第9回 「ブーム去りし後、何が残るか」
斎藤孝『声に出して読みたい日本語』(草思社)のヒット以来、本の世界ではちょっとした日本語ブームになっている。教育論として注目される斎藤孝の著作とは全く異質な、雑学的な単語集までをも含むのだが、いずれにしても日本語の豊穣な蓄積に改めて目を向けようという点で共通している。
いつの時代でも「若者」の言葉使いは年長者によって嫌悪され、そして何度となく、古き良き日本語への回帰が叫ばれてきた。今回のブームも、そういう意味合いを全く含まないわけではないが、しかしそれだけではなく、いくつかの今日的な問題意識が後押ししている印象を受ける。
(1)英語(とパソコン?)能力を重視する社会(的圧力)への(心情的)反発。
(2)言葉使いを含む表現力の欠如が命取りになりかねない労働市場の競争激化。
(3)「ゆとり教育」~「学力低下」(斎藤孝も国語教科書の質的低下を批判している)。
(4)「キレる」子ども。感情表現が言葉ではなく暴力に直結してしまう子ども(と大人)の問題。
(5)「国民」的共通言語の消滅。語学力とは別の次元で、「話が通じない」ポストモダン社会の現実。
ちょっと考えても、これくらいは浮かぶ。それぞれ意味内容は異なるが、全て「不安」に根ざしているのが、なんとも辛い話だ。
ところでこの日本語ブームよりちょっと前に、論理力ブームというのがあった。あった、というか今でも続いているのだが、「論理」とか「ロジカル」という単語がタイトルに含まれるビジネス書が次々刊行され、いずれもよく売れるという現象で、ビジネスマンの間では論理的思考力の鍛錬が「必須科目」となった模様だ(関連して、数学の入門書も売れている)。
これに外国語や資格試験のテキスト、コンピュータのマニュアルなどを加えると、世の中のビジネスマンがいかに勉強しているか、考えただけでもゾッとするような量になる。書店の売上もこのビジネスマンの学習投資に大きく依存しているわけで、「勉強しないと落ちこぼれるぞ」と脅迫するような手法で売上を確保している現実がある(しかも同時に「癒し」と称して現実逃避の誘いも忘れないのだから、倫理的にはもうめちゃくちゃである)。総じてこれが「資本主義」ということなのだろうが、例えば論理的思考力を研くことまでが、文化的に豊かな生活よりも、弱肉強食の動物的な競争の方に直結しているというのは、なんとも皮肉な話ではないだろうか。
そこで日本語ブームに話を戻すが、これまた幾分、動物的である(宣伝文句に「国語は体育だ」というのがあったと思うが、国語が大好きで体育が大嫌いだった私としては、国語まで体育にしないでくれよ、と言いたくなる)。日本語の名文を声に出して読む訓練を反復的に行うことで、日本語の構造を身体感覚的に理解することができるというのだが、それ自体は全く正しいとしても、それだけで言語によるコミュニケーションが円滑になるとは思えない。朗読の快さは、異質な他者への理解を何も準備しないだろうし、膨大な日本語の知識の中に自閉していくとすれば、通じない言葉のストックを量的に増やすのみで、余計にストレスフルだ。日本語フェティシズムそれ自体の快楽を否定するつもりは毛頭ないが、それだけで先述したような様々な「不安」が払拭されるわけではないことも言い添えなければならない。
身体は独りでも鍛えられるが、コミュニケーションは他者の存在を前提としている。他者とは基本的に不可解で思い通りにならない、ムカツク存在である。その他者との間に言語の流通回路を開くとき、額に入れられた「名文」を愛でるような穏やかさは通常想定できない。そこにはおそらく、戦場にも似た、激しいぶつかり合いがあるだろう。そのとき、身体的な、反射神経的な言語感覚は、回路の開放にどれだけの時間、耐えられるだろうか。むしろ必要なのは、相手の言葉の意味内容を慎重に吟味し、それを自分の価値基準に照らして冷静に評価し、その評価を言語化して相手に返すという面倒な手続を、延々と繰り返すだけの意思の力、思想の強度である。
それを直接支援するような提案は、どんなかたちで可能だろうか。書店として、そういう問題に取り組まないとすれば、それは単に怠惰というものだろう。