「坂の上のパルコ」 第1回第3話
第1回:「渋谷の栄光は『バカドリル』とともに」
藤本真佐夫(PARCO出版)VS矢部潤子(リブロ池袋本店)
(第3話)バカ本台と椅子
- 矢部
- この間文庫になった『ブロンソンならこう言うね』ブロンソンズ著(ちくま文庫 ※当時はごま書房の単行本)とか売れに売れた。文庫の案内が来た時、懐かしかったよ。
- 藤本
- 凄かったですよね。そういう中での一番は『トレインスポッティング』アーヴィン ウェルシュ(角川文庫 ※当時は青山出版社の単行本)じゃないですか?
- 矢部
- あれは異常だったね。
- 藤本
- 目の前の映画館で上映されているというのはあるんですけど、それにしても売れまくりました。笑いが止まらない、もはや祭りでしたね(笑)。
- 矢部
- だって映画館のなかでも本を売っていたんだよ。それなのにP-BC渋谷店であんなに売れた。あの時代、100冊なんて注文もかなり思い切った注文数で、そうそう出すことはなかったのに、売れるもんだから200冊とか300冊とかって注文すると、取次店の担当者が驚いてね。会社に戻って上司に報告したら「お前、大丈夫か?」ってみんなに心配されていたらしい。
- 藤本
- 当時だったら言われるでしょうね。
- 矢部
- 途中から青山出版社が近くにあることに気づいて、向こうも台車で持って来てくれるようになったんだよね。ありがたい話です。
- 藤本
- でも『トレインスポッティング』は、オープンして時間は経っていましたね。96年とか97年かな。
- 矢部
- あっ、じゃあ最初になんだこれ?って売上で驚いたのは『バカドリル』天久聖一、タナカカツキ著(扶桑社文庫 当時は単行本)だ!
- 藤本
- あっ! 『バカドリル』はもう金字塔ですよ!
- 矢部
- 渋谷の栄光は『バカドリル』だった(笑)。
- 藤本
- 元々はパルコが出していたフリーペーパー「ゴメス」というのに連載していたんですよ。それをまとめた単行本が扶桑社から出た。
- 矢部
- そうそう、『バカドリル』を積んでいる平台をバカ本台って呼んでいた。
- 藤本
- バカ本台ってありましたね。『ブロンソンならこう言うね』もそのバカ本台だったし。
- 矢部
- 『モテたくて......』天久聖一他著(光栄)もそうだった。あれはそのフリーペーパー「ゴメス」の編集部の人が営業の人と一緒に来て、自分たちが取り上げる本を置く場所を作ってくれないかって相談されたんだよね。それでならっていうんで棚を開けてそこに彼らなりのセレクト本を置いていって、その後「ゴメス」がなくなっても、その手の本はその棚に置いていたらそのうち「バカ本」化されていった。
- 藤本
- 『バカはサイレンで泣く』天久聖一他著(扶桑社文庫 当時は単行本)とか。通称バカサイ。この辺はずーっとベスト10に入ってましたね。
- 矢部
- 『ドロップアウトのえらい人』森永博志(東京書籍)とか『鬼畜ナイト』鬼畜ナイト実行委員会(データハウス)。あと『電波系』根本敬/村崎百郎(太田出版)に『世紀末倶楽部』世紀末倶楽部編集部(コアマガジン)だよ。それと『危ない1号』(データハウス)とか。売れた記憶があるね。バカ本台じゃあんまりなんで、その棚に名前を付けようかって考えて、○○カルチャーってのもこっぱずかしい。「渋谷の魂」とかって名付けようとしたら、みんなに反対された事があった(笑)。
- 藤本
- でも結局最後まで他に変わる言葉はなかったですよね。
- 矢部
- バカ本台って言いつづけた。
- 藤本
- ほんとあの平台はキャラクターがはっきりしていたので、ふっと見るだけで匂いがするんですよ。だから面白そうだなって思う人は自動的に寄っていく。
- 矢部
- 三方にあいてる山型の什器だったんだけど、正面がバカ本で、端が一応新刊だった。
- 藤本
- 「新刊はぐれ物視点」っていうのがあったんですよ。
- 矢部
- 背面はオシャレな女の子の本。永井宏とかはここから売れた。
- 藤本
- でも一番売れていたのはバカ本側(笑)。
- 矢部
- 土・日になろうもんなら黒山の人だかりなんだ。棚から本が取れないくらい人がいた。『バカドリル』が取れない(笑)。
- 藤本
- どこでも売っている本だったんですけどね、場所に付加価値があったんですかね。
- 矢部
- うん、そうだよね。あそこに置いてあるものをお客さんが見に来ていたんだよね。平台にお客さんが付いていた。だから同じ本を普通の新刊台に置いても、そんな動かないんだよ。あの頃はわかっていなかったけど、観光客っていうと変だけど、渋谷にたまに来る人が、「これが渋谷か」的な幻想のものを買って帰ったりすることが面白かったのかもしれないね。
- 藤本
- 別に渋谷だからって、オシャレではないんですよ。ただいわゆるサブカルとも違った。
- 矢部
- そうそう普通のお店と一緒でサブカルの棚っていうのは用意していたわけ。でもそこにはお客さんがいかないんだ。
- 藤本
- なぜかデット・ゾーンになっていました。
- 矢部
- 仮面ライダーとかそういうのはまったく売れなかった。
- 藤本
- オタク系の人は来なかったんだ、渋谷に。
- 矢部
- 売れなかったね。アニメとか、そういうのも反応はなかった。
- 藤本
- どっちかというとトリップ系とか生き方模索系とか、そういうものが売れた。
- 矢部
- 吉祥寺はもうちょっと大人で、渋谷はそういう意味では子供だったかな。
- 藤本
- でも、そういった本にしても「仕掛けるぜ!」って感じでは置いてなかったですよね。
- 矢部
- うん。バカ本が売れるからって同じ本を多面で積もうとかそういう発想はまったくなかった。
- 藤本
- コーナーがもう出来てしまっていたんで、関連本が出たら正しくそこに並べるってだけで。『人生解毒波止場』根本敬(洋泉社)とか。
- 矢部
- みんなバカ本台の本なんだよ。
- 藤本
- ということは、あるひとつの平台だけが、やたら効率が良かったってことですね。
- 矢部
- そうそう、出版社の営業マンが「ここすごい坪効率ですよね!」って言っていたのを覚えている。「これ、あっちにも広げたらどうですか?」って。でもそれはしなかった。まともな新刊台も大事だった。
- 藤本
- そうなんです。広げたら売れるかというと別なんですよね。というよりも、
矢部さんは個人的にそういうものがそれほど好きなわけじゃなかったですよね。筑摩書房とか白水社辺りの本もちゃんと売りたいって言っていた。新刊が出ると、こっそり良いところに置いて。その心の叫びはあまり聞いてもらえなかったみたいだけど(笑)。
- 矢部
- ハハハ。売れるのは売れるで良いんだけど、普通にやりたいって気持ちはあった。それで、一生懸命そういうのを積むんだけど、なかなか売れなかった。しかし当時のベストをこうやって見てみるとベストセラーが変わらないね。というかタイトルは変わるんだけど著者は変わらない。
- 藤本
- しかもバカ本台の本ばかりですね。あの平台を持って行商に行けますよ(笑)。
- 矢部
- だんだん思い出して来たけど、バカ本台は『ブロンソンならこう言うね』は一番良い場所だったね、いつも。その隣が『バカドリル』。それでバカ本台とは別に、「椅子」っていうのがあってさ、椅子じゃなくて椅子型の什器の呼び名なんだけど。
- 藤本
- 椅子型の背もたれのところに、ポップが立てかけられるようになっていたんです。
- 矢部
- 座面のところに四六版の本だったら、八面くらい置けた。コロがついてるんだよ。だからすぐ動かせる。
- 藤本
- これをP-BC渋谷店では「椅子」と呼んでいた。仕入れの最強の武器でした(笑)。
- 矢部
- いまでいう仕掛け販売みたいなのが椅子だったのかなぁ。
- 藤本
- 仕掛け販売って言葉ありましたっけ?
- 矢部
- ないない。
- 藤本
- 出版社の営業が来て、これは売れそうだって時は「じゃあ椅子でやってやるよ」。
- 矢部
- どんな殺し文句だよ(笑)。
- 藤本
- 椅子でやる、イコール、80冊以上欲しいってことだった。
- 矢部
- でも当時は80冊の新刊指定なんて、あんまりもらえないんだよね。ようするに村上春樹は80冊なんてもらえない。だから結果として変わった本が椅子に並んでいたというのはあるかも。あの当時だとデータハウスとかリトルモアとか創業したばかりの幻冬舎とか。うちなんか結構置かせてもらった。
- 藤本
- わりと苦肉の策に近いところがあったかもしれませんね。お店の面積はそんなにあるわけではないし、でも際立たせなくちゃいけないし。
- 矢部
- たださ、みんな成功したわけではなくて、大した考えもなく椅子でやって、一冊も売れないこともあった。書名は挙げないけど。あとね、バカ本以外では、外国文学(以下「外文」)は売れていたね。今考えるとあり過ぎなくらい外文の棚があった。
- 藤本
- アメリカ文学も売れましたよね。あの頃、ポール・オースターとか文庫になってましたか?
- 矢部
- いやまだなってなかった。白水社のを売っていた。
- 藤本
- ブコウスキーも売れてましたね。あとは荒地出版社のフィッツジェラルド全集。
- 矢部
- あれは永久平台(笑)。それからサリンジャーと『日々の泡』のボリス・ヴィアン。
- 藤本
- ボリス・ヴィアン、売れてましたね。『日々の泡』もそうですけど、『うたかたの日々』(ハヤカワepi文庫 当時は全集)が、凄かったんじゃなかったでしたっけ? 同じ本だけど、訳とタイトルが違う。
- 矢部
- 売れた売れた。ビニールのカバーがかかったような早川の全集ね。おフレンチなものはとにかく強かった。『ぼくの伯父さんの休暇』ジャック・タチ/ジャン=クロード カリエール(アノニマスタジオ 、当時はリブロポート)とかも随分売った。
- 藤本
- バカ本と外文と小林紀晴『アジアン・ジャパニーズ』(新潮文庫、当時は情報センター出版局)や池澤夏樹『未来圏からの風』(PARCO出版)なんかの旅本が文芸書の売上の柱でしたかね。まあ、バカ本は図抜けてましたけど(笑)。
- 矢部
- でもね、バカ本台をがんがん売ってることに対して、パルコも特別何も言ってこなかったよね。ここまで来ちゃうと、一人歩きしちゃった感がありありで。
- 藤本
- ただあの頃、パルコの内部では、リブロ池袋店は格調も高く文化度も高い。それに較べてP-BCは、っていう雰囲気がありましたね。
- 矢部
- そうなんだ。
- 藤本
- パルコっていう会社は、広告もそうですけど、人間を魅力的にしていくということを意識的にやった会社だと思うんです。外面だけの美しさだけじゃなく、内面の知識とか教養も非常に大事なものだという感覚があったと思うんです。そういう百貨店的思想の現代版とでもいうようなものが。
- 矢部
- うんうん。
- 藤本
- だから総合的にファッションを提供する時に、そういうものも一緒に提供する。PARCO劇場もそうですよね。
- 矢部
- 文化的装置としてね。
- 藤本
- そういう意味でいうと会社側はリブロみたいな優等生的なものを求めていたかのもしれません。それにくらべてP-BCは物凄くヤンチャな不良息子みたいなノリで、評価が低いっていうよりは「ヤンチャだなぁ、お前ら」って。でもP-BCはP-BCで「だってこれ売れるんだもん」みたいな感じでした。
- 矢部
- 確かにそうだね。
- 藤本
- 決して反逆しているわけでなく、あくまでお客様の買うものをみて仕事をしていたらああなっちゃったんですけど。あとは場所の特性がそのまま売り場に出てしまったという。
- 矢部
- 図らずもって感じだね。
- 藤本
- 相当図らずもって感じでしたよ(笑)。確信犯ではまったくなくて、勝手にお客さんと手をつないでどこかへ行っちゃった、みたいな。それをふまえて、今ベスト10を見ていると、何を言われてもしょうがないと思います(笑)。
- 矢部
- 私だって文句言いたくなるよ、このベストは(笑)。でもね、2000年にリブロと統合するときにリブロの偉い人がP-BC渋谷店を見に来たんだけど、「あれ? 何だ、普通の本屋じゃん」って言っていたのを覚えているよ。ベスト10上はバカ本ばかりなんだけど、そのバカ本の棚はあの一角の棚、たぶん20点か30点くらいしかなくて、P-BC渋谷店が変わっていたのは、あそこだけだったんだよね。
(つづく 次回更新は2月5日)