステリーのシリーズの中で出された本だけれど、私自身にとっては、ミステリーという感覚ではなく書いた一般小説第一号なんです。

――それで受賞されたのだから、感慨深いものがありますね。

小池 : 自分が自由になるために、賞の対象になってほしいなどは一切考えず、ただ無心に書いたんです。ミステリーの分野を書いていくことがただただ苦しかった。砂を両手で救い上げた時、指の隙間から零れ落ちていく砂があって、その零れ落ちていくものが書きたかったのに、世の中に出て行くのは掌の上に残った砂だった、例えるならそういう感じでした。

――そしてやっと、自由に書いてみた。

小池 : 『恋』を書き上げた時は、もうこれでいつ死んでもいいと思うくらい満足しました。生まれて初めて小説を書いて満足したのが『恋』でした。自分で言うのもなんですが、あの時期に、あんなに完成度の高い作品が書けたのは奇跡。虚心坦懐に書いたものが直木賞を受賞して、その後はものすごく自由になりました。そのつど自分の好きな作風で書けるようになりましたから。…何度か大きな転換点があってここまで来たという感じですね。

【 軽井沢の読書生活】

――直木賞を受賞された時は、もう軽井沢に引っ越されていたのですか?

小池 : 受賞が96年。90年にはもう越していました。

――それを機に、生活や時間の流れが変わったのでは?

小池 : カルチャーショックみたいなものはありましたね。大都会から別荘地に変わったわけですから。自分が書いているものが、どこに位置づけられているか分からないということと、あるお約束の中で書いていかなければならないミステリーとして現実離れしたものが書けないという制約を感じる中で、もっと自由に羽ばたくような感じで小説を書きたい、と思い始めたのと、軽井沢に行ったのがほとんど同時期でした。

――最初に軽井沢に引っ越そうと思ったきっかけは何だったんですか。

小池 : 単純に、バブルの頃で、東京の賃貸マンションがものすごく高くなっていた時期だったんです。うちは旦那も作家ですから、蔵書の量がものすごいんです。引っ越した時に一万冊あったんですが、広尾の借りていたマンションは廊下から何から全部本に埋もれていて。それを収納できる賃貸マンションを探していたら、都心から離れたところしかなくて。たまたま軽井沢に越した友人に「不便かもしれないけれど家を建てるには
いいんじゃないか」と薦められて見に行ったら、もう、すごく気に入って。まあ、本のために家を建てたようなものです(笑)。

――近所に大きな書店はあるんですか?

小池 : 今は平安堂という、長野に本店のある大きな書店があります。でも越した当初は小さな、雑誌と文庫しか置いていない本屋しかなかったですね。普通の人はパソコンを持っていない時代でしたからネットで注文もできず、本は東京に出た時に買っていました。まあ、新幹線が出来てからは一時間ですから、苦労はなかったです。

――一日の過ごし方というのは。

小池 : 基本的に昼間に仕事をするようにしているんですけれど、夜にかかっちゃうこともある。仕事は軽井沢でするんですが、東京に長く滞在する時はノート型パソコンを持ってきています。

――東京と軽井沢をいったりきたりなんですか。

小池 : 一週間に一度は東京に来ていますね。生活にメリハリがつくんです。東京でインタビューや打ち合わせをして、軽井沢でわき目もふらずに書いて、1週間か10日たってまた東京に来て…。そいうリズムが定着しています。

――本を読む時間帯などは決まっているのですか?

小池 : 最近忙しくて、なかなか読めないですね。新幹線の中で読むか、寝る前にちょっと読むか…。今は吸収するより吐き出すほう、つまり書くことに重点をおいています。それに、新刊でどうしてもこれが読みたい、という本が、年をおうごとに少なくなっていて、すでに読んだ本を読み返すほうが多いですね。昔読んだ坂口安吾、三島由紀夫、谷崎潤一郎などを読み返す。自分の書斎に、読み返す専用の本棚があって、内田百閧竭q橋由美子など、学生の頃に読んだ本が入っています。

――線が引かれている本たちが。

小池 : ボロボロになっちゃって買い換えたものもありますけれどね。

――旦那さんである藤田宜永さんとは、本の話はするのですか。

小池 : 一緒になった時からよく本の話はしていますよ。話すことの8、9割は本の話でしたね。好きな作品の傾向は、似てるんじゃないかな。あの人も冒険ハードボイルドでデビューしているので、最初はミステリーを中心に話すことが多かったんですが、もともとは吉行淳之介なんかが好きな人なんです。最近は忙しくて、あちらもあまり読んでいないかも(笑)。

――ご夫婦で男女の恋愛について書かれている、という印象があります。

小池 : それは自然だったみたい。男女のエロティシズムに興味があった人だったし、そのへんも似ていましたね。まあ、作風は全然違いますから。ジャンルとしては同じかもしれないけれど、男の目線と女の目線という違いもあるし。

【 大人の男女の恋】

虹の彼方
『虹の彼方』
小池 真理子(著)
毎日新聞社
1,890円(税込)
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――最新刊の『虹の彼方』は、新聞連載だったんですよね。どうでしたか。

小池 : 新聞連載と週刊誌連載はずっと断ってきて、これが生まれて初めての新聞連載だったんです。でも、最初から新聞だから作風を変えようとか、文体を変えようという意識はなかったですね。普通の文芸誌に連載するのと同じようにしよう、と思っていました。

――テーマに関してもそうですか。

小池 : これまで小説を読まなかった人も読んでくれるケースがあるので、一般向けに書かなくちゃいけない、と意識しすぎて噛んで含める言い方になってしまったら逆効果でよくないなと思って。だから極力新聞であることを意識しないようにしました。一回が原稿用紙2.5枚なんですが、2.5枚ずつ区切って書くこと意識もしないようにしました。普通に長編の書き下ろしを書くように書いて、学芸部の担当の方に、2.5枚に“ちぎって”もらっていました。うまくいかない時は、挿絵の大きさを変えていただくことで調整しましたね。

――48歳の女優と、45歳の作家、ともに結婚している男女の恋を書こうと思ったのは。

小池 : 女優と作家でなくてはいけないということはなかったんですが、婚外恋愛、つまり家庭を持つ男女が恋に落ちることは往々にしてあるわけで、そういう事態に陥った時に、主人公たちがどういう苦悩、せつなさ、そして絶望を感じ、どういう風に自分たちが生きる道を模索していくか、それをライブ感を持ちながら描きたいと思いました。過去を想定する形ではなくて、現在進行形で、現実に即しながら、観念的になりすぎず、かといって通俗に流されず、恋している二人が抱えている苦悩を正面から逃げずに書きたかった。

――二人の間には、ちょっとした嫉妬があったり、ささいなけんかもあったりする。そういうところがすごくリアルだと思いました。

小池 : これまで、わりと私はリアルであるところから逃げることが多かったんです。作家として自分を通して、反芻した後で形にする、ということが多かった。そうすると回想形式になりますよね。でも今回は回想でなく、現実そのもの、進んでいく時間の波に乗りながら、二人が味わうすべて、心の情景をあまさずに書こう、と。性愛シーンも含めて。世間ではそしりをまぬがれないことをしてしまう、その二人の気持ちを、そこに生まれる何かを、しつこくしつこく書いていきたかったんです。

――男性の視点と女性の視点、交互に語られるのが効果的です。

小池 : 女性視点だけだと片落ちになってしまうので。私の中には、小説を書く人間として両性具有のところがありますから、男性の視点も書くことができる。これまで男性の視点を書いたことはあまりなくて、長編ではこれは初めてだったんじゃないかな。書いていて面白かったですね。

――読み進めながら、この二人は心中しちゃうんじゃないかとずっと思っていました。でも…。ラストは最初から決めていたんですか?

小池 : もちろんです。ラストを決めないと、この作品はできなかったですね。心中したり、片方が自殺したり、それぞれ孤独に生きるか、もとのさやに収まるか…。いくつかの選択肢しかないけれど、どれもが嫌だったんです。ささやかな希望の光というか、そういう未来につながるものを二人にもたせたかった。こういう社会の中で、制裁を受けなければならない形の恋愛に溺れる男女が辿る道が、決まりきったことではないのだな、別の形もあるのだなという、一条の光を書きたかったんです。みなさん心中するんじゃないかと思われたようですが(笑)、その気持ちは微塵もなかった。

――それが、タイトルの言葉にもリンクしている。

小池 : そうですね。

――今後の執筆予定は。

小池 : 6月末から、『週刊新潮』で連載が始まります。刊行に関しては、秋に掌編小説集が出る予定です。

――初の新聞連載を終えた後は、初の週刊誌連載ですか。すごい。

小池 : そう、初めてなんですよ。週刊誌は週に16枚毎週書くわけですから、リズムをつかむのに時間がかかるかもしれない。

――どんな内容なんですか。

小池 : タイトルは『望みは何と訊かれたら』といいます。1970年前後、本格的に思想活動をしていた女子大生の話ですね。過激なセクトに属していて、そこから離脱していくんですが、なぜそこから離れていったかということと、彼女を救ってくれた年若い男の子との奇妙な生活を書きます、ということぐらいしか、今はちょっと申し上げられない。

――印象的なタイトルですね。

小池 : シャーロット・ランプリングとダーク・ボガードの『愛の嵐』という映画があります。ウィーンのホテルマンをしている、かつてのナチの党員だった男が、収容所で出会ったユダヤ人の女性と再会する。収容所時代、二人は奇妙な関係にあった。その過去の回想シーンで、流れていたのがこのタイトルの曲。歌ったのはマレーネ・ディートリッヒなんです。映画の中ではランプリングが歌っていたんですが。とても退廃的な曲で、久世光彦さんがエッセイに書いていらしたけれど、知る人が知る有名な曲。それを今回は、思い切りタイトルにしてみました。

――連載、楽しみにしています!

(2006年6月30日更新)

取材・文:瀧井朝世

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