第2回
『動物化するポストモダン』(東浩紀 講談社現代新書)は昨今の顧客層の変化に首を傾げていた私に、目からうろこが落ちるような解釈を与えてくれて、十分に刺激的な本であった。その『動物化…』の導入部分に「ポストモダニズムの思想は・・…80年代の半ば、若い世代の流行思想としてむしろ大学の外でもてはやされ、そして時代とともに忘れ去られた。日本のポストモダニズムは、流行思想としては『ニューアカデミズム』と呼ばれることが多い」という記述があり、私の目は釘づけになった。まさしく「そこにリブロはいた」のだ。そう、リブロはあの時代の風潮とぴったりと併走したことで、「ある読者層」の記憶にとどまることになったのだ。
いまだに「あのリブロ」と一部に語られるリブロは、なぜ「リブロ」であったか、どのように「リブロ」になったか、を整理しようと思う。なおリブロは85年に西武百貨店から独立した時の社名で、75年の創立から10年間の通称は西武ブックセンターだが、ここではリブロで通す。また特に断らない場合のリブロは池袋店を指す。参考までに、私はこの80年代にリブロ池袋店にはいない。船橋、渋谷店あたりをうろうろしていた傍観者であり、90年代に馳せ参じた遅れてきた当事者である。
リブロがリブロでありえた要因はいくつかある。バブル期躍進中の西武百貨店が引っさげていた「セゾン文化」を書籍部門として、出版のリブロポートと連携して担っていたことがまずあげられる。このセゾン文化の一部門であったということが、後の百貨店凋落と行をともにせざるを得なかった大きな要因になるのだから「因果応報」とはいったものだ。
83年、『構造と力』(浅田彰 剄草書房)の年だ、リブロは「書店を文化の拠点」にするために、強烈な核になる人物を移植した。西友前橋店書籍売場にいた今泉正光である。彼の個性が後のリブロのイメージを決めた。というより今泉をとことん信用して任せた当時の書籍部部長、後のリブロ社長小川道明の懐の大きさがリブロのかたちを決めた。時を隔てて95年、セゾングループの体制変化にともない、追われるようにリブロを退職した小川が送別会で、「私は在職中、たったひとつだが他の誰にもできないことをした。それは今泉と中村(中村文孝 本部スタッフ 売場づくりのコンセプトはおもに中村が担当)、そして田口の3人を使ったことである」といったのだが、普段から駄洒落のすきな性癖からうけを狙ったのか、本音は後悔していたのか、今では誰もわからない(96年没)。
そして3つめの大きな要因はやはり当時の思想状況であろう。時代はまさに冒頭の「ポストモダニズム状況」であった。元々人文書中毒の今泉は水を得た魚のようにリブロを「ニューアカ」の砦にした。また「精神世界の本」、いわゆるニューエイジものも売場をにぎわした。
これらの状況をふまえた上で最後にあげられる要因は、リブロが新規参入の書店であったという単純な事実である。戦後の書店のリーダーは一貫して紀伊国屋書店である。多くの書店は紀伊国屋型の展開を追随している。それには戦後の書籍流通と販売の歴史が色濃く反映している、といって言い過ぎではない。しかし体制に充足できない購買層は常に存在し、彼らにはリブロ型の書店展開が新鮮に映った、と私は思う。75年に出発し、中心メンバーのほとんどが他の書店の落ちこぼれであったリブロは、業界の慣習をよそに、のびのびと書棚づくりに励んだ。「棚をつくる」ことを書店の特色として読者にアピールしたのはリブロが初めてではないだろうか。言葉を変えれば、リブロは遅れてきた書店の生き残り戦略として「棚づくり」を選んだ、選んだことを躊躇なく世間にアピールした。巷間「今泉棚」という名称で流布された。
以上が私がこれから連載しようとする「リブロストーリー」の概要である。この日が来ることを全く予期していなかったので、年月の特定や人間関係などに不首尾があることを怖れているのだが、電話口の今泉から「いいんだよ適当で、誰も覚えちゃいないから」と太鼓判を押され、そういうわけにもいかないだろうとは思いつつ、現在も同僚の中村からも「ああ、ダメダメ、ほとんど覚えていない」とまでいわれて、間違えていたらごめんなさい、と居直りながら書き始めた次第である。
リブロの歩みを書くことで、戦後の日本書店史の一断面が浮き上がればしめたものだ、と思っている。