コラム / 高橋良平

天下御免的断続SF話 その1

 本誌連載の下調べのために、〈S−Fマガジン〉のバック・イシューをパラパラめくっていたら、1964年8月号の「てれぽーと」欄に、こんな投書が載っていた。
〈(前略)東京の方はご存じないでしょうが、ものすごい差別待遇です。発売日がぼくらのところでは毎月1日なのです。風の便りにきけば東京では25日だそうで、それでは東京のファンより1週間近くたたなければ、SFをガッキと抱きしめられない。そんな不公平があっていいものでしょうか。なんとかして下さいよ。どうしても遅れちゃうなら東京地方の発売日を毎月1日にして下さい!(東京の方スミマセン)ああ、言いたいことを言って胸がスッとした。失礼いたしました。熊本市 梶尾真治16才〉
 そう、映画化された『黄泉がえり』(ちょっと古い?)などでお馴染みの売れっ子作家カジシン先生、高校生のみぎりの直訴状であります。

 当時の熊本で、なぜ1週間も遅れたのかというと、それは、物流の問題だった。
 その昔、雑誌の創刊に際しては、定期購読者などに安価に郵送できる「第三種郵便物認可」のほかに、業界用語でいう"特運"の認可を受け、関東での発行の場合は、「国鉄東局特別扱承認雑誌」番号を取得する必要があった(念のため記しておくと、死語になっちゃった国鉄は、正式名称「日本国有鉄道」で、1987年にJR各社に分割民営化された公共企業体のことね)。
 丸の内にあった国鉄本社に出向き、"特運"の申請手続きをすれば良いのだが、審査に際し、題字の大きさ指定(写真やイラストが題字にかぶる表紙デザインは不可)とか、最低限の記事数と執筆者数の要件を満たさねばいけないとか、付録は本誌から抜けないように輪ゴムか紐でとめるとか、国鉄側の雑誌規定というものがあり、絶対厳守だった。
 なぜ、お役所然とした国鉄に頭をさげにゆくかというと、全国の高速道路網が整備されておらず、物流の主体がトラック輸送になるまで、取次からの長距離配送は、国鉄の貨物列車にお任せするしかなく、特別の配慮をいただくためだ。それでも、遠隔地ほど配本が遅れる事態が生じ、全国津々浦々まで一斉発売とは、なかなかいかなかったのである。

 ところで、雑誌の発売日というものは、SF出版史を書いているぼくにとっては、ややこしい問題だ。少し前に出た『完全読本 さよなら小松左京』(徳間書店)にしても、年表の注記に〈書籍の発行時期は奥付に、雑誌のそれは月号表記に準拠した〉とあるように、ほとんどの場合、雑誌は"月号表記に準拠"して文学年表に記録される。
 しかし、ご存じのごとく、月刊誌にしても、じっさいの発売月と月号表記にはズレがある(海外でも慣例化している)。
 たとえば、〈S−Fマガジン〉創刊号の場合、当初、1959年12月中旬の発売予定が、ちょいと遅れ、22日発売と広告されて書店に並んだ。その創刊号が、60年2月号だからというので"月号表記に準拠"し、他の2月発売の単行本と一緒に、年表に60年2月の項に書きこまれてしまうと、SFの出版物が少ない中、〈SFM〉の発売日を待ちかねていたSFファンをはじめ、リアルタイムで読んだ人たちには違和感が生じるし、事実と食い違っているため、記憶に齟齬をきたす。そういう実情からだろう、前出の小松さんの追悼読本の年表でも、〈SFM〉創刊号で現代SFに開眼した小松さんにとって重要なターニング・ポイントだったので、その項目は59年12月に書きこまれている(ただし、煩雑化をさけ、創刊号の月号表記なし)。

宇宙の戦士

銀河パトロール

 さて、先日、神保町クルーズしていたら、某書店のワゴンセールで、函入りの"ハヤカワ・ミステリ"と"ハヤカワ・SF・シリーズ"が放出されており、しかも超廉価だったから、すかさずゲットしたのであった。
 両叢書は、60年代から71年にビニールカバー装に変わるまで(マニアの人は期間と書名を特定してるんでしょうな)、簡易函装で配本された。函の裏面の左上隅に、

 お手許に綺麗なままの
 本をお届けしたくこん
 な簡単な函をつくって
 みました いわば包装
 紙がわりです お買上
 げ後にはお捨て下さい

 ----って、版元の言葉が印刷されていたけど、はい、そうですかと捨てちゃう人は、少なかっただろう。この函がまた、厚紙に針金どめ、裏表紙の定価表示(函入り以前は表3に簡易奥付、ビニール装からは背に定価を印刷)が見えるように穴をあけたもので、ミステリは黒、SFは臙脂色でパッケージ・デザインのフォーマットや自社広告などが刷ってあり、函というよりケースと呼びたくなるほど、おシャレだったんだよね。
 トリビアを加えると、このケース、初版用にはタイトルが刷りこまれ、イラストや写真なども添えられる場合もあったが、重版もしくは返品の再出荷の際には、束(本の厚み)に応じたタイトル抜きの汎用ケースに入れられた。また、原作の映画・TV化がともなうと、スチールを使ったカラー・カバーをかけて配本された。さらに"ポケミス"のほうは、表紙(初期の具象画と重版後の抽象画)、タイトルバックの地色、解説、叢書名、新訳版など、さまざまな違いがあり、全バージョンを入手するのは、けっこう大変。
 もちろんこのとき、ゲットしたのはタイトル入りのケースである。そう、中身はすでに持っているから、出費はケース代だったわけだ。因果だよなあ。

S-Fマガジン発売日
7日から30日、25日と変遷した〈S-Fマガジン〉発売日

 で、数日後、積んでおいた20冊ほどのケースをニヤつきながら眺めていたら、ふと気がついたことがあった。うかつにも見すごしていた雑誌の広告だ。
 1961年10月初版本のケースでは〈EQMM〉毎月21日発売・〈SFM〉毎月7日発売、62年8月初版が〈EQMM〉毎月21日発売・〈SFM〉毎月30日発売、64年11月初版になってようやく、〈EQMM〉毎月25日発売・〈SFM〉毎月25日発売と、現在まで定着した発売日になっている。
〈SFM〉創刊号の内容見本には、1課の編集する〈EQMM〉は毎月22日発売(以前は1日発売)、新設2課の編集する〈SFM〉は毎月20日発売、となっていたのにね。
 そういえば、本誌の連載で以前、発売日について触れたことがあった。

 ......61年1月号が紙型完了まで進行していながら、突然の印刷所の倒産のせいで発売日が月末までずれこみ、以降、印刷所は新規となったものの、21日の月例発売日を守れない状況がつづいた。そのあげく、同年7月号の読者欄「てれぽーと」で、〈六月号が五月に入ってやっと姿を現わしヤキモキさせられましたが、以後の発売日もそうなるのですか?〉という読者の問いに対し、〈発行日が遅延して読者の皆様に多大の御迷惑をおかけしていることを深くお詫びいたします。目下鋭意発売日の調整に努めておりますから今しばらくお待ち下さい。なお発行日は毎月五日前後となる予定です〉と編集部M氏が釈明するほどだった......

 ケースの発売日告知の変遷から、編集部の頑張りで、7日から30日、25日へと徐々に遅れを取り戻していった様子がうかがえる。ぼくも月刊誌の編集経験から、毎月の修羅場はよく知っている。とうに締切りを過ぎても依頼原稿を取れず、写植屋を拝みたおし、印刷所に泣きをいれ、執筆者をせかし、なんとか入稿する。それが毎月つづき、ストレスのせいか、いつしか髪に白いものが増えてゆく......(しばし回想)。
 ただ、都筑道夫さんから聞いた話では、翻訳ミステリ誌の〈EQMM〉は比較的のんびりしたもので、残業することなく、楽々校了したという。一方の〈SFM〉は、しばしば次号予告と違って、作品が差し替えられたから、土壇場のギリギリまで、編集長の福島正実さんも部下の森優さんも、翻訳にも手をそめ(社内翻訳は〈EQMM〉も同様だが)ながら全力投球、奮励努力していたのかもしれない。なにしろ、1号1号がSFの今後を左右する、"本邦唯一の空想科学小説専門誌"だったのだから、手を抜けない。
 そして、〈朝日新聞〉一面の三八広告に、毎月25日ごろに〈SFM〉と〈EQMM〉の定期広告が並んで載るようになるのは、1963年。興味深いことに、〈SFM〉が長くつづいた赤字から脱却したのも、このころであった。

« 前のページ | 次のページ »