昨年9月、辞書編集の現場を舞台にした
長編小説『舟を編む』(光文社)を上梓した三浦しをんさん。
子どもの頃から辞書が大好きでよく眺めていたという三浦さんは、
今回の執筆にあたり、実際の辞書編集部を取材したといいます。
そんな大の辞書好きな三浦さんにとって、
“新解さん”はどんな存在なの でしょうか──。
「辞書編集部」を小説の舞台に選んだ理由とは?
――『舟を編む』(光文社)はまさに「辞書編集部」が舞台の小説ですが、この着想はどこから得たのですか?
仕事柄、辞書を引くことが多いので以前から興味はあったんです。色んな種類の辞書を使うようになると、同じ言葉でも辞書ごとに説明が違っていることがわかりますよね。ということは、辞書にも当然それを書いた人たちがいて、その個性が反映されている。私は三〇〇枚書くだけでもヒイヒイ言ってるのに(笑)。こんなに分厚いものを書く人たちって、一体どんな方々だろうって思ったんです。
――世間的には辞書作りは「地味」というイメージがあります。小説に仕上げるのは大変だったのでは?
小説にしようと決める前に、辞書作りについて書かれたエッセイやノンフィクションを読んでみたんです。すると、ひと言で「辞書」といっても、監修者や編集者など実に色んな人たちがいて、それぞれに辞書にかける思いがあることがわかってきました。しかも、誰もが個性的で面白い。この時点で、「これは小説にできるな」と。執筆にあたっては、岩波書店さんと小学館さんの辞書編集部を取材させていただきました。
――実際に取材されていかがでした?
確かに、真面目な方々は多かったですが、言葉に対するものすごい情熱がないとあれだけのものは作れない。皆さんの話し方とか振る舞いを見ていると、その情熱が溢れ出ている感じを受けました。登場人物にもそれは反映されていますね。
――それは、ちょっと世間からズレているというか......。
私はズレているとは思いませんが、もしかしたらそうお感じになる方もいらっしゃるかもしれません(笑)
新明解国語辞典は個性的、だからこそ話題にしたくなる
――いまだに電子辞書は使わないとか?
紙にこだわっているわけではないんですが、どうしても「辞書=紙」というイメージがあって。頑固親父みたいに、電子化に対応できていないだけです(笑)。もちろん、新明解国語辞典も持っています。
――小説でも新明解国語辞典の「恋愛」という項目が登場していますね。
新解さんの「恋愛」の定義が独特だというのはすごく有名ですよね。まるで「恋愛とはこういうものだ!」という誰かの意見みたい。小説では第五版の語釈を使わせていただきましたが、第七版でもその点は健在ですね。
元々、小説では恋愛の要素を入れようと思っていたので、辞書の小説なんだからこれは外せないというのもありました。でも、もう一つ理由があるんです。以前、週刊新潮の「掲示板」という読者投稿コーナーに登場させていただいたときに、「辞書の面白い語釈はないですか?」と聞いたことがありました。すると、二人の読者の方から「新明解国語辞典の『恋愛』の項目がとっても面白いです!」というお便りが届いて。しかも一人は「職場でそれを読んで盛り上がりました」と書いてあった。そんな風に話題になるなんて、新明解国語辞典はすごい辞書なんだなって感動して。巻末には、このお二人の名前も協力者として載せています。
――個性的だからこそ、人に話したくなるというわけですね。
もうひとつ嬉しかったのが、「人は辞書で『恋愛』とか引くんだ!」と分かったこと。みんな辞書でちょっとドキドキする言葉とかも調べるんだろうなって安心したんです。私がそうだから(笑)
――小説でもそんなシーンがありますね。例えば、三浦さんはどんな言葉を調べるんですか?
それは恥ずかしくて言えません! 小説には書いたので、確かめて見てください(笑)
三浦しをん(みうら・しをん)
1976年東京都生まれ。作家。2000年『格闘する者に◯』でデビュー。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞受賞。2011年には辞書編集部を舞台にした小説『舟を編む』を発表。10万部を超えるベストセラーとなっている
『舟を編む』
三浦しをん/光文社/1,575円(税込)
出版社の辞書編集部を舞台に、新しい辞書『大渡海』の編纂に奔走する人々を描いた三浦しをんさんの長編小説。「言葉」という絆で結びついた個性的な面々が巻き起こす物語は、雑誌『CLASSY.』掲載時から話題を呼んだ
「新明解国語辞典」の名物語釈の一つ、【恋愛】。初版から第7版まで、少しずつその中身が変わっていることをご存じですか? そこで、「恋愛学」のパイオニア・早稲田大学の森川友義教授に、初版から第7版までの【恋愛】の語釈を読み解いていただきました! 果たして“新解さん”の恋の遍歴はいかに!?
――初版から第7版までの【恋愛】の語釈の変遷から、“新解さん”がこれまでどんな恋をしてきたのかをたどることはできますか?
恋愛学の観点からしっかりたどれます。そもそも恋愛とは“自分の資産価値をもとにした物々交換”と言えます。恋愛学では、「恋愛バブルが発生する」という言い方をするのですが、恋愛感情を抱くと、資産価値を過大評価してしまうのが人間のメカニズム。そして、恋愛バブルが生じると、相手を中長期的に保有したくなります。新解さんが言う「毎日会わないではいられなくなる」という状態です。初版(及び第2版)の【恋愛】の語釈は非常に一般的で、この時期、新解さんはオーソドックスな恋愛をしていたと考えられます。
――第3版になると、語釈が長く、詳しくなります。
性行為にまで言及していますね。しかも、「できるなら合体したい」とまでの表現は完全に男性目線。ポイントは、それ(性行為)が「まれにかなえられ」ているということで、これは男女間において非常に良い関係です。恋愛の中には消費されるものがあって、性行為もその一つ。つまり飽きてしまう。新解さんが言う、「まれにかなえられて歓喜する」というのは、相手の女性が“新解さん”を見事なまでに飢餓状態に置いているということ。そこには、恋愛上級者のテクニックが見て取れます。初版と第2版は語釈が同じなので、第2版~第3版までの間に“新解さん”は恋愛上級者の女性に出会った可能性が高い(笑)。“新解さん”が時間・エネルギー・お金を十分投資していることが見て取れますから、ものすごく恋愛バブル状態になっていることが伺えます。
――つまり、お相手の女性の価値が急騰している状態を「恋愛バブル」というわけですね。
そうです。次に語釈が変わるのは第5版です。第3版からの飢餓状態が16年後に発行される第5版まで続くというのは考えにくいので、これは途中で相手が変わっている可能性がある。恋愛感情が続くのは、一般的に2年と言われているので、1人の女性にそこまで投資し続けることはないでしょう。これは、別人に入れ込んでいます。それから、第5版では表現が随分と丁寧になっていますね。恋愛バブルが終わり、過去を振り返って表現出来るほど、精神的に落ち着いた状態。いわゆる“経験者は語る”という一種の達観状態になっています。だから、語釈も非常に詩的です。恋愛に対して当事者だったのが、随分と第三者的な立場になりました。
――もう“新解さん”の恋愛は、終わってしまったのでしょうか。
第6版で、また少し面白い変化が見られます。この頃には、もうかなり精神世界に入っています。語釈に性行為を思わせるものが一つも出てきません。肉体よりも精神の結び付きを重視するようになっていますから、枯れてしまったのかもしれません。「二人だけの世界を分かち合いたい」との表現から、肉体的なことが関係なくなっています。これはもう恋愛学でいう恋愛とは違う状態です。恋愛の“恋”から“愛”にシフトしています。
――恋から愛に! すっかり大人の“新解さん”ということですね。
初版から第7版まで、新解さんの【恋愛】の語釈が変遷しているように、人生の中で恋愛には段階があって、人によって少しずつ違ったものになるというのは恋愛学の観点からも言えること。最終的には、誰もが第7版の新解さんのように、肉体的なことよりも精神的なことを重視するようになります。ちょっと寂しいですが。
――いや、“新解さん”のことだから、男としてもう一花咲かせるかも!
第8版が出た際にチェックしようと思います。こんな楽しみ方があるのも新解さんならではですね。
森川友義(もりかわ・とものり)
早稲田大学国際教養学部(政治学)教授
「日本政治」「国際機構論」「恋愛学入門」を教える。『結婚は4人目以降で決めよ』(毎日新聞社)など著書多数
編集後記
今号では、「新明解国語辞典」が学校指定の辞書になる理由をつくづく実感しました。きっと“辞書を引く楽しさ”を覚えるのにぴったりなんでしょうね。昨年12月から毎月発行してきた「新解さん新聞」も、次でいよいよ最終号。どうぞご期待ください!