WEB本の雑誌>【本のはなし】作家の読書道>第83回:穂村弘さん
チャーミングな口語短歌、トホホ&ニヤリな散文で人気を博している穂村弘さん。あの作風は、どんな読書体験から生まれてきたのでしょう。思春期の膨大な読書歴の背景には、実はとてつもなく切実な思いが託されていました。世界に対する思い、作品に対する思い。たっぷりと語ってくださいました。
(プロフィール)
1962年北海道生まれ。歌人。1990年に歌集『シンジケート』(沖積舎)でデビュー。2008年、『楽しい一日』で第44回短歌研究賞、『短歌の友人』(河出書房新社)で第19回伊藤整文学賞(評論部門)を受賞。また石井陽子とのコラボレーション『It's
fire,you can touch it』(「火よ、さわれるの」)でアルスエレクトロニカ・インタラクティブアート部門honorary
mention入選。短歌のみならず、近年はエッセイなどの散文でも幅広い人気を集めている。『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』、『ラインマーカーズ』(ともに小学館)、『求愛瞳孔反射』(新潮社、河出文庫)、『本当はちがうんだ日記』(集英社)など作品多数。
――一番古い読書の記憶といいますと。
穂村 : やはり幼稚園や小学校の時に親に買い与えられた本かな、と思います。松谷みよ子さんの『ちいさいモモちゃん』のシリーズなどを覚えていますね。まだそんなに“自分”があるわけではないので、与えられればなんでも読んでいました。本を読む子はいい子という感覚が濃厚にあった時代ですから、結構熱心に買ってくれていたんじゃないかな。
――自分から積極的に読むようになったのは。
穂村 : 中学生くらいの時に、学校の試験が終わると晴れやかな気持ちで古本屋に行っていたのを覚えていますね。買うのはカバーのない文庫、と自分の頭の中で勝手に限定されていました。一番安い、ということなんだと思いますけれど。当時はかなり読んでいたと思います。中学生くらいの時は読むスピードもはやかったですし、テンションも高かった。
――読書に目覚めるきっかけがあったのですか。
穂村 : ある時まではあくまでも本は娯楽で、それほど切実な思いはなかったんです。小学校高学年くらいかな、本に対する認識が変わったのは。思春期に入ってから、何か決定的なことが書いてある、そういう本があるんじゃないかと思うようになって。その決定的なことを理解できないと、自分は生きていけないという風に感覚が変わったんです。親に本を買い与えられていた頃は普通に幸福な子供でしたが、中学に入るくらいから、自分はこのままでは生きていけないという感じになったんです。じゃあ、どうなれば生きていけるのかというと、その答えは親や先生や友達との関係の中では得られないと思い込んでいた。それで決定的なことが書かれてある本を見つけだして、それをつかまない限り、自分は駄目だという、特殊なテンションがありました。娯楽というよりも、読んでは「これも違う、次!」というような。自分だけの決定的なバイブルを求める感覚で読んでいたんです。
――途中まで読んでは、駄目だ、次、という感じですか。
穂村 : それは案外ありませんでした。今も途中で投げ出すのは得意じゃない。最後まで読んだと思います。
――その時に手にするのは、どのような本だったのでしょうか。小説ですか。
穂村 : ジャンルは問わなかったですね。そういうセンサーで見ていると、小説でも楽しみのために書かれた本と、そうでないものは分かるんです。例えばヘッセなら『デミアン』とか。もうちょっとしてからは、小説よりも、例えばユングとか木村敏とかグルジエフとか、そういう心理学や精神病理学とか神秘思想などを手に取るようになる。楽しみという感じからはどんどん遠ざかっていました。
――でも、決定的なものにはたどり着けない。
穂村 : そう、たどり着けない。その時点での求めているものってものすごく大きくて、それだけ読めば決定的にラクになるくらいのインパクトがあるものを探していた。今の大人の体感とは違いますよね。今ならそういうものの100分の1ぐらいものものがあれば傑作と思える。その頃はいわゆる傑作なだけでは駄目なわけで。
――本はどうやって選んでいたんでしょうか。
穂村 : 集中力というか、本屋に無数の本があるわけですが、なんとなく雰囲気で分かるんです。半分くらい頭がおかしくなっているので。傍点が打ってある本は駄目だ、章が三点リーダー(「…」)で終わっている本は駄目だ、エクスクラメーションマークが使われている本は駄目だ、という感覚もありました。決定的なことを書く力量があるなら傍点や三点リーダーでは終わらない、ということだったんだと思いますね、理屈をつければ。
――その頃読んだもので印象に残ったものはありましたか。
穂村 : 今でも覚えているのは、それまで少女漫画って読んだことがなかったのに、突然、少女漫画の広い海の中にも可能性があるかもと思って、沢山並んでいる本の中から大島弓子の『綿の国星』をキャッチしたこと。その時は少女漫画はみんなこうした内容なんだ、これは大変なジャンルだと思ったけれど、実は無数にある可能性の中で、最も決定的なものを最初にピックアップしたということだったんですね。
――何の情報もなく、あの名作を手にされたというのがすごい。
穂村 : それを見つけないとすごく困るという、必然性があると、センサーが働くんです。
――その頃は、詩歌には触れなかったんですか。
穂村 : 中高生の頃は触れませんでした。確かに理屈から言うと、決定的なことが書かれてあるというと詩のようなものだろうし、ある意味詩を求めていんだと思うけれど、実際に存在している詩という形のものは、あんまり認識していませんでした。
――大島弓子さんのほかには、覚えている作品はありますか。
穂村 : 先ほども上げた木村敏という精神病理学者の論文集のようなもの、清水俊二訳のレイモンド・チャンドラー、倉橋由美子。大藪春彦も読んだなあ。もっと後になると、狩撫麻礼の原作の漫画を読みました。
――それぞれタイプが違うように思えますが、どのような点に惹かれたのでしょう。
穂村 : 木村敏に関していえば、自分が感じている違和感が、自分固有のものじゃないと分かったんです。分裂親和的なメンタリティの人にはある程度共通するものなんだ、と分かった。彼は臨床の人だから、自分が感じているのと同じようなズレ方をしている他の人のことが沢山書いてあって、それが哲学的にどういうことか説明されていて。最初は『時間と自己』という新書を読んで、そこからハマって全部読みました。大学生の頃、授業中に読んでいましたね。
――それほど、しっくりくるものがあったということですか。
穂村 : 自分の実感に即したことが書いてあるので、知識としてとらえようとしなくても、何が書かれてあるのか理解できるんです。自分の置かれている状況が唯一無二の特別なものだと思っていたのが、そうじゃないのか、と意識が相対化させられた。それから自分よりも自分の状況を説明できる人がいるという驚きもありました。それが哲学というか、この世のあり方と密接に関わっているんだ、という驚きも。逆に言うと、自分の違和感をベースにして世界というものを認識することが可能なんだということが分かったんです。違和感というのは、例えば、水を飲む時だって、コップに手を近づける動作が続いて、いいタイミングで手がすぼまってコップをつかむでしょう。そういうことは誰も問題にしないけれど、もしかするとコップの手前で手がすぼまって、うまくつかめない可能性だってあるんじゃないか、とか。そういう違和感が肥大していたんです。
――チャンドラーに関しては。
穂村 : 中学生ぐらいの時から読んでいました。原文がどうなっているのか分かりませんが、清水訳って、無意味なことがいっぱい書かれてあるんですね。例えば自分がいて誰かがいて、お互い飲み物を飲んでいる。二人のグラスを手に持ってお代わりを注ぎにいく途中で、どっちがどっちのグラスか分からなくなる。そういった、小説の筋とはまったく関係ないけれど、でも実際に起きることが書かれてある。僕が思春期の頃に混乱していた感じというのは、そのグラスがどっちがどっちか分からなくなる感覚が極端に肥大してしまって、小説でいうストーリーや対人的な会話にあたる部分が見えなくなってしまう感覚だったんです。色盲検査表の中には図形や文字があるけれど、それを消しているノイズとされている部分に飲まれてしまうような。だから友達に「おはよう」と言われても、反応が悪かったんですよね。その、飲まれる側の感覚がすごく出ているんです、清水訳のチャンドラーは。いったん誰かの部屋から出た後に抜き足差し足で戻って隙間から覗くと、相手が虚空を見つめていた、とか。ストーリー上無意味な描写が多い。あるいは、ある店に入って、まずそうなサンドイッチが出てきたという描写があって、しばらく別のことが書かれ、そのサンドイッチを食べると驚くべきことにうまかった、という描写がある。すると僕は声を出すほど衝撃を受ける。そのノイズの部分をなぜ小説に書くのか、と。
――そうした記述をしてしまうのはなぜなのか、と。
穂村 : そうしたものは他にもあって、例えば大隈正秋さんという人が演出していたテレビアニメの初代の『ルパン三世』は、番組の冒頭で峰不二子がシャワーを浴びながら鼻歌を歌っている。隣の部屋でルパンと次元がそれを寝転がって聞いていて、しばらくしてから次元が「ちっ、ヤな歌だぜ」と言う。なぜわざわざ、次元にそれを言わせるためにその歌を延々と流すのか。格好いい、ということがあるんだろうけれど。だから僕は大隈さんのルパンがすごく好きでしたね。
――日常はそうしたノイズ部分であふれていますよね。
穂村 : 無意味とかノイズとかいうのは、いわゆる我々の合目的意識の外ってことですよね。生き延びるため、サバイバルに有効か無効かというとあきらかに無効。じゃあサバイバルに効力を発揮しない部分というのはなんなのだろう、という。「おはよう」と言われた時に瞬時に明るく「おはよう」と返せないとヘンな奴だと思われるだろうけれど、じゃあそれは単にネガティブなことなのかどうか。でもそれは学校でももちろんそうだけれど、会社に入るとますますネガティブ度を増してしまう。会社のほうがより合目的性に厳しくなりますから。チューニングを強化しなければいけない場所だから。
――大藪さんの作品にも、そうした描写は多かったのですか。
穂村 : 一見ないように見えますけれど。デビュー作の『野獣死すべし』から始まって、全部読みましたが、ある作品には、肛門洗浄をしたという描写が何回も出てくるんです。ご飯を食べた後必ずうんこして、肛門を洗う。普通、小説ってご飯すら毎回書かないし、うんこも書かないのに、それを執拗に書いているんです。そうすると、ヘンにそこにトリップ感が生まれてくる。それはリアリズムじゃない。リアルだからトリップするのではなく、宿命に対する抗い、というか抵抗の姿勢を感じるというか。
――倉橋由美子さんはいかがでしたか。
穂村 : 実際には思春期の感覚って無様なものなんだけれど、それがある価値観みたいなものに転化されているんですよね。つまり「おはよう」と言って明るく「おはよう」と返せることのほうが侮蔑されたりする。観念のほうが世界に対して優位になりうるという幻想を抱かせてくれたんですよね。
――狩撫麻礼原作の漫画というのは。
穂村 : 『ボーダー』とか、映画にもなった土屋ガロン名義の『オールド・ボーイ』、松田優作で映画にもなった『ア・ホーマンス』などの作者です。合目的性への反乱というか、価値の転換というものが図られているんですよね。価値の転換というのは度合いによって狂気に分類されたり、芸能に分類されたり、異思想に分類されたりすると思うんですが、まったくどれでもなく、完全に普通のものとしてありうるだろうというような意識が僕にはあって。しいて言えば、詩だって、今みんな普通のものだと思っていない。でも詩だって狂気や芸能や神秘思想に類するものという位置ではなく、もっと真ん中にあるものじゃないかと思っているんです。ああ、そういうものとしてはSFもありますね。
――異思想にみなされるものとして。
穂村 : フィリップ・K・ディックとか。僕はシオドア・スタージョンが好きなんですが、ある種SFは必ず脇においやられるわけです。
――ちょっと世界が違えば、人の行為も違う意味を持ってくるかもしれませんね。
穂村 : そのはずですけれど、実際には現世におけるサバイバルの形というのは非常に強固なものだから、そうそう変動はしないでしょう。
――ディックやスタージョンでは、そうした世界が描かれている。
穂村 : ディックに、それこそコップをつかもうとしてつかめない描写があったような気がします。ただ、そんなには読んでいませんね。スタージョンはみんな好きです。あえて挙げるなら「雷と薔薇」というのがすごく好きで。
――その、好き、というポイントはどこにあったのでしょう。
穂村 : うーん。ロマンチックだからかなあ。
――SFを読んでいたのは、中学から大学にかけてですか。
穂村 : 海外のSFはあまり読んでいませんが、中高あたりで小松左京や筒井康隆、平井和正などは読んでいました。
――決定的なものを探している頃に、国内のSFもやはり読まれていた、と。
穂村 : やはりいきますね。山田正紀くらいまでかな。異常なことがいっぱい書かれてあるじゃないですか。異常なことが書かれてあることが大事でしたから。大島弓子だって、ごく普通の自分の気持ちに従っていくと、どんどん異常になっていく。本人の行動もそうだし、それにともなって世界が異常になっていく。その異常さが加速することで、最終的にあるマジカルな、奇跡的なロジックによってハッピーエンドを迎えるという構造。一回性の論理によって、前半は異常さが増し、後半では本人の夢を叶えるという奇跡みたいなことが描かれるんです。同性を好きになるとか、猫が人間になるはずとか、宇宙人と話をするとか、予知夢を見るといった、この世のスタンダードからずれている夢が報われる。この世の論理にそって報われるのでは報われたことにならなくて、ノイズ側の論理で世界が覆されてハッピーエンドになっている。
――この世の論理でのハッピーエンドではないところが重要ですね。
穂村 : 例えば、夏でも長袖の人や、雨でも傘を差さない人がいる。そういう人を見るとすごく反応するんです、僕は。大島弓子の話はそれを極端にしたようなもので、夏でも半袖を着ないこと、雨でも傘を差さないことがその人を滅茶苦茶な窮地に陥れる。この世の論理が追い詰めるんです。でも、夏でも長袖のこと、雨でも傘を差さないことが、最終的にはその人にとっての報われるものだという形で展開する。そのことがやっぱりすごいと思う。
――短歌に出会ったきっかけは、学生時代にあったと思うのですが。
穂村 : 一緒に住んでいた男友達が、塚本邦雄という歌人の歌集を読んでいて、のぞき込んだら真っ白い紙に一行しか言葉が書いていない。そこに、異常な感じがしたんです。さらに読めない漢字や旧仮名遣いが目に入って。僕にとっては異常ということが大事なので、その異常さに惹かれたんですね。そこから読み始めて、林あまりや俵万智の口語短歌の実例を見てから、これなら自分も作ることができる、と思ったんです。
――ご自身でも作りたくなった。
穂村 : 異常なことを書いて、この世の社会的な価値として認知される、そういうものがあるんだと思って。といってもほぼお金になったりしないジャンルですけれど、まあ異常なことを書いて何十年もやり続けていると、実際、こうやって話を聞いてくれる人が現れるわけで。部屋で一人で今喋っているようなことを言っていたら、それは狂っていることになる。だからある意味今の状況は大島弓子的ハッピーエンドともいえるかもしれません。
――大学は北海道大学に進学して、そこから上智大学の英文科に入りなおされていますが、転学を決めた理由は。
穂村 : よく聞かれるんですけれど、うまく答えられないんです。10代の頃って頭が煮えていて、本当になんとなく、なんです。北大は楽しかったんですけれど。
――学生時代、雑誌もかなり読まれていたそうですが。特にマガジンハウスの雑誌を。
穂村 : ああ、読んでいました。『オリーブ』が好きでした。素敵なことが書いてあるじゃないですか。
――80年代の少女たちのバイブルです。
穂村 : 素敵なことが書いてあるのがすごく好きで。でも『ポパイ』や『ブルータス』は自分と関わる。自分はそれをステップとして踏めないだろうという感じがあった。『ジュニアそれいゆ』も好きなんですけれど、女の子が素敵になる、そういうことにすごく憧れるんですよね。『オリーブ』は創刊準備号も持っています。休刊になったのは衝撃的でした。栗尾さんが若乃花と結婚した時も、世界がゆがんだような気がしました。
――卒業されて、就職されて。エッセイ作品でもよく会社のことが出てきていましたが、今はもうお辞めになったのですか。
穂村 : 3、4年前に辞めたんです。17年くらい勤めていたんですけれど。二足の草鞋が履ききれなくなったこともあるし、目を悪くしたこともあって。それで優先順位が変わりました。
――では、最近の読書生活は。
穂村 : どんどん読まなくなっています。でも、買うようにはなりました。夢の世界を現実に投影する人って潜在的にいると思うんです。満州マニアのおじさんとか、海の底に沈んだ古代文明が好きな人とか。僕もそういう傾向があって、日本語なんだけれど特殊な書体で書かれていたり、現在ではありえないレイアウトやタイポグラフィーが載っているものが好きで。そういうものを買ってしまうんですね。時間がある時は古書店に行くし、ネットでも買います。ただ、読む冊数は少ない。読むのがどんどん遅くなっているんです。先日オーストリアに行った時、飛行機で片道10時間かかるのに、やっと1冊読む程度。それって遅いですよね。書評なども書いているのに、困っています。
――最近読んで、印象に残っている本を教えてください。
穂村 : 最近じゃないけど、今ぱっと思い出したのが、飛浩隆さんの『象られた力』と『グラン・ヴァカンス』、中井拓志さんの『アリス』。特異な感覚が世界を覆すような、独自のロジックがそこにあるものが好きなんです。
――ちなみにオールタイムベストと聞かれたら。
穂村 : 小説では『長いお別れ』かな。ただ漫画を入れると、一気に増えちゃいますね。『デビルマン』とか外せないでしょう、梅図かずおさんも外せないでしょう。
――今でも本は感覚のセンサーで見つけ出されているのですか。
穂村 : そうですね。タイトルで判断したり。中身を見て、ちょっとでも普通のことが書いてあると読まないですけれど。
――普通のことと、そうでないものをパッと見て分かる感覚とは。
穂村 : パッと見た時、それが抽象に見えることがある。そういう感じです。具象の反対というのではなく、現実にないオーラをおびているものは、抽象に見える。記述が現実的でも、例えば肛門洗浄が何十回も出てくると、すごく抽象的に感じる。リアルだって思えないんですよね。
――行為が繰り返されると、儀式的な何かと解釈されることもあると思いますが。
穂村 : どうしても儀式や祈りに見えることが多いんですよね。でも、この世の理の中で、儀式や祈り、狂気だったり、瞬間的なイレギュラーとして認識されるだけであって、実際はそうじゃない。儀式や祈りというとそこで終わってしまうけれど、抽象とかロジックというと、まだ先がある。完全にロジックという形で描いたのが大島弓子だと思う。だから大島さんがすごく好きなんだと思います。
――決してこの世の論理に落とし込まないロジックを使って。
穂村 : 完全な形で記述することって難しいと思うんです。なぜかというと、サバイバルは悪じゃないから。「おはよう」と明るく挨拶を返すこと自体、悪じゃない。大島さんはそこもちゃんと描いてますよね。我々が生き延びるための必須の要件として選び取っているものなわけだし、誰しも生き延びようとしないと、死んでしまう。そこから完全に逸脱することはできないんです。「これは宗教ですよ」「これはお笑いですよ」といって逸脱する人はいますけれど、お笑いの人だって何十年もやっていると顔が険しくなっていく。あれはサバイバル原則に反することをやっているからなんでしょうね。
――ご自身が作品を作る際にも、サバイバルの原則から逸脱しようという意識は強くお持ちですか。
穂村 : 強いと思います。読む人は分かると思う。ただ、それをカテゴライズする時、向こう側のレッテルをみんなが使うから、例えば「脱力」とか言われてしまう。でも実際に起きていることは脱力じゃなくて緊張ですよね。逆らおうとしているのだから、ものすごく緊張している。
――「脱力」という言葉が選ばれることに、やはり抵抗はありますか。
穂村 : ただ、かつては「脱力」という言葉に、肯定的な価値観はなかったですよね。それなりに変動はしているなと思います。出力する時に「脱力」といってしまうだけであって、今僕が話してきたようなことは、正確に読者には伝わっていると思っています。
――『世界音痴』や『にょっ記』といったエッセイなどでは、虚実入り混じっていますよね。電車の中で耳にした会話とかも、あまりに面白くて、本当のこととは思えなくて。
穂村 : 中学生の頃から体感があまり変わっていなくて、この世界を覆す脱出法をサーチしていくと、電車の中の人の話も、この世からずれた世界にいく扉として認識される。事実といえばみんな事実だけれど、描き方としてバイアスがすごくかかっているんです。まあ、言葉ですからね。音楽や彫刻なら、どこまでが事実でどこまでが創作か言われませんよね。
――『現実入門』ではいろんなことにチャレンジされていますが、プロポーズにも挑戦されていて、刊行当時、私の周囲では「穂村さんが美人編集者と結婚した!」と話題になっていました。でもあれは…。
穂村 : 美人編集者とは結婚してないですけれどね。ただ、あの時期に結婚したのも、親に挨拶に行ったのも事実です。
――歌集では『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』などに登場するまみという少女の存在が気になります。
穂村 : 女の人って男の人に比べると、合目的性の外に立たされているでしょう。言語体系とか、社会システムとか。いくら僕が思春期に危機感を持ったとしたも、同じ感度を持った女性がいれば、その人のほうがもっと危機的なんだろうという感じはあります。まあ、これまでにもあるじゃないですか、『不思議の国のアリス』とか。
――すごーく、ああいう感じの少女を想像していました。
穂村 : それもフェミニズム的には批判の対象になるけれど、僕には女の人はみんな妖精、といった感覚が抜きがたくあって。絶対にそんなことない、といつも言われます。その通りなんだけれど。
――『しましまゼビー キャンプにいく』など絵本の翻訳もされていますが。
穂村 : 絵本が好きだということもありますね。特殊なデフォルメがあるでしょう。それが好きなんです。
――では最後に、今後の刊行予定を教えてください。
穂村 : 『本当はちがうんだ日記』が文庫になりました。
(2008年9月24日更新)
WEB本の雑誌>【本のはなし】作家の読書道>第83回:穂村弘さん