第11回 「夏の文庫売場」
「どこの本屋も同じような店ばかりでつまらない」という批判は常にある。書店=金太郎飴説。確かにそうだよなあと思う部分と、よく見るといろいろ違うんですけどねというささやかな反論と両方ある。しかし、この季節の文庫売場に関しては、全く反論不可能だ。「新潮文庫の100冊」、集英社「ナツイチ」、角川文庫「夏のリラックス」。本当にどこの書店も同じフェアを展開している。
フェアの中身は(1)近代文学(漱石、三島、芥川等々)、(2)現代小説(江国香織、辻仁成…)、(3)ミステリー(宮部みゆき、赤川次郎ほか)、(4)エッセイ(さくらももこ!)、(5)海外文学(カフカからサンドラ・ブラウンまで)と幅広いのだが、だいたい毎年同じような作品が並ぶし、6月末から8月末までの約2ヶ月間、これらの「定番商品」に売場を占拠されるので、普段本を読まない人を読書の世界に引きずり込む効果はあるが、逆に日常的に本を読んでいる人にとってはつまらないことこの上ない売場となってしまう。いまさら『こころ』を読めってか?と思われるだろう。
普段新刊が優先されがちな売場において、漱石や三島や芥川の名作がしっかり平積みされるというのは決して悪いことではない。そういう機会としては夏の文庫フェアにも積極的な意義があると思う。しかし全国一斉に同じ商品が並ぶことには意味がない。読書感想文の宿題で仕方なく本を読まなければならない人や、夏休みで普段より多く読書の時間を取ることのできる人に向けて、本来ならばそれぞれの書店がそれぞれの推薦商品をここぞとばかりにアピールすべきではないのか。夏の大きな文庫需要を前にして、なぜ各書店は「競争」しないのだろうか。他業種の常識から考えれば、なんとも不思議な現象がまかり通っているように思えてならない。
といいながらも現状では各出版社の力の入れようが尋常でないので、これに押されている。私のいる店でもパンダと窪塚洋介が天井からぶら下がっている。この慣習を変えるには、書店サイドの強い意志と覚悟が必要であり、言うは易し行うは難しだ。
例えば「リブロの100冊」を選んでリブロチェーン全店で同一フェアを展開するとする。ジュンク堂は「ジュンク堂の100冊」を、紀伊國屋は「紀伊國屋の100冊」を、青山ブックセンターは「青山ブックセンターの100冊」をやればいい。そうすれば、各書店の個性が夏の文庫売場でも見えてくるだろう。リブロとしては、「リブロの100冊」はいつも面白いものが揃っていていいですね、ハズレがなくて信頼できますと言われるような100冊を選ぶことに力を注ぐ。各社とも同様。健全な競争。書店界全体の活性化につながるのではないだろうか。
ちなみに今年の「新潮文庫の100冊」には大江健三郎の作品が採用されていない。残念である。というのは、夏の文庫フェアが始まる直前まで、私のいる店では「現代文学知ったかぶり!」と題した文庫フェアを独自に企画して、私が独断で選んだ現代作家40人の作品を1人1点ずつ並べていたのだが、そのときいちばん売れたのが大江健三郎の『死者の奢り・飼育』(新潮文庫)だったからだ。春樹やばななより大江が売れた。
ついでに言うが、同じ大江の『性的人間』(新潮文庫)は品切とのこと。ちゃんと売れば売れるだろうに、もったいないことをしているような気がする。