コラム / 高橋良平
日本SF戦後出版史・枝篇
「〈話の特集〉——1966〜1969 あるいは、原宿発カウンターカルチャー・マガジンと小松左京」
中学1年の春休み前に、"セミ・クラシック特集"の〈S−Fマガジン〉1965年4月号を買ったのが始まりで、ずぶずぶ溺れてSFファンになったいきさつは、本誌の連載で触れたことがあるが、その功徳のひとつは、それまで疎遠であった本屋さんに、足繁く立ち寄る性癖がついたことだ。
とはいえ、買えるのは〈SFM〉くらい。中学までは月々決まった小遣いをもらっておらず、つねに手もと不如意だったからだ。それでも、毎月〈SFM〉の発売日を待ち兼ねて、今月は早く来てるんじゃないかとあらぬ妄想にかられ、2、3日前から、中学の近くのH川堂、〈たのしい幼稚園〉にはじまり、学年誌を我が家に毎月届けてくれた駅前のS文館と、本屋さんをはしごで日参したあげく、案の定、発売当日の25日にやっと手にするのだが、その喜びはひとしお、1日でも遅れれば気が動転したものだった。
そして、高校にすすんだ2歳上の兄が、そこで知り合ったNさんがSFと漫画のマニアだったことから、大仰な言い方をすれば、ぼくの人生は変わった。
小学生のころ、近所の貸本屋で借りてきた『刑事(デカ)』などの劇画誌にはまり、兄とふたり、描いた劇画まがいの1、2ページものをまとめ、肉筆1部の冊子を作った----なにごとにも器用な兄のほうが、圧倒的に絵がうまかった----りしたが、中学からブラスバンド部でフルートを吹いていた兄の漫画熱は、とっくに覚めていた。
その兄がどうしてNさんの知遇をえたのか聞いたことがないか、聞いても忘れてしまった----たぶん、クラスメイトだったのだろう、理系の兄だが、数学や物理のテストで赤点をとった者のみ入会できる"ゼロの会"の仲間だった----が、団塊の世代に属し、やたら生徒数の多い進学校に入っても、SFファンを見つけられないでいたNさんが、〈SFM〉を購読する中坊の弟がいると聞きこみ、我が家にやってきた。
そのときの"餌"が、ぼくの買いだす前の〈SFM〉1965年1月号。それを読みたさに唯々諾々、同人誌作りを承知してしまった。これが腐れ縁となり、後年、ツルモトルームで〈STARLOG〉をいっしょに編集することになるなど、神のみぞ知る......。
古本屋というものを教えてくれたのも、Nさんだった。おかげで、同じ高校にすすみ、少々の小銭が自由になると、自転車通学の帰り道、〈SFM〉のバックナンバーを求めてK文堂に寄ったり、A書店に遠まわりする始末。ライバルとなるSFファンは、市内にはNさんしかいないようで、短期間に60冊そこらのバックナンバーをあらかた手にいれると余裕ができ、古本極道とは言わずも、ちょいと身を持ち崩した気分で、奥の番台にすわった親父の視線を気にしつつ、悪書にも手を伸ばす。〈マンハント〉や〈ヒッチコックマガジン〉を知ったのも古本屋。〈SFM〉と同じく、100 円で売っていた。
一方、新刊書店では、それまで、貸本漫画や[カッパ・コミクス]版〈鉄腕アトム〉〈鉄人28号〉などのB5判雑誌をべつにすれば、漫画の単行本といえばA5判で、点数は知れているものの児童書一般と同じく上製本でとても高く、お年玉などの小金が入らないかぎり、とても手を出せなかった。
それが、66年の5月、コダマプレスの[ダイヤモンドコミックス]、小学館の[ゴールデンコミックス]、11月には朝日ソノラマの[サン・コミックス]と、相次いで新書判コミックの刊行が始まった。いずれも人気漫画家の名作ばかり。ぼくは貸本で読み逃した巻のある白土三平の『忍者武芸帖ー影丸伝ー』(ゴールデンコミックス)や永島慎二の『漫画家残酷物語』(サン・コミックス)、途中から購読を始めた〈ガロ〉に連載中の白土三平『カムイ伝』(ゴールデンコミックス)などを、あれこれやりくりして買い求めた。
そんな新書判コミックは、H川堂にもS文館にも確実に入荷するが、S文館からアーケード商店街を抜けた先にあるK英堂で買うようにしていた。K英堂は、H川堂やS文館の大型書店とちがい、ご夫婦でやっている町の小さな本屋さん。客の姿も少なく、ポケミスのカーター・ブラウンのホットパーツなどを、よく立ち読みさせてもらっていたから、罪滅ぼしの気持ちもあった。それにH川堂やS文館にないイカガわしい雑誌もおいてあり、〈SーFマガジン〉の隣に〈SMマガジン〉を見つけたのもK英堂がお初で、〈平凡パンチ〉や〈週刊プレイボーイ〉ならともかく、〈SMマガジン〉を高校生に売ってくれるはずもないから、こっそり立ち読みさせてもらった。SFにしろSMにしろ、人口に膾炙するにはほど遠い時代だったから、〈SーFマガジン〉と〈SMマガジン〉を間違えられて、バツの悪い思いをしたSFファンの多かったことは、なかば伝説になっている。
ちょっと古めかしい誌名の〈話の特集〉と出会ったのも、このK英堂だった。サイズが同じ月刊誌、〈SFM〉や〈SMマガジン〉といっしょに平台に並んでいた。
1967年6月号。表紙に"ショート・ショート・フェスティバル"とあり、"星新一、都筑道夫、小松左京、筒井康隆、村上元三、稲垣足穂、吉行淳之介、なだいなだ、笹沢佐保、手塚治虫、八切止夫、田辺聖子、伊丹十三、ほか"と名がある。SFファンとして見逃せるわけがなく、百五十円なりで購入。
それから数年間、この〈話の特集〉およびその執筆者から----69年3月号掲載の篠山紀信の撮ったカルメン・マキのヌード写真の衝撃も含め----、刺激・感化されつづけるのだが、翌月も買ったわけではない。理由は忘れてしまったが、その後は立ち読みですませ、〈SFM〉〈COM〉〈ガロ〉につづく愛読誌になったのは、68年3月号からだった。
ぼくの感慨はともあれ、〈話の特集〉という雑誌----日本社から発行されたA5判の同題の実話雑誌から大変身して以後----について、編集長だった矢崎泰久『「話の特集」と仲間たち』(新潮社/2005年1月刊)など、彼の著書をひもとけば、当時フレッシュに感じたそのリベラルな文化圏の時代的気分は、それなりに感得できるだろう。
その『「話の特集」と仲間たち』の第2章の終わりあたりに、
〈和田誠がイラストレーションを頼まれたりしている星新一にショート・ショートを書いて貰おうという案が出た時に、SF作家なら小松左京がいいと誰かが言い張った。関西に住む作家だし、特別のツテはなかった。その頃私は誰彼となく手紙で執筆を依頼していた。どれくらい手紙を書いたか数えきれないほどであったが、短編SF小説の連作を依頼して、上京する折りがあったら是非会いたいと書いた。
数日して返事が来て、羽田空港に着いたら会社に電話をくれることになった。その電話が入った時に和田誠と横尾忠則が編集部に居た。三人で小松と待ち合わせた東京プリンスホテルに行った。初対面の小松左京は、
「矢崎クンの手紙で、原稿料は千円とはっきり書いてあった。そこが気に入ったんだ」
と、関西人らしい感想を述べた。(中略)創刊号から毎月連載で読み切りのSFを書いてくれることが、別れるまでに決定していた。何か非常にラッキーな感じがした〉
とあるように、1965年12月20日(50号の「話の特集レポート 話の特集への疑問」では、12月22日となっていたが)発売の創刊号、66年2月号に小松さんの「イワンの馬鹿作戦」が掲載されたのだった。
以後の〈話の特集〉のSF関係作品リスト(*印は未入手号)を作ってみると、
1966年
3月号(*)「TDSとSDの不吉な夜」小松左京
4月号(*)「ウインク」小松左京
5月号(*)「地球になった男」小松左京
6月号(*)「お玉熱演」筒井康隆
7月号「産気」筒井康隆
8月号(*)「日本漂流」小松左京
9月号(*)「時魔人」小松左京
10月号(*)「最高級有機質肥料」筒井康隆
11月号(*)「時越半四郎」筒井康隆
12月号(*)「彼方へ」小松左京
1967年
1月号「おえらびください」小松左京
2月号(休刊)
3月号(休刊)
4月復刊号「手おくれ」小松左京
5月号「*◎〜▲は殺しの番号」小松左京
6月号"ショート・ショート・フェスティバル"
星新一「宿命」/手塚治虫「あの世の終り」/都筑道夫「時間旅行者」
筒井康隆「悪魔の契約」/小松左京「おちてきた男」
7月号「汚れた月」小松左京
8月号「ヤクトピア」小松左京
9月号「爆発」星新一
10月号「人類裁判」小松左京
11月号(掲載なし)
12月号「一日の仕事」星新一
1968年
1月号「くだんのはは」小松左京
2月号「ト・ディオティ」小松左京
3月号「幸福の公式」星新一
4月号「売主婦禁止法」小松左京
5月号「またひとり死ぬ夜」都筑道夫
6月号(掲載なし)
7月号「せまりくる足音」小松左京
8月号(掲載なし)
9月号「二〇二〇年八月一五日」"創作----一九四五・八・一五"の競作のうち
10月号"ジョーク・フェスティバル"星新一/筒井康隆/都筑道夫
11月号「星の王子さま--円楽に捧げる落語------」小松左京
12月号(掲載なし)
1969年
1月号(掲載なし)
2月号「サマジイ革命」小松左京
3月号「*」都筑道夫
4月号「盗作のすすめ」都筑道夫
5月号「The Memoirs of an Erotic Bookseller 」都筑道夫
6月号"ショート・ショート・フェスティバル"
筒井康隆「チョウ」/小松左京「おみやげブーム」/星新一「平穏」
都筑道夫「退屈しのぎ」
7月号「骨の美しさについて」都筑道夫
8月号「五回目」都筑道夫
9月号「鱗」都筑道夫
10月号「穴」都筑道夫/「月蝕」塚本邦雄
11月号「闇の終るところまで」都筑道夫
12月号「終りの始り」都筑道夫
小松作品について補足しておくと、「汚れた月」は、"編集前記"(写真付き執筆者紹介)に、〈「汚れた月」は力作である。原稿を渡すとき、内容の話をすることなどほとんどないのだが、本篇に関する限り、執筆意図まで語っていた。なにしろ1955年に書いたものを12年間大切にあっためていたそうだ〉とある。
また、「時魔神」には〈(ジンマシンとよんではいけません。タイムマシンとよんでください)/----あるいは、食時鬼----〉、「人類裁判」には〈レーゼ・ドラマ・あるいは長篇のためのエスキース〉、「ト・デォオティ」には〈安部公房氏に捧ぐ/これは普遍的な生活の描写である。----あなたの日常はこんなものだ〉と、副題や献辞が付されていた。
1969年3月号から12月号まで9回連載された都筑作品には長篇としてのタイトルはなく、毎回変わる題名には長い脚注がつき、それに毎回イラストレーターが交替し、松本はるみ、辰巳四郎、片山健、後藤一之、黒田征太郎、原田維夫、矢吹伸彦、山藤章二、井上洋介がそれぞれ趣向を凝らすという手間をかけた企画で、のちに『怪奇小説という題名の怪奇小説』(桃源社/1975年9月刊)というタイトルで上梓された。
作品を寄せるだけでなく、「未来を語る」(67年4月復刊号)、「小田実座談会 歴史を語る」(69年5月号)、「13チャンネル〈CM〉」(69年10月号)などの座談会にも出席した"〈話の特集〉の仲間"(50号までに登場回数23回、多さでは14人め)であった小松さんだが、1970年以降、小説に関しては、ショート・ショートの「都市を出る」(70年4月号)、「小説を書くということは」(71年1月号)、「オーバー・ラン」(73年4月号)の3作しか発表していない。
『果しなき流れの果に』を書きあげてから、1970年の大阪万博および国際SFシンポジウムに向かう1960年代後半、小松さんは、万博がらみの"未来論"をはじめとする"知のオピニオン・リーダー"(むしろ、『宇宙船ビーグル号』にあやかって"ネクシャリスト"と呼ぶべきかも)として頭角を現わすとともに、
〈仕事が忙しすぎるせいもあるのでしょうが、それ以上に、「未来」という分野のはらんでいる題材が、あまり多すぎるため、ついつい個々の作品の完成度を高めることよりも、大急ぎで、問題点をピックアップして行く、ということに重点をおくことになってしまいました。(中略)ほんとうのことをいえば----私にはもう、昔のような意味での「文学的完成」などということは、どうでもよくなっているのかも知れないのです〉
と、『神への長い道』(ハヤカワ・SF・シリーズ/67年11月刊)の「あとがき」に書き、一部SFファンを悲しませたものだが、だからこそか、うるさがたのSF読者をもつ〈SFM〉とならび、ずいぶん風通しのよい〈話の特集〉という雑誌が、小松さんにとって重要な発表舞台だったことは、掲載された力作群がそれを証明していると思う。
〈話の特集〉67年10月号の編集前記に、
〈長いことお待たせした作品集「ウインク」が九月一日に発売と決まった。なにしろ同じ雑誌に書いた短篇集というのは彼の著書としても初めてだけに毎日のように「見本はまだか」と大阪から長距離電話をかけてきた〉
と、いうわけで、話の特集編集室の初の単行本(で、長い間唯一のものだった)『ウインク』が発行された。
『ウインク』は、和田誠装幀、星新一「小松左京論序説」のほかに解説がもうひとつ、矢崎編集長の「『ウインク』の周辺」が付せられた。
〈さて、この作品集には、三つの特色がある。
第一は、小松左京の短篇の中では、最高といっても過言ではない質の良い作品ばかりで埋まられているということ。第二は、全作品に、現在もっとも活躍しているイラストレーターが、すばらしいイラストレーションを添えているということ。第三は、収められた小説十二篇が、いずれも雑誌「話の特集」に掲載されたものであるということ。以上の三つである。
「話の特集」の創刊号(一九六五年十二月二十日発売)に"イワンの馬鹿作戦"を発表、バックナンバー十八号の一九六七年八月号の"ヤクトピア"まで、計十三篇の小説を書いた。このうち一九六七年七月号の"汚れた月"のみが、いわゆるSFでないので、この作品はここに収められていない。ひと口にSFといっても、そのジャンルをはるかに越えたところに小松左京の作家的な野心をうかがい知ることができる。つまり「話の特集」が個性的な雑誌であったために、そこをひとつの場と考え、極めて念入りに創造された作品がほとんどといってよいだろう。
SFの専門誌の編集長が「小松左京は話の特集に書くような作品をなぜウチにくれないのだろう」と嘆き悲しんだそうだが、それ自体無理な話であって、いうなればお門違いな嫉妬なのである。ひとつの雑誌に発表された作品ばかりというのは、短篇集では、おそらく他にないだろう。それだけに粒ぞろいの傑作ばかりが、まとめられるという結果になったといえる〉
本誌から流用のイラストレーションを描いた12人のイラストレーターの顔ぶれは、登場順に、井上洋介、松永謙一、和田誠、石岡瑛子、山下勇三、伊坂芳太良、細谷巌、岡本信治郎、真鍋博、永井一正、久里洋二、木村恒久であった。
ちなみに、「汚れた月」は、「くだんのはは」「売主婦禁止法」とともに『模型の時代』(徳間書店/68年4月刊)に、「人類裁判」は前記の『神への長い道』に、「せまりくる足音」「二〇二〇年八月一五日」は『飢えた宇宙』(ハヤカワ・SF・シリーズ/68年11月刊)に、「ト・ディオティ」「サマジイ革命」は「小説を書くということは」とともに『牙の時代』(早川書房・日本SFノヴェルズ/72年2月刊)に、創作落語の「星の王子さま」は『小松左京ショートショート全集』(勁文社/95年11月刊)に初収録された。