第6回
立川治直の三省堂神田本店在籍は1970年から10年間である。三省堂は本店が現在の外観になる81年の大改築までに、池袋、新宿、渋谷などの都内ターミナル駅周辺に、100坪クラスの大規模店(当時はこの規模を〈大〉といった、今とはまさに桁違い)を7、8店ほど、首都圏から名古屋、札幌等の地方都市にもせっせと出店していった、全部で15店になろうか。一方、紀伊国屋はもっとペースが速く、スケールも大きく、新宿本店と大阪梅田店という2大巨艦を中心に、首都圏ターミナルはもちろん、だがほどほどにして、県庁都市の好立地物件を狙って地域一番の大規模店を出店し、紀伊国屋ブランドを確立し、地域の顧客を総ざらいした、着々と日本一の有名書店に成長していくのである。
さて三省堂本店である。私の小・中高校生時代を通じて、「学参(学習参考書、以後も学参と略)といえば三省堂」と学参ブランドが定着していた。私の18歳が1965年だから、70年代もまだ「学参の三省堂」だったはずである。そうですよね、立川さん。
はい、そうです。改築前は1階のみで(2階は教科書販売所)250坪位でしょうか、全体が学参を中心にレイアウトがされていました。団塊の世代をピークに子供の数は減っていったけれど、教育熱は盛んで、70年代はまだまだ学参が勢いのある時期だったんです(私も76年にリブロに入社して春の学参期のすさまじさに仰天した)。さすがに団塊ジュニアの教育期間が終り始める90年代はもう下降線ですよね。81年の大改築では、当然予期して「学参の三省堂」の看板を小さくしたんです。専門書をグーンと広げました。
レイアウトは、入口からまず辞書、語学ブロック、ここに海外文学がちょこっとくっついている、対訳などの語学テキストの延長線上に海外文学があったわけで、おかしいですか?だから三省堂は学参を通して全部を発想していたんですよ。この小さなスペースでカミユとかロブグリエとかの、実存主義文学、ヌーヴォーロマン、良く売れました、懐かしいなあ。次に日本文学のブロック、次に児童書、小学参(小学生用参考書、以下同じ略し方)次に中・高学参、次から専門書ブロック、でも三省堂の考え方は大学生用の教科書だった、法律・経済・社会・歴史が1ブロック。次は理工書、次に思想、哲学、教育、音楽、美術で1ブロック。最後に実用書、入社した頃はここに雑誌の什器が1本だけあった。雑誌が良く売れる、と三省堂も気がついて、少しづつ売場を広げていったけれど、なんといっても狭い売場だから・……。書店のレイアウトはその書店のコンセプトを表す、つまりレイアウトを俯瞰すると、何を売りたいのかがよく分かりますね。
僕も最初の配属は学参。売れ筋のダントツは『赤尾の豆単』(旺文社、正確な書名が分からなくなるほど有名だった)ですよ、でもシケタン(『試験に出る英単語』 青春出版社)にどんどん押されていったなあ。三省堂が駿台文庫なんかの予備校のテキストを最初に扱ったんです。学参期(3月下旬~5月上旬まで)は、倉庫を別に借りるほど大量に参考書が動きました。つくづく三省堂は学参の書店業界のリーダーだったな、って思いますね。
リブロとの大きな違いはなんだろう、僕のリブロ入社は84年で、池袋の配属は89年だから、草創期のリブロは知らないけれど、三省堂の頃の方が自由に仕入れができましたね、だって三省堂には仕入れ部門があるにはあるんだけれど、リブロのように話題の新刊は仕入れが一括して注文、とか入荷した新刊の分配を仕入れがする、なんていうことはなかった。新刊は仕入れが検品をしたあとにそれぞれの売場の社員が勝手に持っていくんです。分配の仕方は今でも多分変わっていないと思います。そう、田畑さんは紀伊国屋の方がリブロより仕入れが強力だった、って? じゃあ、三省堂、リブロ、紀伊国屋の順なんですね。
三省堂はおもに神田村(神田神保町界隈はそれぞれの得意分野を持つ小さな取次が密集していた、「いた」ではなくまだ「いる」のだが、親分格の鈴木書店が移転、倒産し、区画整理、出版不況等々が重なり、活力が徐々にそがれているのが現況。三省堂の今のメイン取次は日販)の取次を使っていました。大手取次はそのフォロー程度でしたね。特に学参取次の専門知識、能力はすごくて、新刊の入荷部数を見計らい、売れた本の補充をし、棚の整理をし、はい、これはストック、はい、これは返品、といって社員に渡した。在庫調査ももちろんし、注文書を勝手に起票し、追加品はすぐに持ってきた(なんといっても近所なので)。社員の仕事は、うーん、カウンターで販売と取次の補佐、あれっ、言い過ぎかな。でも少なくとも学参にはその傾向はあったなあ。
神田村の小さな取次集団が三省堂のあの頃の隆盛に貢献したのは間違いないと思う。あれは一種の職人技でしょうね、とにかく、三省堂のことはあんた達より私どもの方がよーく知っているので、特に新入社員は引っ込んでいなさい、というふうだったなあ。僕も学参担当の初期はおとなしくしていました、なんといっても実際にかなわないので、でも何年もたてば僕だってそれなりに能力を磨いていくから、よく言い合いもしたし、新刊の部数にも口をはさむようになりました。楽しかった。
当時の三省堂は出版社別の棚、というのが多くて、そういえば岩波書店やみすず書房の棚というのが三省堂だけではなく流行った時期がありましたね、多分学参の発想なんです(学参はシリーズ物が多いので学年別、出版社別棚構成が主流、しかし「岩波・みすず棚」には独特の文化の匂いがしたことにも原因がある)、僕が法律・経済書の担当になったとき、その出版社別の棚が気に入らなくて、だって例えば有斐閣の出版物には法律、経済、経営、ビジネス読み物や歴史の本だってあるんです。それを全部一緒の棚にいれるのはおかしいと思ったんです。ずいぶん上司から反対されましたよ。稟議書のようなものまで書かされましたが・…。でも基本的に自由な会社だったから、結局思い通りにさせてもらえました。まだまだ「会社は家族」という雰囲気がある時代だったと思います。
法律・経済と理工書の担当の頃は何が売れたかなあ・…。『現代政治の思想と行動』(丸山真男 未来社)? ええ、売れましたね。『吉本隆明著作集』(勁草書房)、爆発的でした。そうそうあの頃、テレビで「時事放談」(細川隆元・藤原弘達)というのをやっていて、これがバカにならないほどの影響力がありました。思い出しますよ『不確実性の時代』(ガルブレイズ TBSブリタニカ)の時に、朝ブリタニカに出勤する社員を待ち伏せしたのを。理工書ですか、湯川秀樹や朝永振一郎という哲学的な科学者が本を出版し、科学啓蒙本のはしりとして評判でした、エッセイとしても素晴らしかったんでしょうね。ローレンツの『攻撃』(みすず書房)『ソロモンの指環』(早川書房)も良く売れました。法経書や理工書をきちんと揃えるといいお客さんがついて店全体にプラスになる、と僕はここで身にしみて学びましたから、リブロがこのジャンルに力を入れないのが不思議でしたね。その代わり人文書や芸術書への取り組みは他の書店を遥に超えていて・…書店て色々あるな、と。