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第5回

 リブロのオープンは1975年、そして神戸に生まれ、しばらくはローカルな知名度であったが、90年代後半(95年・神戸大震災)から怒涛の進撃を始めるジュンク堂書店が76年の創業、そして当時大きな反響を呼んだ八重洲ブックセンターの開店が78年である。不思議なことにこの70年代後半のバタバタ以後、全国規模の大型チェ‐ン書店の創業はぴたっとやむ。以後は98年、阪急グループから名乗りをあげたブックファースト(拡大の前途はまだ未知数)まで、81年の三省堂の大改装、96年の紀伊国屋南店、のように既存書店の拡大改装か新規出店という書店(上記5店に、丸善、旭屋、2000年に倒産した駸々堂)戦争になる。

 八重洲B・Cが出版界に旋風を巻き起こしたのは、もちろん当時日本一の売場面積ということもあるが、鹿島建設という異業種、しかも日本でもトップクラスの大手企業からの参入ということであった。故社長の遺言で、「どんな本でもすぐ手に入る書店を」、が基本理念という、既存の書店業界にとっては、「ははぁー、恐れ入りました」と思わず頭を下げてしまうような、小さな出版社にとっては「これで書店に自社出版物が常備してもらえる」と勇躍するような出発であったからだ。

 やはり読者の大型書店への期待は大きかった、開店当日の閉店後、書棚を見まわした社員達はぎっちり詰めてあった本がほとんど寝ているのに驚愕した、これでは営業が不可能、ということで翌日は休業して本の手配に飛びまわった、と聞いている(私の記憶違いで臨時休業は2、3日後だったかもしれない)。

 書店業界が大きく変わり始めた70年代、書店の現場はどんな状況で、どのように仕事をしていたのだろうか、それは80年代台風の目になる「リブロ」のありようとどこが違うのだろうか。

 友人が二人いる。一人は田畑あや子、紀伊国屋本店(新宿)に1967年、18歳で入社、72年に退社、その後リブロ、ニューアート西武(西武百貨店の洋書部門)等を経て、現在は東急線代官山駅前で小さな書店の店長を任されている(皆さん、小さな書店は大変です、是非応援してください)。もう一人は立川治直、70年、18歳で神田三省堂に入社、80年に退社、その後リブロ、文泉堂を経て、現在一人で出版営業代行業を黙々と続けている(営業を外注しようとしている出版社さん、彼に声をかけてください)。二人とも私の問いに、あの頃は右も左もわからない青二才で、会社の経営方針なんて興味がなかったから・…と前置きをしながら語ってくれた。

 田畑は「うまく思い出せなくて・・・」と言い訳をしながら話してくれた

 私の初任給は21000円だった。専門書売場の配属。当時の専門書は政経(政治・経済書とその他)と自然科学(理学・工学書)に分かれていて、私はずーっと政経の担当、人文書? 紀伊国屋では政経に含まれていて、だからリブロに入った時、人文書(リブロでは歴史、哲学、宗教、教育、心理、社会、を人文・社会)というジャンルが独立していてビックリ、結構売れてまたビックリしたわけ。だって紀伊国屋の2階には専門書の他に、文芸、文庫新書、実用書が、そうねえ全部で150坪あったかしら、狭いスペースにひしめいていたから。えっ、雑誌? あったっけ覚えていないわ。コミック? 今のような新書サイズの本はまだ出ていなかったと思うけれど。レコード屋と奥に喫茶店があったわね。3階が学参、児童書、洋書、4階が美術書、ホールよ。多分あの頃は、売上は丸善にかなわなかったと思うけれど。

 朝出勤すると、まずブックカバー折り、それからカバーに日付印を押すの、何故って? 本を間違えて買った、といって返金に来る人への予防策、ほとんど応じてあげなかったなあ。えらそうじゃない、って? そうよね今考えるとね。

 そんなことをしているうちに台車に担当ジャンルの本が乗せて配られるの。担当する書棚なんて4本しかないから、そう4本だったから全部の本のタイトルと並び順を覚えていた、だからどの本が売れたかすぐに分かった、新刊もそんなに出る時代じゃなかったし、あっという間に棚入れが終わっちゃうんだけれど、ほら本当に良く売れていたから、すぐに補充をしなくちゃならなくて、地下のストック部屋に追加を取りに行く、1日に何度も何度も往復をした。新刊の発注? それは仕入れ部門の仕事。売れた本の追加注文? うーんほらスリップ(本に挟み込まれている注文・売上カード、通常書店員は販売後、このカードでどんな本が売れているかを知り、追加注文をする)は回収されちゃうから、誰にって? 「仕入れ」によ、今思うと、仕入れの力は本当に大きかったわね、私たちは売れそうな本や面白そうな本を出版社の目録や注文書をみて注文していた。だから担当者が自由に追加注文ができるリブロはうれしかった。

 カウンターにも入って販売もしていた、結構高飛車な接客だったかもしれない、私だけじゃなくて店全体がよ。だってリブロ=西武百貨店に入社して一番ビックリしたのは、お客さまは神様、といわんばかりに、細かい言葉遣いまで注意されるじゃない(当時各売場にはシスターと称する教育係がいて一挙手一投足を見張っていた)、みんないうなりなのよね、この会社には長くいられないな、って思った覚えがある(これは私も同感)。今はそのことをどう思うかって? ほら、私も大人になったから(これも同感)・…

 あの頃、何が売れていたかなあ、ほとんど覚えていないけれど、政経だから、大学の教科書よね、有斐閣双書(民法や刑法、政治学等々)とかバンバン売れた、他に? マクルーハン、マックス・ウェーバー、ビジネスではドラッガーかな、そういえばダイヤモンド社の営業は毎日来てチェックしていた。日本人?吉本隆明? うーんあんまり売れた記憶がない、まだ埴谷雄高の方が、そうそう『現代政治の思想と行動』(丸山真男 未来社)はよーく覚えている、あと現代思潮社の黒田なんとか、あっ寛一?の本、やっっぱり新宿よね、70年の全共闘の街だもの。

 紀伊国屋は書店としては珍しく大卒を採用していた、配属先はほとんど外商、売場では洋書かな、他の売場は高卒と短卒ばかりよ。今考えると経営者の方針が分かるけれど、そうか図書館や大学への外商で基礎を造ったんだなって。店売りだけでは、いまの本社ビルは建たなかったでしょうね。

 売場に沢山社員がいて、暇だったろう、って?なんていっても担当は4本だもんね、でもそれなりに忙しくて、あっという間に1日が終っていた。ほらあの頃の新宿は毎日がお祭りみたいで、6時(!)に店が終るとビューって遊びに行っていた。楽しかったなあ。それなのになんで辞めたのか、って? 組合よね。あの頃紀伊国屋は労働争議が激しくて、第二組合まであったから、いろいろゴタゴタして、いやになっちゃたのよね。

 三省堂は次回に。 

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