第7回
中村文孝(芳林堂―リブロ―ジュンク堂)にリブロ時代の話を聞いていたら、芳林堂のことも語らねば、なにせ70年代まで東口の新栄堂とともに池袋という巨大マーケットを2分していた超大型書店であったのだから、と思い、また寄り道を始めた。
中村の芳林堂入社は1972年、大学卒業後いったんキングレコードに入社し、そのやくざな業界の体質になじめないで(私には似合いのような気がするが)早々に退社、書店入り、となったそうだ。書店に入社したはずが、当初の配属は骨董部門、だった。
そう、当時の芳林堂は1フロア5、60坪ほどで合計400坪ぐらいかなあ、一番上が骨董のフロアだった。池袋に勤務している間はしょっちゅう書店には出入りをしていたから、雰囲気は分かるけれど細かいところまでは分からない。
あの頃の芳林堂には、というより書店の多くには、就職先のなかった全共闘くずれが吹き溜まっていた、でも僕は全共闘じゃあないよ、人と群れるのは嫌いだから、とはいえあんまり変わらないかも・・…まあそれはともかく、書店(同時期、紀伊國屋、大盛堂、栄松堂、弘栄堂、書泉等、多くの書店の組合に火がついていた)だけじゃなくて出版界全体が全共闘に代表される情況を引きずっていた時代だったと思う。最終的にこの組合のゴタゴタで僕は芳林堂を辞めたんだ。
70年代、巨大マーケット、大型規模、この3つの要素だけで本が飛ぶように売れるのに十分なのに、芳林堂の全共闘くずれの連中は優秀だったんだろう、ボーっとした本屋と違ってきちんとした品揃えをしていた。『ユリイカ』(青土社)のバックナンバーの常設売りを始めたのもこの店だった。当時はバックナンバーを書籍として売る、という発想がまだなかったんだ。あっという間に得意なジャンル、人文・社会系の本(哲学・思想・心理・歴史・社会・政治)の総本山になっていった。飛ぶ鳥を落す勢いとはあの事だね。自分たちが読む、読みたい本を売ったんだ。売り手と買い手が等身大だったんだね。もちろんベストセラーを売るのにも手抜かりはしない。『恍惚の人』(有吉佐和子 新潮社)なんか1日に100冊以上売った。『日本人とユダヤ人』(I・ベンダサン 山本書店)も売ったなあ。
僕が高田馬場店に転勤になって、実際に書店員になってからならもっと売れ筋がわかる。
高田馬場店は300坪ぐらいだろう、駅前の立地だからそんなに悪くない。12月25日のみぞれの降る日にオープンした、年末のしかもクリスマスになんて信じられない日にオープンしたよ。売上? 今でも忘れられない25万円、でもあんな日によくお客さんが来てくれたなあ。開店日はともかく、やっぱり芳林堂だよ、人文、社会系の本は面白いほどよく売れた。月に1万冊以上売った。まあ高田馬場には早稲田大学(あの頃は学生がよく本を買った)や古本屋街がある本の町でもあるし、出店もそれが狙いだから。
吉本隆明、三浦つとむ、渋澤龍彦、書名?なんでも売れたんだよ。海外だったら、本流哲学書のヘーゲル、カント、もちろんマクルーハン、マルクスも。文学では、『ライ麦畑でつかまえて』(サリンジャー 白水社)『路上』(ケルアック 河出書房)、売れたね、ものすごく。白水社の『新しい世界の文学』の刊行が始まって、みんな競い合うように買ったよな。あー、『唯一者とその所有』(シュティルナー 現代思潮社)なんでこんな本を思い出すんだろう。そういえばあの頃の現代思潮社、今考えると、すごい本を出していた。
6時に会社を出ると、よく映画を観にいった。名画座が盛んな頃で、文芸座(池袋)だけじゃなくて、佳作座(飯田橋)並木座(銀座)アートシアター(新宿)(ここで中村は当時見た映画を羅列するのだが、割愛。付け加えると同時代の私の映画史と酷似)。
時代、とか立地の他に芳林堂の売上がダントツだった理由は、やっぱり社員が優秀だったからだと思う。池袋には、この人はすごい!と感動した先輩女性社員がいた。彼女はお客さんに聞かれて、棚に在庫してある本なら、何番目の棚の何段目の何番目と即座に答えられた。そのフロア全部の本を覚えていたんだ。どうして可能なのか観察したら、彼女は朝出勤するとすぐに、全部の本を棚の背から1センチ前に出す、触ると本を覚えるんだよね。もうひとつ、前日にお客さんの触った本が分かるでしょう。もちろん売上カードを見なくても売れた本が分かる。新刊の数も今とは格段に違って少なかったけれど、1フロア5、60坪のほとんど全部即答だものやっぱりすごいよね。
彼女だけじゃなくて、優秀な連中が何人もいた、売れたはずだよね。
辞めた理由は組合。田畑さんも? 紀伊國屋の組合より芳林堂は激しかったんじゃないかな。一時はかなり優勢だったから、占拠状態。全共闘世代ばかりじゃなくて、その前の全学連世代も共闘していた。労使間の対立も熾烈だったけれど、労働側内部もね、運動ってそんなものだろう、だから群れるのがもっといやになった。あの頃先頭にたったヤツ等はもうほとんどチリジリになったなあ。経営側の逆襲があったんだ。
芳林堂の話はそこそこに、中村の話はリブロに移っていった。
創業の古い丸善や三省堂はむろんの事、駅ターミナルなどの好立地に大型で自己所有の本店ビルを持つ書店は、戦後の教育、読書熱(今振り返れば、確かにそれらは「あった」)に支えられて、全国規模で大型チェーン化をする条件を十分に持っていた。チェーン化の初期のハイライトは69年の紀伊國屋書店の大阪出店だろう。三省堂も70年を6店で始めている。遅くても70年代なのである。この時期に全国に触手を伸ばし、陣地取りに成功した書店がナショナルチェーンとして生き残っていった(例外はジュンク堂であるが、それは別の話、ということで)。条件を満たしていたはずの芳林堂は現在首都圏に9店(コミック店除き)である。チェーンとしての発言力を持つには少なすぎる。芳林堂に何が起きたのだろうか。私には「組合」が影を落しているように見える。経営陣が野心を持つ気が失せたせいで(それともありすぎて空回り?)、拡大戦争に乗り遅れたと勝手に解釈している。
むろん大きいことがすべてではない、しかし芳林堂の場合はことはそんなに簡単ではない。なぜなら本店のある池袋は全国有数の書店激戦地帯なのだから。同じ池袋西口、東武百貨店の旭屋、駅の向こう側東口の西武百貨店のリブロ、この3店で肥大する一方の池袋マーケットを食い合いながら80年代をしのぐ、しかし90年に入ると戦争状態は急を告げる。東武百貨店の旭屋書店が92年に450坪に増床、続いて97年にリブロがジュンク堂を迎え撃つために1068坪に増床、そしてジュンク堂が同年に1062坪でオープン、01年に2000坪に増床である。芳林堂はこの間コミック売場を別ビルに移転、本店もタコ足のように広げたが反撃としては弱い。ここでも「大きいことがすべてではない」と別の私は囁くのだが、野次馬を承知であえて言わせていただくと、あの「人文・社会の総本山」を誇った芳林堂がこじんまりとした総合書店におさまっているのは、なんとも哀しい、と。