序章
『猛暑続きの8月某日、それは突然やって来た』
- 『ビア・ボーイ』
- 吉村 喜彦
- 新潮社
- 1,470円(税込)
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- 『坊っちゃん (新潮文庫)』
- 夏目 漱石
- 新潮社
- 300円(税込)
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- 『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー〈2〉 (角川文庫)』
- ナンシー関
- 角川書店
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- 『人事異動 (新潮新書)』
- 徳岡 晃一郎
- 新潮社
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- 『金閣寺 (新潮文庫)』
- 三島 由紀夫
- 新潮社
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「ちょっと待て、コラ」
その時は、そんな言葉しか頭に浮かんで来なかった。「悪い冗談としか思えない」なんて言い回しは、きっとこういう時に使うんだろう。
異動だそうだ。
無論サラリーマンである以上、とっくに覚悟は決めている。転勤が怖くてリーマンがやれっかっつーの。ましてや俺は、そろそろ入社12年。今の店に配属されてからでも丸3年。異動のタイミングとしては、如何にもありそうな時期である。だから異動そのものには、大して驚きはしなかった。「おっと、来たか!」と、衝撃はせいぜいその程度だった。
ところが、だ。新しい任地はA店だと言う。ちょっと待て、コラ。
現在勤務しているB店も都会の真ん真ん中では決してないし、他を圧倒するような大型店という訳でもない。坪数や売上なら、以前在籍していた旗艦店の方が遥かにデカかったし、立地を言えば都心の一等地の店舗など他に幾らでも在る。が、それでもこの店は、何と言えば良いのか、お客さんは勿論、出版各社の営業マンや同業他社である様々な本屋さんたちが、見てくれている店だった。思い上がりや独り善がりも、無論ある。あるとは思うが、敢えて言う。我ながら良い店だと思う、B店は。
断っておくがここが完璧な店だなどと、言う心算は毛頭無い。それどころか、短所や欠点を挙げつらえばキリが無い。が、それでも随分良くなったんだ、この3年で。手前ミソでお聞き苦しいかも知れないが、少々大目に見て欲しい。何しろ、お客さんが自分の好きな本のPOPを描いて持って来てくれるような店なのだ。イラストのコンテストをやれば、200通以上も応募が来るのだ。そんな店に、3年かかって俺がした。傲慢と謗られようと増上慢だと詰られようと、そういう自負が俺にはある。
然るに、A店ときたよ。ちょっと待て、コラ。
A店が位置するA市は都心から50キロ以上も離れた地方都市で、最寄りの駅まで直通の快速を使っても1時間は優にかかる。乗降客の少ない平日の真っ昼間など、4両編成の列車が当然のように走っており、しかもその4両編成でさえ20~30分に1本だ。市内で最も高い建物は駅前に在る15階建てで、当然映画館など1館も無いし、最も広い道路でも片側2車線。つまりは地方都市と言うよりも、単に田舎なだけなのだ。
いや、待て。論点がズレてる。俺は田舎が嫌いな訳では、決してない。それどころか、舌打ちとため息が充満したあの満員電車から解放されると思うと、それだけで有り難くって涙が出て来る。田舎であるというそのこと自体には、さしたる不満は無いのである。
が、そんな辺鄙な所にある弱小書店など、多くの出版関係者は眼中無いのだ、多分。何しろA店の売り上げは、金額ベースでB店の1/3~1/4。たとえ"眼中にある"としても、効率を考えるととても営業には回れまい。それが、寂しいと言う以上に不安である。《去る者、日々に疎し》と俗に言う。いずれ忘れ去られっちまうんじゃねーか、俺?
ちょっと思い出した作品があるんで、ここで少々脱線したい。元サントリー宣伝部、吉村善彦さんの『ビア・ボーイ』(新潮社)。その名の通り、ビール会社の営業マンを主人公に据えたこの作品を、何故唐突に思い出したのかと言うと、それには帯の惹句を紹介するのが早いと思う。曰く《性悪上司と戦いながら、売り上げ最低の田舎支店で今日も酒屋回り。ビール営業マンが一人前に成長する姿を描いた 本邦初のザ・営業成長小説》。つまりは東京の本社でブイブイ言わせていた花の宣伝部員が、転勤先の広島で営業の厳しさと面白さを経験して、一回り大きくなるというストーリー。《着いた早々から、街の印象がよくない。がさつで卑屈。ごつごつしている。突っかかってくるような言葉も苦手だ》などと、到着するなりその土地をこき下ろす一人称は、四国辺の波止場につくなり《野蛮なところだ》と吐き捨てる、漱石の『坊っちゃん』(新潮文庫、他)を彷彿とさせる書き出しだ。無論物語はそのままでは終わる訳無く、紆余曲折を経てスカッと締めてくれるから、「俺にとって、仕事って何だろう?」なんて哲学してる若い衆には、是非とも一度読んで欲しい。
話、戻す。B店では、入れ代わり立ち代りやって来る営業マン&営業ウーマンと、「あれは読んだか?」「こっちはまだか?」と文学談義に花を咲かせたお蔭で、一体幾つの名作に出逢えただろう。例えば、某大手版元のM嬢とは会う度に必要以上に盛り上がり、30分で終われば早い方、大抵は売場で1時間を越える長話。当然、彼女の営業予定は毎度大幅に狂っているに違い無く、流石に私も気が引けて一度詫びたことがある。「いつも長くなっちゃって悪いね」と。するとM嬢、躊躇うことなくノタマワッタ。「大丈夫です、ここには遊びに来てますから!」。"仕事だから"来ている訳ではなく、来たくて来ているだけなんだと、つまりはそういうことらしい。いや嬉しかったねぇ、これは。
勿論、話が弾んだのはM嬢に限ったことではなく、「今度のフェアはこんなんでどうだ?」「キャッチコピーはこうしよう」などと意見をぶつけ合ううち、思いもよらなかったアイデアがポロッと飛び出してきたことが、一体何回あっただろう。例えば、最近目立って増えてきた、発売前に書店員に向けて配られるゲラやプルーフ。あれの冒頭20~30ページをコピーして店頭でお客さんに配布したのも、半分雑談のような営業さんとのお喋りがきっかけだった。これは、効果絶大と言っては大袈裟かも知れないが、何しろ未刊の作品なだけに捌けは良く、1ヶ月も配ると発売後の出足がはっきり違う。やったこと無いお店は試しに一度、出版社側の担当さんに相談してみては如何だろう。
って、話が逸れた上に余計なお世話だ。要するにそういったやり取りが、いつも俺を元気付けていた。理不尽なクレームで心がザラついたり、ピントがずれた本部の指示に沸騰したり、物分りの悪いスタッフに腰が砕けそうになったり、その他諸々折れたり倒れたり干からびたりした時に、営業さんの笑顔に救われた経験は10や20ではきかない筈だ。ついさっき、B店は俺が良くしたなどと言い放ったばかりだが、そうじゃないことに今、気が付いた。俺のやり方や考え方を、面白がって支持してくれた大勢の営業マン&ウーマン。彼らの助太刀があったればこそ、この店は少しずつだが変わっていけた。《脱皮しない蛇は滅ぶ》と言うが、彼らのお蔭でB店は、不器用ながらも脱皮を遂げつつあったと思う。
そしてそれは、お客さんにも徐々にだが、認めて貰えそうな気配はあった。でなければ一銭の得にもならないのに、クレヨンや絵の具まで駆使して誰がPOPを描いてくれるだろう? 『記憶スケッチアカデミー2』文庫化に絡めたイラストコンテストで 、"似てないサザエさん"や"不気味なドラえもん"を、何が貰える訳でもないのに誰が応募してくれるだろう?(200通を超えるイラストはホントに笑えた) 無論、接客や品揃えでお叱りを受けることも多々あった。それでも、「この本屋、ちょっと面白いかも」と思ってくれていそうな空気はあった。
それがどれだけ俺の励みになっていたか、本部よ解るかっ!? 無論、解るまい。棚の構成やお客さんの反応など見もせずに、恐らくは"家が近いから"というただそれだけで異動を決めたお前らに、「解る」などとは言わせない。解って堪るか。
大体、俺がA店に赴任してその3日後に棚卸しって、幾ら何でもそりゃどうよ!? 在り得んだろう、常識的に。すかさず本部に問い合わせると、受話器の向こうの第一声は「あれぇ、そんな日程だったっけ?」......。モチベーション下がるなぁ、オイ。新潮新書に『人事異動』というタイトルがあって、その帯のキャッチコピーが《なぜいつも納得いかないのか》というんだが、全く上手いことを言う。
余談ついでに触れておくと、新潮社という出版社は帯だのPOPだのがホントに上手い。とりわけ『金閣寺』(三島由紀夫、新潮文庫)のPOPは、文学史に残る傑作であると断言したい。曰く《フツー、金閣寺燃やすか!?》ってーの。最高じゃない?
閑話休題。兎に角何しろ、なぁおい本部。お前さんたちの頭でも、時間使ってじっくり考えれば、もっと適材適所ってあるだろう!? 会社にとって俺って駒は、桂馬なのか飛車なのか知らないが、もっと別の使い道があるだろう!? こんなんじゃ、全然納得いかねーよ! 人跡稀なA店なんかに引っ込んで、中央で活躍する多くの知り合いの書店員たちを、指をくわえて見てたくねーよ! 取り残されるの、厭だよ俺。菅原道真みたいに、きっと祟ってやるからなっ!
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
主なしとて 春を忘るな
......って、思いっきり夏なんだけどサ。
まぁ良い、落ち着け俺。こんなところで幾ら吼えても喚いても、事態が好転する訳ゃないんである。それに大体、営業なんか年に1回来るか来ないかの地方で頑張っている書店員は、恐らくゴマンと居る筈なのだ。そんな彼らから見れば、俺の言い草など「思い上がるのも好い加減にせいっ!」てなとこだろう。こう見えても、「落ち込むんなら、深く短く」がモットーだ。今、思い付いたんだけど。兎に角、だ。どうせ行かなきゃならないんなら、サッと行ってパッと売り上げ上げて、「ザマーカンカンッ!」と叫んでやる。そんで、さっさと帰って来よう、花の都、大東京に。
って言うかね、B店に異動になった時も、今回程ではなかったけど葛藤やら困惑やらが、やっぱりあった訳ですよ。何しろ、それまで居たのは旗艦店。売り上げも注目度もダントツだったから、忙しかったけど「俺って、結構凄ぇんじゃね!?」なんて、浸っていられた。「平社員のまんまで良いから、当分ここでやらせてくれ」と、本部にも希望をしっかり伝えてあった。ところが、だ。社内のどこでどういう力学が働いたのかは知らないが、昇格して肩書きを得て、同時に残業手当を失ってB店に異動。......嬉しくなかったねー、当時は。
だけどね、B店に来なければ解らなかっただろうってことが、沢山沢山見つかったのね。ホント、意外だったんだけど。それまで社の内外を問わずあっちこっちから、「ここの文庫売り場は凄い、愉しい、面白い」とおだてられて持ち上げられて、伸びに伸びきった鼻っ柱をポキンと折ってくれただけでも、B店への異動を感謝したい。あのまま旗艦店に居続けたら、今頃どんだけ鼻持ちならない書店員になっていたんだろう? それなら今は〝鼻持ちなる〟のかっつーと、それはそれで意見の分かれるところだろうが、少なくとも「日本一文庫を売るのが上手い書店員は、十中八九、俺だろう」などと、シャレにもならない勘違いだけはしないで済んだ。
同様に、ね。A店に行ったら行ったで、そこでしか学べないことってのが、必ずあると思うんだ。勿論、胸の中のドロドロやモヤモヤが霧消した訳ではないけれど、古来《住めば都》の言葉もありき。だから、ね。行こうぢゃないか、顔を上げて。A市の田舎者どもよ、待っていろ。近々、腰を抜かせてやるからな。目的が無くても、漫然と見ているだけでも愉しめる、そんな本屋を、見せてやるよアンタらに。
で、寝耳に水かつ青天の霹靂の内示を受けたその夜は、楽しみにしていた暑気払い。いつも助けて貰ってる営業さんや相談に乗って貰ってる書店員仲間、総勢12名。「暑さで焼け死ぬ前に、1回呑もうぜ」と3週間も前からスケジュールを擦り合わせて、無理矢理都合をつけたのだ。陽が沈んでも涼しくなるどころか益々蒸し暑い有楽町のガード下、如何にもオヤジの吹き溜まりといった風情の店で、乾杯と同時に「都落ち」を発表。辞める訳でも業界を去る訳でもないけれど、このメンバーとこれまでのように頻繁に顔を会わせるのはちぃと無理。覚悟を決めたとはいえそれはやっぱり寂しいことで、そんな気分で飲む酒は旨いようなしょっぱいような微妙な味。......って言うのは実は嘘。気分で酒の味が変わるようなデリケートさは、生憎持ち合わせていない為、アッと言う間に酔っ払って大騒ぎ。そんな中、「『店長の星(仮題)』、絶対やりましょう!」と息巻いていたのが炎の営業・杉江氏で、回りが「面白い面白い」と追随したというその結果が、実はこの駄文という訳である。まさか実現するとは思わなんだけど、お蔭で忘れられずには済みそうだ。
切り替えたとはいえその夜は、不安とか不満とかやっぱり動揺してたんだろう。途中から実はまるっきり記憶が無い。どーやって帰ったのかも、正直全く覚えてない。当然翌朝は鬼のような二日酔い。それでも吐き気を堪えながら、メールチェックが習慣になっているのはリーマンの悲しさか或いは誇りと言うべきか。兎に角開いたサーバーに、つい数時間前まで一緒に飲んでいた仲間――敢えて"仲間"と呼ばせて貰う――からの、着信着信着信着信......。曰く、《ケン46さんに認められたくて頑張った》。曰く、《凹んだ時には、ケン46さんの店に行って充電させて貰った》。曰く、《ケン46さんの店では、仕事をしている気がしなかった》。曰く、《今の私の夢は、「A店がなんだか凄いことになってるらしい」という噂を耳にすることです》。etc、etc、etc、etc......。
内示を受けた時には、「辞めてやろうか」と一瞬マジで思った。異動当日に辞表出したらさぞ慌てるだろうと、半ば本気で考えた。だけど、辞めなくて良かった。数々のメールを見て、そう思った。多分彼らは、俺に期待してくれている。今回は思い上がりや独り善がりがどうにも多くて、我ながら好い加減にしろと言いたくなるが、本音だから仕様が無い。B店に居る頃から散々頼って当てにして来た連中に、どうやらまたまた助けられたようである。裏切れないね、この人たちは。「やっぱり私が見込んだだけのことはある」。いつかそう思って貰う為に、A市で暫く頑張ってみるよ、俺。だから皆も、これからきっと色々あるとは思うけど、何とか凌いでいずれ決勝で会おう! 決勝で会う為に、お互い途中で負けるなよ!
っつー訳でプロローグはこれにて終了。今後不定期にお届けする田舎の本屋の日常を、面白がってくれる人がもし居たら、きっと幸せな書店員なんだと私は思う。いつまで続くか甚だ自信は無いけれど、月に何回か、どーか宜しくお願い申し上げます。
次回は遂にA店着任。『驚異! 「プリントごっこ」と綿埃の着任初日』。お楽しみに。