第20回
川崎にワンフロア1000坪のあおい書店ができたというので見に行ってきた。広い。もうただただ広い。しかも専門書の棚は所謂スカート什器というやつで、つまり棚の前に平台はなく、床から棚・棚・棚。蔵書点数はほとんど図書館並みになる(「ジュンク堂風」ともいえる)。
さて、いま私が働いている店は60坪に満たない、いまどきの標準からするとだいぶ小さな店舗だ。その店の感覚からすれば、1000坪の店など、こう言ってはなんだが、ほとんど無駄だらけに映る。日常、「厳選」と言えば聞こえはいいが、棚があと1段多ければ置いておきたいのにと思うものを(新刊であれなんであれ)バサバサと切り捨てる非情な仕事に追われる身からすれば、ほんとにこんな本いるの?と思ってしまうようなものが、延々と並んでいるように見えてしまうのだ。もちろんそれは私の錯覚で、1000坪の店には1000坪の店の「必要不可欠」があるわけだし、どんなに店が広くても全ての出版物が網羅できるわけでは全くなく、そこに並んでいるのは相応の取捨選択が行われた結果の勝ち残りであることは言うまでもない。もちろん、川崎・横浜エリアの人たちが神田や新宿や池袋まで出かけなくても、近場で専門書を「選ぶ」ことができるようになったというのはなんともすばらしい話であり、この出店にいちゃもんをつけるつもりは毛頭ない。しかし、大型書店の「量」対決には、そろそろ飽きてきている客としての私がいるのも事実で、「大きければいいってもんじゃないよねー」とつい言ってみたくなるのだ(誤解を招かないように付け加えておくが、川崎のあおい書店が「質」において不十分だと言っているわけではない)。
錯覚というのは恐ろしいものである。かつて港北東急SC店に勤めていたとき、私は「300坪の店だけど通路を広く取ったり什器を低めに作ったりしているので棚の段数はそんなに多くない」と平気で言っていた。実際、常に「棚が足りない」と思っていた。しかしつい先日、港北店に遊びにいって思ったのは、同じ棚数なのに「少し間引いて面陳スペースを作ったほうがメリハリがついていいんじゃない?」ということだった。当時の私なら断固反対しただろう。いったい何を切れというのですか?これだってあれだって必要でしょう!無駄な在庫など1点もありません。ほんとはもっとちゃんと揃えたいのに今だって既に諦めているものがたくさんあるんですよ!と。
今の私が300坪の店を見て無駄が多いと思ってしまうのも錯覚だし、300坪の店で1点も無駄な在庫はないと思い込むのも錯覚だ。選択基準を少し変えれば、いくらでも売場は変わる。どう決めるか、の問題であって、これが絶対、ではない。毎日同じ棚に向き合っているとどんどん愛着が湧いてくるのは当然で、しかも力を注いで作ったものならなおさらそれを守りたくなる。しかしどんな仕事でもそうだろうが、自分の仕事を批評的にみる眼差しは決定的に重要で、それがなければ革新はありえない。
だから私は、錯覚と錯覚をぶつけ合うことが必要なのではないかと思う。ねえほんとにこの棚はこれでいいわけ?と言ってみる。反論があれば再反論を試みる。結構、盲点を突かれたりしておもしろい。他人の仕事を批評しながら自分の仕事を顧みる。言った言葉が返ってくる。言葉にしてみて初めて気付くことも多い。漠然とした問題を、個別具体的な課題に分解していく作業が、問題解決には不可欠だ。
ところがこの業界、どうにも「いいひと」が多いようで、あまり角の立つことは言わないようにする暗黙の了解があるのか、相互批評の慣習はほとんどない。社内にも、会議はたくさんあるけれど、議論はあまり活発といえない。そのことにこそ危機感を持つべきだ。なんだかよくわからないうちに売上が落ちてきて、なんだかよくわからないので下手な鉄砲数打って、的中率が低くてもあまり深く考えず、なんだかよくわからないけどとにかくがんばれとにかく働けとどんどん精神主義的になっていき、なんだかよくわからないまま疲弊消耗を重ねていく。そんな未来は望まない。いま私たちがやっていることはほんとに正しいんだろうかね? そんな角度から、異論反論織り交ぜて、方法論の練りなおしをしていくような、刺激的なコミュニケーション回路を縦にも横にも開拓していきたいと思う。