コラム / 高橋良平
ポケミス狩り その15
「チェスタートンの巻」
この、あまりに有名な江戸川乱歩の感慨は、ポケミス版『木曜日の男』(橋本福夫訳)に付された巻末解説の冒頭の一節である。----余談になるが、このポケミスの底本は、版元の早川書房が、1951年5月に刊行した[世界傑作探偵小説シリーズ]の1冊......だが、なぜか、[講談社文芸文庫]から出ている吉田健一本の、いずれの巻末著作リストでも、この親本が氏の訳本と誤記されたまま、一向に訂正されていない。ミステリ・ファンならご案内のとおり、吉田訳の『木曜の男』は、56年9月刊の東京創元社[世界推理小説全集]版が初訳で、のちに創元推理文庫に入っている。
あだしごとはさておき、そのポオとチェスタートン、両者の小説に、ぼくが初めて接したのは、小学校の図書室から借りた全集物のうちの1冊のアンソロジーだったと思う......ポオ作品は「黒猫」だったか「恐怖の振り子」だったか「ちんば蛙」だったか、チェスタートンはブラウン神父物のどれか、いっしょにドイルの「まだらの紐」か「赤毛連盟」を読んだような......本好きになる以前で、装幀も判型も覚えていない。なんともアイマイな言い方しかできず、記憶が他の本とごっちゃになってるかもしれず、1P大のモダンなタッチのカラー挿絵があった気もするが、口絵ならともかく、当時の児童書の常識からしてまず、ありえないだろう。
ともかく記憶はおぼろ、肝心のチェスタートンの短篇の、ストーリーもまったく覚えていないものの、謎を解明するブラウン神父の、思い込みの盲点をつく推理が鮮やかだったことだけが、妙に記憶に残っている。証拠からロジックを組み立てるというよりむしろ、心理的な逆説というか、秀逸な推理クイズを解く"論理のアクロバット"に、子どもながら、いや、だからこそか、ずいぶん感心したものだ。
今回、改めてポケミス版で、ブラウン神父物の短篇集5冊を通読したのだが、なにしろ名にし負う悪訳者・村崎敏郎なんでおっかなびっくり、奇妙な言い回しや腑に落ちない表現に首をかしげつつ、筋はわかるものの信頼できない訳文だから、どうにもこうにも、まっとうな感想など言えたものではない。ずんぐりむっくり、冴えない田舎神父然とした名探偵は、思わせぶりながら、たしかに事件のからくりを解くんだけれど、善悪は神様の問題で犯人を裁くのは埒外、犯罪を成立させてしまう衆生の固定観念や俗信・迷信を理知の光に照らすというか、ブラウン神父が陰陽師のごとく魔を払う、近代理性の権化のように見えてくる。いまでいえば、京極堂に似ているのかもしれない。
そういえば、現在進行中の"ハヤカワ文庫補完計画"の1冊として、『ブラウン神父の童心』が、田口俊樹新訳版で出るそうなので、清新な訳で残りの4冊も出していただいて、そのあかつき来たらば、なにがしか物が言えるかもしれない。
そして、ミステリでは著者唯一の長篇『木曜日の男』についてなんだけれど、『ハヤカワ・ミステリ総解説目録』では、〈探偵小説のなかで最も難解なものに類している。木曜日という名の無政府主義者が殺された事件を、詩人をよそおう刑事が自ら無政府主義者を装ってその会合にまぎれこみ探ってゆく話が、きわめてファンタスティックな、ファルスに近い筆致で進められる〉と紹介されている。
創元推理文庫の『木曜の男』は、〈無政府主義者の秘密結社を支配している委員長〈日曜日〉の峻烈きわまりない意志。次々と暴露される〈月曜〉、〈火曜〉......の各委員の正体。前半の奇怪至極な神秘的雰囲気と、後半の異様なスピードが巧みにマッチして、謎をいっそう奥深い謎へとみちびくのだ。諷刺と逆説と、無気味な迫力に満ちた逸品として世を驚倒させた著者の代表作〉と、解説目録にある。
それにもう1冊、光文社古典新訳文庫から出ている最新の南条竹訓訳『木曜日だった男 一つの悪夢』(我が家の現物は、本の山にまぎれて行方不明で未読のまま)となると、その解説目録の紹介文は、〈ある晩、十九世紀ロンドンの一画サフラン・パークに、一人の詩人が姿をあらわした。それは、幾重にも張りめぐらされた陰謀、壮大な冒険活劇の始まりだった〉。
三者三様にしても、"最も難解な"探偵小説から"壮大な冒険活劇"へ、惹句の時代的変化は、そのまま、ミステリ読者の成熟を意味するのかもしれない。じっさい、『木曜日の男』は表現は仰々しいけれども、読めば、ちっとも難解とは思わないだろう。
というか、『木曜日の男』は、探偵小説と呼ぶより、ポケミスの"ファンタスティックなファルス"という言い方が正鵠を射た指摘であり、ぼくは、パトリック・マクグーハン主演のTVシリーズ《プリズナーNo.6》の御先祖様----といった印象をもったのだが、いかがなものか。また、"バカミス"と評する人がいても、正直、異議を唱えないだろう。
[資料篇]"ポケミス"刊行順リスト#10(奥付準拠)
1958(昭和33)年・上半期
1月15日(HPB 392)『ゼロ時間へ』A・クリスティー(田村隆一訳)
1月31日(HPB 390)『エレヴェーター殺人事件』J・ロード&J・D・カー(中桐雅夫訳)
1月31日(HPB 396)『死が最後にやってくる』A・クリスティー(加島祥造訳)
1月31日(HPB 397)『喉切り隊長』J・D・カー(村崎敏郎訳)
1月31日(HPB 400)『シャム双生児の秘密』E・クイーン(青田勝訳)
2月15日(HPB 405)『メッキした百合』E・S・ガードナー(尾坂力訳)
2月28日(HPB 398)『まだ死んでいる』R・ノックス(橋本福夫訳)
2月28日(HPB 399)『判事に保釈なし』H・セシル(福田陸太郎訳)
2月28日(HPB 401)『曲線美にご用心』A・A・フェア(田中融二訳)
2月28日(HPB 402)『ヴェルフラージュ殺人事件』R・ヴィガーズ(小倉多加志訳)
3月15日(HPB 353)『章の終り』N・ブレイク(小笠原豊樹訳)
3月15日(HPB 394)『九つの答』J・D・カー(青木雄造訳)
3月31日(HPB 354)『真実の問題』H・ブリーン(大門一男訳)
3月31日(HPB 356)『毒蛇』R・スタウト(佐倉潤吾訳)
3月31日(HPB 357)『毒のたわむれ』J・D・カー(村崎敏郎訳)
3月31日(HPB 358)『ライラック・タイムの死』F・クレイン(南洋一郎訳)
3月31日(HPB 395)『断崖』S・エリン(三樹青生訳)
4月15日(HPB 342)『ウインター殺人事件』S・S・ヴァン・ダイン(宇野利泰訳)
4月15日(HPB 404)『強盗紳士ルパン』M・ルブラン(中村真一郎訳)
4月30日(HPB 355)『暗闇へのワルツ』W・アイリッシュ(高橋豊訳)
4月30日(HPB 359)『伯母殺し』R・ハル(乾信一郎訳)
4月30日(HPB 360)『恐怖のブロードウェイ』D・アリグザンダ−(中田耕治訳)
4月30日(HPB 403)『メグストン計画』A・ガーヴ(福島正実訳)
4月30日(HPB 406)『マギンティ夫人は死んだ』A・クリスティー(田村隆一訳)
5月15日(HPB 362)『夜来たる者』E・アンブラー(瀬田貞二訳)
5月31日(HPB 408)『メグレ罠を張る』J・シムノン(峯岸久訳)
5月31日(HPB 409)『読者よ欺かるるなかれ』C・ディクスン(宇野利泰訳)
5月31日(HPB 412)『わらう後家』C・ディクスン(宮西豊逸訳)
5月31日(HPB 450)『シャーロック・ホームズの功績』ドイル&カー(大久保康雄訳)
6月15日(HPB 410)『緑は危険』C・ブランド(中村保男訳)
6月15日(HPB 411)『関税品はありませんか?』F・W・クロフツ(村崎敏郎訳)
6月15日(HPB 415)『偽証するおうむ』E・S・ガードナー(宇野利泰訳)
6月15日(HPB 416)『黒い罠』W・マスタースン(青田勝訳)
6月15日(HPB 417)『とりすました被告』E・S・ガードナー(尾坂力訳)
6月30日(HPB 418)『爬虫類殺人事件』C・ディクスン(村崎敏郎訳)