第3回 「読者の顔を思い浮かべて」
お隣の「池袋風雲録」が気になって書きにくいったらありゃしない(笑)。でも、いま現在の、田口さんがいなくなったリブロに関わる者として、また、田口さんのいう「あのリブロ」に間に合わなかった世代のものとして、リブロの歴史がどんなふうに描かれるのか興味津々です。楽しみにしています。
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さて、少し朝早い時間の電車に乗ると、私立の小学校へ通う子どもたちを見かけることになる。朝からまあギャーギャー元気で頼もしい限りなのだが、彼らの話題の中心に「本」が存在していることも少なくなく、そういうときにはちょっとうれしくなったりするのは職業病だろうか。少し前までは圧倒的にハリーポッターだったが、最近はややピークを過ぎたようで、先日は、「かいけつゾロリ」シリーズ(ポプラ社)の、大回し読み大会になっていた。実際このシリーズはよく売れていて、最新作『かいけつゾロリあついぜ!ターメンたいけつ』は、うちの店でも数週にわたってベスト10に入っている。
何が言いたいかというと、「最近の子どもは本を読まなくなった」なんて大嘘で、結構読書を楽しんでいるようだ、ということ。そもそもあのハリーポッター、私は読んでいないが、あんなに分厚い本を、しかも(現時点で)3巻までこぞって読んでいる子どもたち。ついでに、解説書のようなものや、「類似品」といってはいけないが、他社から(いかにも狙って)刊行されている各種ファンタジー小説にも、しっかり手を伸ばしている。書店としては、実にありがたい話だ。
しかし、それに比べて大人の読書離れは、残念ながら嘘でないように思う。もちろん、いろいろな事情・理由があって、インターネットや電子メールを含めれば決して「活字離れ」ではないという説もあるが、ひとつには、書店の責任もあるのではないか、ということを思わないではいられない。
読書を楽しんでいる子どもたちが、そのまま読書から離れずに成長し、大人になって、生涯読書を楽しみ続けられるような商品提案ができているかどうか。もっと言えば、その人にとって面白い本が、その人の目にちゃんと届くように、陳列できているかどうか。そういうことを考えずにはいられない。
もちろんこれは自己批判を含めて言うのだが、どうも書店の陳列というのは、ツメが甘いような気がする。ジャンル別になっていたり、著者順になっていたり、テーマ別になったいたり、それなりに分類されているにはいるが、全体に大雑把で、場合によってはいいかげんだ。ときには、そもそも分類する意志がないのではないか?と思わせるような書店にも出くわすことがある。そういうところで自分にとって面白い本を探すのは至難の業だ。本にとっても不幸なのは言うまでもない。
逆に非常に巧い分類と陳列で、思わぬ出費を迫ってくる書店もある。「げっ、この本、何? うわーっ、気になる~」となると、ついつい買ってしまう/買わされてしまうものだ。こちらの好みを読まれているのが悔しいような嬉しいような。そういう書店にはまた何かを期待して足を運んでしまうものであり、実に商売上手だと思う。店と客の間に、本を通じたある種の(無言の)コミュニケーションが成立しているわけで、最も強力な顧客囲い込み戦術であるとも言える。
自分の仕事に引きつけて言えば、どれだけ「読者の顔を思い浮かべて」本を並べているか、ということが問われているのだと思う。言うまでもないことだがついつい忘れられがちなので敢えて言うと、本を買うのは「読者」である。本を読まない人は、本を買わない(もちろん例外はある)。書店としては、常に「読者」、本を読む人の気持ちや好みや必要性を推察していかなければならない。いっぱい入ってきたので新刊台に出しま~す、心理って書いてあるので心理学の棚に突っ込みました、だけでは不十分だ。その本を読むのはどんな人だろうか、どんなところに置いておけば気付いてもらえるだろうか、その人はほかにどんな本を求めてくるだろうか、もしかするとこれと一緒に並べると喜んでもらえるんじゃないか、(逆に)これと一緒に並べたらイヤな顔されるかもな、等々、とことん「読者の顔を思い浮かべて」考えなければならない。言ってしまえば、それが仕事だ。
従業員にとっては数万冊のうちの1冊に過ぎないものでも、「読者」にとってはかけがえのない1冊になるものかもしれず、その意味では、1冊1冊に手抜きは許されない。あたりまえの話だが、書店は棚作りに全く手を抜けないのである(手を抜いた分だけ、信頼を失い、客を奪われ、売上が落ちて行くだろう。競争は厳しいのだ)。
もう一度言うが、これは自己批判を含めて言っている。