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第8回

 これといったあてがあって芳林堂を辞めたわけではない中村は、しばらくぶらぶらしていた。このぶらぶらの間に忘れられない人にあった、と中村は言う。

 岩波書店の当時会長だった小林勇である。すぐれた絵描きでもあった小林勇の銀座での個展を観にいった中村はそこで当人と出会う。気がついたら話しかけていた。気に入ってもらえたのだろう、近くの行き付けの小料理屋に昼食に誘われ、のこのことついていったらそこには文藝春秋の池島信平が待っていた。出版界の重鎮である二人が型破りだったのか、当時の先人達の気風なのか、どこの馬の骨とも分からない若造の話を二人はにこにこと聞いてくれ、「岩波に就職しないか、と誘ってくれたんだ」と中村はうれしそうに話す。組合で傷つき、浪人中の青年にはことのほか心を癒される体験だったのだろう。「その時買った小林さんの絵を今でも大切に持っている」とつけ加えた。

 中村のぶらぶらも3ヶ月を過ぎ、そろそろ飽きた頃に、西武百貨店に入らないか、という誘いがあった。75年8月のことである。当時西武百貨店は大増床工事をし、ほぼ現状の大きさにまで拡大しようとしていた。この計画で、売上はまだ当時の百貨店の雄、三越にこそ追いつけなかったが、売場面積ではとにかく日本一になる。その増床計画のひとつに、文化雑貨部の一部であった書籍売場を拡大して11階に上げ、12階の美術館とセットにして「文化の西武百貨店」をアピールする、という意図の案があった。この戦略には、詩人であり、小説家、そして文化パトロンとして名を馳せていたオーナー社長、堤清二の意向が強く働いていた。働いていた証拠に、リブロ前社長小川道明は知人であった堤にじきじきに誘われて、この時に書籍部の部長に就任するのである。堤と小川は戦後左翼運動で行をともにした「いわゆる仲間」である。この二人の結びつきが後々のリブロを大きく支え、また迷走する原因にもなる。

 小川道明は1929年生まれ、慶応大学在学中に結核を患い入院する、このとき受けた手術時の輸血が原因で、晩年はC型肝炎に苦しめられていた。「あの頃は若かったから、手術すると結核は早く治るよ、なんて言われて、先生、バッサリやってください、って粋がって手術をしたら、思わぬ伏兵、肝炎に感染したわけだ。ライシャワー大使が刺されて手術をした時(64年)も輸血で肝炎に感染したし、僕のときから10年以上経っていてもそんな始末さ、日本の医療なんていいかげんなものさ」小川は淡々と語っていた。しかしこの肝炎が引き金で癌を患い、67歳で亡くなるのだから、私としては複雑な思いがある。

 小川は当時のインテリ学生がたどったように、私たちの年代が全共闘の洗礼を受けたように、左翼運動に没頭する。確か小川から六全協(55年)の頃の話を聞いたような気がするのだが、どうも思い出せない。もうひとつ、52年のメーデーで黒田寛一(田畑や中村がその著書を70年前後の大売れ筋と太鼓判を押したあの左翼理論家である)が警官に撃たれ、逃げる途中で小川の知り合いの家に逃げ込んだ話も、「あの時は弾が尻を貫通していて、だから医者に行かずに、ほら医者に行くと警察に通報されるだろう、無事に生き延びたんだ。みんなでクロダカンツウってしばらく呼んでいた、どうだ?」などとうれしそうに話をしていた記憶があるのだが、誰に確認しても小川からそんな話を聞いたことがない、という。私の記憶違いか、小川のいつものジョークに引っかかったのかもしれない。それはともかく戦後左翼の理論家、現代の理論社の安東仁兵衛がよく出入りをしていたのは確か。小川にとっては特別な友人らしく、いつもうれしそうに応対をしていた。

 小川は学生時代理論社で編集のアルバイトをしていた、卒業後しばらく理論社にいて、次に合同出版(後に倒産)に移った、どちらも当時は左翼系出版社である。その後富士アドという芙蓉グループの広告会社に転進する。「なぜ?」という私の問いに「たいした編集者じゃなかったから」と、笑って答えた。そしてここで堤清二の一回目の誘いで、西友の広告部門に転職する。二回目のリブロへの道はもうすぐそこである。

 「小川さんはどんな社長でしたか」という問いがあったら、私は「本を心底愛した」「業界の癒着や曲がったことが大嫌い」「出版界に寄与したいと願っていた」など沢山の引出しから、次のひとつを引っ張り出したい。

 小川は西友の小さな、例え20坪しかない規模の店でも、社員を最低3人いれることに固執した。どんなに「人件費割れ」とまわりが諭しても、これだけはガンとして譲らなかった。西友が書店を必要として出店を要請してくるのだから、リブロはグループの一員としてそれに応える、しかし働く人間にそのしわ寄せをしてはいけない、と常々小川は語っていた。社員3人と何人かの契約社員で小規模の売場を回す人員計画はバブルの80年代でも贅沢とみなされていた。私たちは戦後民主主義の理論だおれ、と嘆いてはいたが、実は小川のそんなところが好きだった。亡くなった後、中村と「小川さんは戦後民主主義を信じて、一緒に生きられて幸せだったのかもしれない」としみじみ語り合ったものであった。

 中村は小川と面接をした時、「この人のために働こう」と思った、と言う。75年8月である。後の話だが、私がリブロに応募した時、中村が検分(?)にきた。勤務していたキディランドの向かいの喫茶店で昼休みに面接をしたのだ。次のジュンク堂で一緒に働くとは夢にも思わなかった。そして私の縁でキディランド時代の同僚、今泉も入社する。なんという芋づる式。私の入社が76年、今泉が78年である。しかし今泉が池袋に登場するのは82年、私がぐるっと転勤を終えて池袋に戻ってきたのは90年である。

 中村と今泉、この際立った二つの個性が後のリブロの看板になるのだが、いまのうちに二人をご存知ない方のためにごく簡単な比較をしておこう。
 中村文孝、1950年生まれ。今泉正光、1946年生まれ。二人とも背が高い、オーラを感じさせる外見のせいか、生来の性質ゆえか、初対面の相手に威圧感を与える、何度会ってもプレッシャーを感じる、ともらす人たちもいる。しかし二人の最大の共通点は、リブロ時代の仕事へののめりこみようで、これはおいおい明らかになるだろう。

 二人とも理論家だが、中村はひらめきタイプのマルチ才能人間。例えキングレコードでもその才能を発揮できたろう。今泉はコツコツ努力型で、まさに書店人が天職。だから小川は中村に社会状況を見据えながらリブロ独自の売場環境を設計することを、今泉に独創的な棚づくりを「売り」にする書店づくりを託したのだろう。小さな会社だ、両雄並び立たず、巷間流布した不仲説について聞いてみた。私の質問に二人とも即座に否定した。まあ仲が悪かろうとよかろうと、二人は「呉越同舟」ではなく、中村は本部、今泉は店、と違う舟に乗っていたし、しかも一匹狼の二人は派閥を作るにはプライドが高過ぎたし……しかし、結構ぶつかり合っていたよなあ、と私はぶつぶつと呟くのだが。

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