コラム / 高橋良平
戦後日本SF出版史・補遺[横道篇]
「草下英明さんのこと」
- 『星日記―私の昭和天文史 1924~84』
- 草下 英明
- 草思社
- 2,376円(税込)
- >> Amazon.co.jp
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- >> ローソンHMV
〈本の雑誌〉2015年8月号の人気リレー連載「読み物作家ガイド」は、亀チャンこと亀和田武さんの「一九六五年の澁澤龍彦」で、過日、フムフムと読んでいたところ----
〈......その中に草下英明の名があった。一般向けの科学解説書を多く著した人だ。/初期の「宇宙塵」の同人で、「SFマガジン」にも長いことSF的な科学エッセイを連載していた。私が小学生のころ、TBSの「100 万円Xクイズ」という、本邦初の本格的かつ高額なクイズ番組の司会を軽妙にこなしていた。前職は、たしか東急文化会館にあったプラネタリウムの解説員で、そうか星や天文台が好きなタルホを、励まし支えるには最適な人だなあ、と思ったものだ。......〉
----という箇所にふと、懐かしさと悔悟の情に囚われたのだった。
ぼくもまた、草下さんをクイズ番組の司会者として最初に見知り、その後、購読をはじめた〈SFM〉に連載中の「宇宙は生命に満ちている----SF宇宙生物学講座」(1964年9月号〜65年12月号)はもちろん、古本屋で漁ってきたバックナンバーで「スペース・ファンサイクロペディア」(1961年9月号〜63年10月号)も愛読。ぼくの天文関係の基礎知識は、草下さんから教えてもらったようなものだった----その影響で、グリコの懸賞(だったっけ)で手にいれた小さな天体望遠鏡で月面を観測(そのうち、月が二重に見えて、自分が乱視になったことを知る)したり、高校の掛け持ち部活のひとつ、地学部天文班で夜っぴいて獅子座流星群を観測したりしていた。
そんなわけで、ぼくの関わった雑誌が隔月刊から月刊に移り、新たな連載をいくつかもてることになると、草下さんに白羽の矢を立てた。かくして毎月、恵比寿駅から駒沢通りのなだらかな坂を10分ほどのぼった先にある草下さんのマンションに伺い、科学セッエイの原稿をいただきがてら、四方山話に楽しい時間をすごさせてもらった。
一度だけ、口調はいつもと同じく穏やかだけれど叱られたことがあった。わが雑誌で通信販売していた《未知との遭遇》関係の洋書を、娘さんが注文されたのだが、いつまでたっても届かないという苦情だった。この通信販売は、ウォーレン出版の〈フェイマス・モンスターズ〉などの雑誌を真似て、広告収入の代替案だったのだが、いろいろあってトラブルが尽きなかったから平身抵頭、帰社してさっそく、編集部にあった予備の本をお送りしたかと思う。ともあれ、一度も締切りに遅れることなく、草下さんの1年間の連載は無事に終了したのだった。
亀チャンが触れた稲垣足穂との関わりは、足穂自身が自伝的エッセイ『東京遁走曲』に書いているが、それの実情も含め、謦咳に接することのできた草下さんのことを、〈ただ、ちょっと洒落っ気を出して、たまたま、私の書いた本が五九冊(くだらない本が大部分なのだが)に達したので、六〇冊目の本を、六〇歳の誕生日(十二月一日付)に刊行〉した草下さんの著書『星日記 私の昭和天文史[1924〜84]』(草思社・1984年12月1日刊)を頼りに、その経歴を書いておきたい。
生年月日は上記のとおり、昭和の年号と歳がぴったり重なることになる1924(大正13)年12月1日、〈東京府荏原郡駒沢村上馬引沢七番地の五(のちに東京市世田谷区上馬町一の七の五に変更)〉で、兄2人姉1人の末っ子として生まれた。
1931(昭和6)年(6歳)、4月に世田谷区野沢町旭尋常小学校入学、〈当時、読んでいた本といえば、おどろくなかれ「万有科学大系・天体及宇宙篇」(山本一清執筆・編、新光社、一九二六年)をわけもわからず、写真だけ眺めていた。もっとも、天体及宇宙篇よりも、もっぱら動物篇のほうを熱心に見ていたようであったが......〉。
1933年(8歳)、小学3年生、兄ふたりの影響で昆虫採集に熱中。〈「子供の科学」「面白い理科」(原田三夫主幹、こども理学会刊)、「少年倶楽部」(講談社)などの雑誌を読んでいた。ついでに親戚の本屋からまわってくる売れ残りの大衆雑誌「キング」「富士」「講談倶楽部」「日の出」などものぞいていた。主として小山壮一郎、南洋一郎の猛獣物、探検物を読んでいたのだが、江戸川乱歩の「緑衣の鬼」なんてのもこっそり読んでおった。/この頃、アメリカ映画の「キング・コング」が封切られて大評判だった。猛獣映画や冒険映画を総ナメにしていた私が見逃すわけがない。確かこの年三月頃に見た記憶があるが、コングもさることながら、ぞくぞく登場する中世代の恐竜たちが実によくできていて、どきどきわくわく夢中になって見ていた〉
12月20日夕方、月齢3日の月による金星と土星の掩蔽(えんぺい・現在は「星食」と呼ばれる)現象が起き、〈霜枯れの凍てつく寒さも相当なものだったが、それを物ともせず、月と星のドラマに陶酔〉し、翌年2月14日に南洋のローソップ島で皆既日食、東京でも30%の食が見え、このふたつが草下さんの〈天文人生の最初に強烈な印象を与え〉、〈天文趣味の呪縛から逃れられなくなってしま〉う。
7月7日の蘆溝橋事件で"支那事変"の勃発する1937(昭和12)年の四月、都立六中(現在の新宿高校)に入学、〈嫌いな科目が数学、物理化学、英語、漢文、歴史、音楽、つまり、得意な学科は何ひとつなく、好きなのは休み時間と昼食〉という〈ほとんど学校の勉強をしない劣等生だった〉
1940年(15歳)、紀元は2600年、幻の東京オリンピックの年、〈私個人としては、春、秋は陸上、夏は水泳、そして読書は小栗虫太郎に凝っていて、学業はまったく問題としていなかった。小栗虫太郎については、これはひどいのめり込み方で、彼の人外魔境シリーズとして「新青年」(博文館発行)の一九三九年四、五、六月号に「有尾人」がのり、九、十月号に「大暗黒」が、そして、一九四〇年一月から一回読切りの連載で「天母峰」、「太平洋漏水孔漂流記」、「水棲人」とタイトルを見ただけでわくわくぞくぞくするような力作が連載されていた。この魔境シリーズの前半を集めた単行本が「有尾人」(博文館)と題して、一九四〇年七月に刊行されており、これを私は買いこんで、さらに夢中になって読みふけっていたものだ〉
1941年12月8日、〈朝早く、臨時ニュースで「帝国陸海軍は、西太平洋上において米英軍と戦闘状態に入れり」という第一報をきいた。ただ、えらいことになったぞという思いと、「バンザイ」という気持もおさえられなかった。/この年、国内旅行も制限され、学生狩りと称して喫茶店などでブラブラしている学生は片っぱしから補導されたし、勤労奉仕で学業もままならない、重圧がのしかかっていた時代である。「バンザイ」という気持がしたのは、戦争が、そうした暗雲を一時的にでも払ってくれたような錯覚を与えたからだ。しかし、真の暗黒、狂瀾の時は、この日に始まったのである----〉
1942年(17歳)4月に立教大学文学部予科に入学。〈中学時代の不勉強がたたって、みごと針路は屈曲して、歴史学でもやってみようかいといった程度の、確たる信念もない進学だった〉同月18日、〈東京が初めて空襲された。(......)B24が、横浜、東京を爆撃して、中国大陸へと飛び去った。私は学校の校庭でボンヤリそれを見ていた。爆撃機の姿を見てから空襲警報が鳴ったのを覚えている〉
1943年(18歳)、〈緒戦の勢いは何処へやら(......)身も心も暗く、そして灯火管制で空も暗くなり、従って星空だけはみごとにきらめいていた〉が、2月4日、フェデッケ彗星出現を新聞で知り、〈その夜、夜空をふり仰いでみたが、やたらと星が光っていて、どれがどれなのか、さっぱりわからなかった。(......)彗星は影も形もわからず、非常に情ない思いだった。一念発起、この夜から私は、とにかく星座を全部きちんと覚えてしまおうと決心〉し、神田の古書店で購入した野尻抱影の〈「星」(恒星社、一九四一年刊)「日本の星」(研究社、一九四三年刊、第三版)〉を〈枕許に置いて、ボロボロになるまで読み、装幀もぐずぐずに崩れてしまうほど熟読〉、〈ハッブル著「星雲の宇宙」(相田八之助訳、恒星社)を古書店で見つけて、最遠の銀河の写真にわけもなく感動〉する。
1944年(19歳)、〈いよいよ戦局ただならず、私たちの学生生活も、ほとんどが勤労動員に明け暮れて、勉強どころではなかった。予科三年が二年半に短縮されたが、学校に通ったのは、正味二カ月くらいなものだった。にもかかわらず、私自身の星人生は急速に開けていった〉
3月30日、〈星を通じて知り合った仙波重利氏(日映企画部)を、世田谷区経堂のフレンドハウスというアパートに訪ねた。この日、初めて「イナガキタルホ」という不思議な作家の名を教えられた。「天体嗜好症」(春陽堂刊、一九二八年)を貸してもらった。(......)初期の傑作が収められているのだが、私にはなんのことやらさっぱりわからず、一週間くらいでお返しした。仙波さんに感想をきかれて、「わからない」と答えたら、「そのうち、ぽちぽちわかりますよ」といわれたのを記憶している〉
5月16日、徴兵検査、胸囲不足で第一乙種合格。〈七、八月は、勤労動員で駆り出され、板橋の第二造兵廠で鋳造工という、ひどい仕事をやらされて四〇度Cの炎暑の中でへたへたになっていた。呆然としている中で、初めて野尻抱影先生に手紙を書いた。(......)丁重な御返事を頂いて、感激してしまった、と同時に、先生の書体の異様なのにもおどろいた。くねくねとミミズがのたくったような奇妙な字で、ひどく判読に苦しんだことが記憶に残っている〉
10月10日、〈豊橋第二予備士官学校に入校、幹部候補生として速成訓練を受けることになってしまった。学生から一挙に軍隊入り、おまけに初年兵を経ないで幹部訓練を施されるのだから、うまくゆくはずがない。ただ眠いのと、腹が減るのと、栄養失調の一歩手前か、体のかったるいことだけしか印象がない。/ただ、十一月五日だったと思うが、豊橋上空に初めてB-29 が飛来した。青空の中にみごとな四筋の飛行機雲をひいた銀色の姿は、敵ながらあっぱれ、美しいとさえ思ったほどだ〉
12月7日、東南海地震。翌年1月13日の三河地方直下型地震も体験する。
1945年6月10日、〈豊橋第二予備士官学校を卒業。見習士官として、名古屋市の東海第五部隊に配属。九月には九州方面へ編成転属する予定であった。(......)名古屋市の焼け跡にはまったくたまげてしまった。二十九日、チ号作戦と称して知多半島先端の阿久比というところに移って築城作業、といえばきこえはいいが、ただの穴堀りをしていた。そのまま終戦まで滞在していた〉
8月15日、〈正午、終戦の玉音放送。(......)私は正直、ああ、助かった。生きのびられた、というのが実感だった。この夜、南の空のさそり座がいつもより大きく、アンタレスはいよいよ赤く見えていたのを覚えている。(......)/八月十九日 名古屋に戻る。/九月十二日 めでたく復員。私は木曾の上松に疎開していた父母の許に帰った。一カ月間上松にいた。(......)/十月十五日 上京。ただちに復学の手続きをとったが、何をする気も起らず、呆然としていた。(......)星もあまりながめた様子はない〉
〈二十歳。私の一生の中で、二度とないような一年。(......)同室の友人、美術学校出の阿井正典氏から、宮沢賢治の名を教えられたのも、この頃である〉
1946年(21歳)、〈虚脱呆然の状態はまだ続いていた。学校へはろくに行かず、やたらと本ばかり読んでごろごろしていた。野尻先生の「星を語る」「星座風景」「星座春秋」「星座神話」といった本を古書店で見つけると、値段を問わず即座に買い込んだ(ろくに金もないのに)。その他の天文書なども片っぱしから買ってしまっていた。宮沢賢治の本も、全集を除いてこの時期にほとんど揃えていた。彼の詩は、一行も理解できなかったのだが〉
1947年(22歳)、〈大学へは一歩も足を踏み入れず、まったく勝手な生活をしていた。住田という友人が、大学の隣りに家を建て古本屋を始めるという。頼まれもしないのに、家を建てるのを手伝って、(......)いい加減な理屈をつけて住み込んでしまった。/二月三日 風樹荘(その古本屋)開店。以後半年近く、古本屋の手先をして、欲しい本が売りに出されると自分のふところに入れてしまった。一年足らずでこの古本屋はつぶれた〉〈四月二日 宮澤賢治の名作「銀河鉄道の夜」に描かれた星についての研究をまとめた私の文章が、風樹荘の経営者、月田亨氏を通じて、月田氏の家に同居していた賢治研究家、堀尾青史氏に紹介された。岩手県花巻市で、賢治の縁戚にあたる関登久也編集「農民芸術」にのせてもらうことになった。九月一日発行の「農民芸術」第四輯に生まれて初めて活字となった。/六月二十一日 東京、上野の国立科学博物館で開催されていた天文学普及講座に野尻抱影先生の講演があるのを知って、聴講に参加。初めて野尻先生に挨拶。「家へいらっしゃい」などというお世辞に甘えて、二十九日、さっそく世田谷桜新町のお宅を訪問しているが、何を話したのか、聞いたのか、あがってしまって覚えがない。ただ、むにゃむにゃいって一時間ほど座っていただけだった〉〈十月一日 大学は出たが、就職先などまったくないので、いたしかたなく、大成建設(旧大倉組)に入社。経理課へ配属されてソロバンはじきをさせられた。父が長い間、大成建設の土木課にいて、そのコネでなんとか入れてもらったが、一銭、二銭が合ったとか合わないとか、およそ次元の異なる世界だった。二十五日、初めて給料をもらったが、金一三七五円五〇銭〉
1948年(23歳)、〈七月九日 豊島区椎名町に在住の詩人、大江満雄氏の紹介で誠文堂新光社の「子供の科学」編集長、田村栄氏に紹介されて会うことになった。なんとしてでも編集部に入りたく、野尻先生に推薦状を書いてもらったり、別な知人でポプラ社の編集長をしていた水野静雄さんには、誠文堂の重役だった鈴木艮(こん)氏にも口をきいてもらった。十日後、首尾よく入社が決定(......)二十日に大成建設に辞表を出し、八月二日には、めでたく「子供の科学」編集部員として初出社した早業である。私が生まれた時創刊され、十歳頃に愛読した「子供の科学」を自分で編集することになろうとは、思いもよらなかった〉〈十一月〜十二月 「子供の科学」編集の仕事は楽しかったが、なにしろたった三人でやっているので、目のまわるほど忙しく、日曜日などはほとんど休んでいられなかった。おまけにひどいインフレで、定価を決めても雑誌が発売になるまでにたちまち直さなくてはならなくなり、もっぱら定価部分の「貼りつぶし」をやらされていた。/ただ編集にかこつけて、天文関係者に会えるのが嬉しく、国立科学博物館の村山定男、小山ひさ子、鈴木敬信(海上保安庁水路局、のち学芸大学)、神田茂(日本天文研究会)、アマチュアの中野繁、原恵、東京天文台の広瀬秀雄博士といった方々に初めてお目にかかったのも、この頃である。その中で、だんぜん印象強烈だったのは、作家イナガキタルホ氏に会った時である。その日の日記から引用すると、次の如し。/十一月二十三日(月)晴 今日も晴れて暖かく、資源科学研究所へ行ってみたが、八巻氏に会えず、仕方なく戸塚をブラブラ、真盛ホテルへ行ってみる。なんとイナガキタルホ先生あらわれる。よれよれの兵隊服に五十がらみのおやじ、ききしにまさる怪物なり。部屋には聖書と、二、三の雑誌と、三インチの反射鏡と少しの原稿用紙以外なんにもなし。いやはや、性欲論をひとくさり、美少年趣味は二週間前に転向せり、十八の女性と結婚するとか、何処までホントかウソか。へんな喫茶店へ行って別れる〉
1949年(24歳)、1月10日、『子供の科学・天文年鑑』第1号・1949年版刊行。〈私が手がけた最初の天文書で、ほとんど一人で受け持って編集した。初版五〇〇〇部だったが、幸い好評で増刷して一万部近く売れている〉
3月23日、〈この日は日曜日で、ふと思い立ち、午後からタルホ氏を連れ出して、野尻先生の家まで案内した。/大変意外だったのは、タルホ氏がまるで少女のように恥かしがり、野尻先生との初対面では、まことにおずおずと校長先生の前に立った小学生のようにふるまったことだった。そのあとのお二人の会話は、まったくのすれ違いで、投げ合う球は、野尻先生はゆるい緩直球、タルホ氏は背中の後ろを通る大変化球、どちらもまともに受け止めかねて戸惑っている感じ。しかし、タルホ氏は、雛段に飾ってあった紅白の菱餅に大よろこび、白玉の玉杯でビールを飲んだのがいちばんの感激だったという。のちに野尻先生は「あの人は、パルナシアン(高踏派)だな。とてもついていけない」とおっしゃり、タルホ氏は「え、先生はそんなことおっしゃったのか。せめてダンディズムと云って欲しかった」といたく不満げであった。野尻先生とタルホ氏の出会いは、あとにも先にもこれ一度きり、あとは文通があった程度。実に奇妙な、愉快なコンジャンクション(惑星の会合のこと)だった〉
1950年2月16日、〈中央線中野駅近くのぼろアパートに住んでいたイナガキタルホが消滅。東京から遁走して京都へ移ってしまっていた。イナガキ氏は、昨年の五月から六月にかけて危機にあった。早稲田の真盛ホテルから追い出されて、富山市のほうへ行方をくらまし、再び東京へ舞い戻り、寝場所もなくて出版社の軒先で夜を明かすという惨澹たる状態だった。結局、江戸川乱歩氏の世話で、国電中野駅近くの幽霊が出るとかいう、ガタガタのアパートに入ることになった。収入は一銭もなく、三日おきくらいに行ってみると、ただ布団にくるまって寝ているだけで、いたしかたなく半年あまり私や他の友人が養っていた。二月に入って突如、京都在住の篠原志代女史があらわれて、タルホ氏を京都に連れていって下さった。正直、私どもはホッとした〉
8月30日から3泊4日で伊豆大島に出張、三原山の大噴火を取材。撮影した夜景の白黒写真が〈子供の科学〉のグラビア・ページを飾る。
1951年(26歳)、〈あまり天文学的には動きの少ない年だった。私個人としては、編集の仕事もややダレ気味だったが、科学界の第一人者や長老へのインタビューの仕事が嬉しかった。牧野富太郎(当時八十八歳、植物学)、田中館愛橘(当時九十五歳、物理学)、萩原雄祐(東京天文台長)、和達清夫(気象庁長官)、木村秀政(航空工学)、中西悟堂(野鳥の会会長)、原田三夫(「子供の科学」創刊者)、古賀忠道(上野動物園園長)といった人々に会うことができた〉
2月8日、〈アメリカ、イーグル・ライオン社製作「月世界征服」という戦後初めての本格的SF映画を見た。製作演出は、特撮ものの大家として知られるジョージ・パル、背景美術を天体画家の第一人者チェスリー・ボーンステルが担当している。ボーンステルの絵のすばらしさは、この前年だったか、ウィリー・レイとの共著で出された「宇宙の征服」(バイキング・プレス、一九五〇年。翌年、白揚社より邦訳が出た)という天体画と解説を組み合わせた本を見て感動させられた〉
5月3日〜5日、〈連休を利用して宮澤賢治の故郷、岩手県花巻市を訪れた。「農民芸術」に二回ほど原稿をのせて頂いただけの縁なのに、厚かましくも関徳久彌氏をお訪ねし、さらに賢治の実弟である宮澤清六氏に御紹介頂いたのだから、かなり図々しいものである。イギリス海岸、下根子の羅須地人協会跡を訪ね、次いで清六氏にお目にかかって、これまた粘って賢治の生原稿まで見せてもらった。「銀河鉄道の夜」や「夏夜狂躁」という詩の中で、どうしても確かめておきたい疑問の箇所があったからだ。「プレシオスの鎖」という明らかに天体を指すらしい謎めいた言葉と、「三日星(カシオペーア)」を、原稿で確かめたかったからである〉
10月25日〜28日、福島県裏磐梯で行われた日本初の人工降雨実験を取材。
1952年(27歳)、〈この年、「子供の科学」編集部から「科学画報」別冊編集に配置替えとなっている。「科学画報」は子科よりも一年早く創刊された歴史のある科学雑誌だったが、戦後、業績不振で一九四九年に休刊の止むなきに至っていた。それをなんとか別冊特集版で復活させようとしたが力およばなかった。もっとも、この二年後にまた復刊しているのだが、五年続いて一九六〇年に廃刊となった。なお、私のほうもこの年の九月十三日に誠文堂を辞めて、友人が経営していた教育弘報社という小出版社に腰掛けの形で入っていた〉
5月14日、〈編集部にHさんという奇妙な人物が訪ねてきた。アメリカに国際宇宙航行連盟 International Astronautical Federation (略してI・A・F)という団体の本部があって、国際連合を通じて各国へ宇宙開発の知識の普及啓蒙のための組織をつくるよう呼びかけている。日本へはまず学術会議へ呼びかけてみたが、相手にされない。そこで科学画報別冊版に宇宙旅行の話を執筆された原田三夫氏を紹介してもらえないかという話である。国連友の会宛の英文の手紙を見ると、いい加減なものでもなさそうだ。会長はかの光子ロケットで名高いオイゲン・ゼンガーが就任している。面白い、ひとつやってみようではないかというので、原田氏と私とHさんと三人で、「日本宇宙旅行協会」といった団体をでっちあげてみようか!! となった〉
9月1日、〈「科学画報別冊 宇宙旅行特集版」というのができ上がってしまった。かなりやっつけであったが、この中で、各界の先生方に宇宙旅行についての御意見をアンケートで求めてみた。真面目に意見を寄せて頂いた方もいるが、「人間が宇宙を飛ぶことなど不可能」とか、「そんなことにまったく関心はない」という返事を含まれていておどろいた(もちろん、有名な科学者ですよ)〉
1953年(28歳)、〈この年の四月、教育弘報社から平凡社に入った。平凡社の編集局長、下中邦彦氏は、私の中学の同窓で一肌ぬいでくれたのだ。「世界文化地理大系」というシリーズものの編集をやることになった。どうしたことか、この年初頭から片方の脚がひどい神経痛に悩まされ、一年以上苦しめられた〉
1月22日、〈生まれて初めて、テレビ放送の現場を見学した。NHKでは、三月の本放送を目指してテスト放送を実施していた〉
9月20日、〈生まれて初めての著書が自費出版で出た。「宮澤賢治と星」で、序文を野尻抱影先生と宮澤清六氏にお願いした。賢治の文章に登場する星の解説で、けっこう役に立つらしく、のちに宮澤賢治研究叢書の一冊として学芸書林(一九七五年)で改訂刊行された。当時の本はB六判、一四六ページ、五〇〇部刷って五万五〇〇〇円かかり、二〇〇円の頒価をつけて友人知人に売りつけて、ひどく迷惑がられた(特に平凡社の連中には)。あと書きに「私は酒も煙草ものまないから、この位の本を自分で作るのは造作もない」と書いておいたら、この部分しか読まない人が多くて、これまたひどくけむたがれたようである〉
9月26日、〈ようやく原田三夫の奔走で、日本宇宙旅行協会(略称 J・A・S)が正式に発足することになった。会長は置かず、原田氏が理事長事務取扱いの形で就任、山本一清、徳川夢声、西脇仁一、木村秀政、田口泖三郎、新羅一郎、木々高太郎、五藤斎三といった方々が集まっている。発会式を日比谷の商工会議所ホールで行ったあと、日比谷公園へ望遠鏡を置いて月を眺めた。世間一般の関心はゼロに近く、原田氏もずいぶん苦労されたが、細々と一五年間頑張ったあと、老齢のため引退された〉
1954年(29歳)、〈この年、一月にひどい気管支炎で一カ月近く休んだが、やっと神経痛もなおって元気が出てきた。文化地理大系も、フランス篇、インド・パキスタン篇、中南米篇と順調に刊行された。格別の話題がない年だった〉
1955年(30歳)、11月16日に〈拙著「おぼえやすい星座教室」(誠文堂刊)が出た。私としては、最初に印税をもらった本である。「子供の科学」に連載していた星座の案内記事を、一冊にもとめたもので、どの星とどの星を結んでその線を延ばすと、こういう星が見つけられるといった、かなり具体的、実用的な案内書だったので、わりによく売れたらしく、昭和五十年頃まで、版を重ねていた〉
12月6日、〈初めて、東京にプラネタリウムが建設されるという話を聞いた。しかも、うまくいけば、そこの解説員になれるかもしれないという耳よりな情報だった。昭和二十年五月二十五日、有楽町駅前の東日天文館(昭和十四年設置)にあったツァイス・プラネタリウムが焼失して、ちょうど十年目のことだった。野尻抱影先生や村山定男氏がいろいろ奔走されているということだった。うまくいくかな。平凡社も居心地悪くはないんだけど......〉
1956年(31歳)、〈我が生涯に一大変化。四月に世田谷区上馬町の生家を離れて渋谷に移り、七月には平凡社を辞めて、東京渋谷の五島プラネタリウムの準備室へと入った。いよいよプラネタリウムの建設が本格化したのである〉
7月1日、〈「宇宙機」という妙な会誌の第一号が出ている。品川区東五反田の荒井欣一が始めた空飛ぶ円盤研究会の機関誌で、第一号は半紙裏表にガリ版刷りというささやかなものだったが、二号からは週刊誌版一四ページの堂々たるものとなった。内容はUFO情報であるので、私などは軽蔑しきっていたが、なにしろ会長に北村小松、三島由紀夫、石原慎太郎といった人物が名を連ねていた〉
8月5日、〈プラネタリウムの出張で大阪市四ツ橋の電気科学館へ行き、佐伯恒夫氏の解説でプラネタリウムの投影を見学した。そのあと、ついでに高松新聞に勤めていた仙波重利氏を昭和区のアパートに訪ねた。イナガキタルホ氏の存在を教えて下さった仙波氏とは、昭和十九年に応召して以来の再会だった。一緒に宇治市へ行き、恵心院という廃寺に住んでいたイナガキタルホ氏を訪れた。その帰り、太秦に行って仙波氏の友人宅に泊めて頂き、夜、散歩に出て広隆寺(国宝第一号の弥勒菩薩像のある寺だ)をぶらついて、火星を見た。一九二四年以来の大接近であったが、不思議に印象に強く残っている火星である〉1957年(32歳)、〈またまた大きなエポックの年だ。三月十六日、私、清水三七子と結婚。四月、プラネタリウムが開館した。そして、十月四日、全地球は宇宙時代に突入。スプートニク一号が打ち上げられ、なにか一種独特な浮ついた宇宙狂躁曲的時代がやってきた〉 5月15日、〈日本で初めてのSF同人誌「宇宙塵」の第一号が刊行された。編集は柴野拓美(ペンネーム小隅黎)、A五判五二ページ、ガリ版刷り、定価五〇円、大下宇陀児、原田三夫、北村小松の三氏が祝辞を寄せ、矢野徹、星新一、水晶琇哉(高梨純一)、小隅黎がSFをのせている。このほか、同人として瀬川昌男、斎藤守弘、そして私などが名を連ねている〉
11月3日、〈ソ連が再びスプートニク二号を打ち上げた。なんと生きた犬を乗せているというのだ。再び世界は驚嘆。(......)この日ちょうど私は、神宮球場で六大学リーグの慶立戦を見ていた。長嶋茂雄が八本目のホームラン(当時の六大学記録)を打って、杉浦が完封2ー0で勝ち、わーっとわめいている中で、場内ラジオがスプートニク二号の打ち上げを放送した〉
1958年11月30日、〈この日、テレビ受像機を購入して我が家へ置いたことが日記に書かれている。なんと、それより前、プラネタリウムを爆破するとかいう、イタズラ電話がかかり、お客もあまり多くなかったので、念のため臨時休館として早目に家へ引き上げていたのである。日記には、「四時すぎ、テレビが来たので、呆然と見ている」とつけてある。なつかしや、手塚治虫の「鉄腕アトム」が放映されていたなあ。いくらで買ったのか、覚えがないが、一〇万円以上したはずで、友人の家に置いてあるのが、当時十九万円ときいてびつくりしたのを覚えている〉(*注・「鉄腕アトム」は、小学一年生のぼくが見てもチャチな実写版で、お茶ノ水博士がスバル360 に乗っていたのを覚えている)
1959年(34歳)、10月31日に〈五島プラネタリウムに辞表を提出して辞めてしまった。十月初めに、TBSテレビのクイズの司会をやらないかという話があって、「百万円Xクイズ」という番組にレギュラー出演しなければならなくなってしまったからだ。当時は、素人司会がわりと求められていたようで、三国一朗さんなども、アサヒビールの宣伝部からスカウトされたのである。私としては、なんとかうまく、プラネタリウムと二股かけてやろうと思っていたのだが、日頃、さぼってばかりいたので評判悪く、周囲から総すかんを喰って辞めなくてはならない羽目となった。以後、私は宮仕えを一切しない生活に入ることになった。大丈夫なのかね?〉
1966年(41歳)、10月1日、〈NHKの「四つの目」という子供向け科学番組のレギュラー解説をすることになった。現在でも続いている「ウルトラ・アイ」の前身で、四つの目とは、「拡大の目」、「時間の目」、「透視の目」、「ふつうの目」といった、自然の仕組みをいろいろなカメラ・アイでとらえるもの、これが意外な好評で、なにしろ、類似の番組、科学番組といえるような代物がまったくない時代だったので、私がレギュラーになってすぐ、放送記者会賞と科学放送賞というのを二つも獲得してしまった。私自身は思いがけなく長く続いて丸五年(一九七二年の三月まで)担当したのだが、あまりのギャラの安さに嫌気がさして辞めてしまった〉
1969年(44歳)、〈この年は、アポロの年、アポロに明けてアポロに暮れた歴史的な一年だった。私自身も、三月に一三年住んでいた渋谷区桜ケ丘のアパートから恵比寿に移り住んだ。(これもアポロのおかげといってよい。かなり高いマンションの買い物であったが、アポロの影響で、多少収入もあったからだ)〉
1974年(49歳)、〈アフリカ遠征(注・前年の皆既日食観測旅行)で、お金とエネルギーを使い果して、七四〜七六年あたりの三年間は、いささか低調であった。ただこの年の六月から、何を思ったか、鉱物採集家、コレクターのための情報誌「鉱物情報」(年六回、隔月刊、年間購読料一五〇〇円、現在は三〇〇〇円)を国立科学博物館の協力を得て刊行することになった。まったく独力で一〇年間なんとか続けて、一九八四年にやっと他の人に引受けてもらうことができた〉
1975年(50歳)、11月30日、〈野尻抱影先生の九十歳の祝賀会が東急文化会館で行われた。私は一九五九年に五島プラネタリウムを辞めて以来、一度もお目にかかったことはなく、なんとも奇妙な関係であったが、「来い」といわれて行かないわけにもゆかなかった。久しぶりの尊顔であったが、えらくお元気で会場に集まった一人一人に、思い出話や裏話をされるのには、みなみな閉口頓首した。テレビで、死んだらわしはオリオン座霊園に行くのじゃという話をしたら、本当にそういうものがあると思って、私も一緒に入れて下さいというのがあらわれて参ったとおっしゃっておられた〉
1977年(52歳)、10月25日、〈作家、稲垣足穂が亡くなる。(......)ずっと京都府宇治に雌伏しておられたが、一九六八年には新潮社の第一回日本文学大賞を獲得し、妖しの光芒を放って文壇の一角に回帰してみせた。そのつかみどころのない正体不明の文学は、なぜか若い人にも魅力だったらしく、かなりの間、ジャーナリズムを賑わしていた。(......)一九七五年、二十年連れそっていた奥さんの志代女史が亡くなられてがっくりされたか、ちょうど二年後にあとを追われた〉
10月30日、〈稲垣氏が亡くなられて五日後、野尻抱影先生が亡くなられた。九十二歳。(......)この年の二月、「星・古典好日」を恒星社から刊行しており、「月刊ポエム」という詩誌で星の特集をやりたいという相談を受け、ぜひ野尻先生のインタビューをのせなさいとすすめて、八月号で実現した。おそらくこれが先生の絶影になったのではなかろうか。先生はその後、ちゃんとオリオン座霊園の一隅におさまっておられるはずだ〉
----おやおや、懐かしい。〈ユリイカ〉と同じ判型の〈月刊ポエム〉は、編集長の正津勉と平出隆の2詩人が編集し、短命におわった雑誌で、その版元にぼくは勤めていた。晴天の霹靂のように社長から告げられた新雑誌の、制作・進行の補佐と入広や交換広告を受けもつことになる。そのころはリトル・マガジン同士の交換広告がはやりで、ご近所の〈奇想天外〉、原宿のセントラルパートにあった〈話の特集〉、渋谷宇田川町の〈ビックリハウス〉などと広告の版下の受け渡しにゆき、油を売っていたものだ。
〈弟子の中でただ一人三度勘当をうけたのが草下英明である〉
〈三度の勘当とは、持前の気安さと強引さで抱影に近よりすぎ、竜のあぎとを逆なでする結果となったものである。第一回は抱影が『天文図鑑』に使った星座図である。従来四季の星空は半円形のものをつかうが、地平線も丸くふくらんで描き、ちょうど「うちわ絵」のようにして描くと星座の歪曲が少い。この方法はS氏が発案し『天文年表』に使用したものだが、抱影はこれをそっくり利用した。永年きたえた編集者感覚でこのようなことは割合に平気で行う。ところがSの方でもこれに気づき苦情をいう。間に立って草下が奔走するが、ある日抱影宅へかけこみ、「先生、あれは盗用ですよ」といったので、抱影は烈火の如くいかり、当分は出入り差止めになった〉
〈二回目は『子供の科学』に昭和二十四年にのせたSF小説「太陽系をゆさぶる男」(注・深沢志郎名義)である。(......)この小説は四、五回読みすすんでくると、だんだん筋立てが尻すぼみになり、みじめな出来栄えになる。気象研究所の藤原寛人(『強力伝』の新田次郎)が、著者が抱影であるのを知らず「こんなシロウトのつまらない小説をのせるくらいなら俺に書かせろ」と編集部に投書する。間に立つ草下はオロオロした末に再度破門になる〉
〈昭和二十八年、草下は処女作『宮沢賢治と星』を自家出版した。これを閲見した抱影のハガキがある。
処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであつてはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。特に星の話は天文豆字引の観がある。それに賢治氏の句を引合ひに出したに留まるという印象で、君の文学者が殺されてゐる。余計な科学を捨てて原文を初めに引用して、どこまでも鑑賞を主とし、知識は二、三行に留めるといいやうだ。吉田源治郎氏との連想はいい発見で十分価値がある。吉田氏はバリット・サーヴィス全写しのところもある。アルビレオもそれで、同時に僕も借りてゐる。「鋼青」は"steel blue"の訳だ。僕は「刃金黒(スチールブラック)」を時々使つてゐる。刃金青といひなさい。(......)アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか、「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかつたのだらう。「三日星」も知識が低かつた為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言つてゐる)「庚申さん」はきつと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)
平凡社編集部宛のこの師匠の評言はきびしく、また適切である〉
〈昭和三十一年、草下は渋谷の五島プラネタリウム準備室に入った。私(注・石田五郎)もこの時教え子の一人を世話して入れたが、(......)草下は抱影の推薦である。
「昨夜初めて人事の話に入った。みな文句なし。"コレ乳母、まだままは炊けぬかや"とせがむ必要なし。ままの炊けるのは二た月ぐらい先?(......)」(草下宛ハガキ、昭和三十一年三月二十四日)
「どうも世間を甘く見過ぎてゐるようだ。因果をふくめられたといふ如き、時と場合による言葉で、ふくめた当人が読んだら不快に思ふだらう。君は楽屋裏を知らないから感激を知らない。学者連の点も相当に辛かつた。ハガキ一枚書くのでも、心やすだての間でも物の性質によつては反省が必要だらう。いづれお目にかかつた節に譲る。僕の名前にしてもあんな崩し字は生れて初めて見た、念の為に一言。しかし喜んでゐるに変りない」(昭和三十一年三月二十七日)
ハガキの宛名の書き方が無礼だとまたしてもオカンムリである〉
〈昭和三十四年、民放テレビで科学クイズの司会者を探していた。「渋谷のプラネタリウムに居る三橋達也に似た解説員はどうか」と飯沢匡のお声がかりがあったという。草下に白羽の矢が立ったのである。この時の同期の桜が三国一朗である。そしてこれが最後の破門の原因となった。
「拝啓、時下益々御清祥のことと拝察いたします。
この度、私は都合によりプラネタリウムの職を辞してフリーな立場となり、テレビ司会・科学解説などに活路を見出すことになりました。今後ともよろしくお引立の程をお願い申上げます。 草下英明
昭和三十一年十一月」
これが草下の挨拶状である。
「前略、草下君は先月限りでプラをやめ、テレビの司会者になりました。三年前、御社を去つたと同じ態度で、小生も呆れ、天文台の人々もこれがアプレの標本だらうと驚いてゐます、当人はただ『チャンスだから』と村山君たちに言ひ、少しも他の迷惑を感じてゐません、このチャンスが彼の将来に幸ひすることを祈るばかりです。しかしプラや学者たちのバックがあつて、天文アマチュアとして世間に出られたのですが、これは今後世間では通用しなくなるでせう。プラではもう彼れを惜しんではゐません。従来の御関係からちよつと御報らせしたく書きます。不一」(『子供の科学』編集長田村栄宛、昭和三十四年十一月二日)
師匠憤然やる方なしである〉
〈「(......)草下君は中々シロウトばなれをした司会振りで多分あれで伸びませう、たゞ感情より勘定の人です」(田村宛ハガキ、昭和三十四年十一月七日)
熱き情けの師匠ではある。しかし今回の破門は長びき、勘当が許りたのは、抱影九十歳、卒寿の祝賀会で、昭和五十(一九七五)年十一月三十日、この日村山定男のとりなしで十五年ぶりで両者は手を握った〉
----角張った顔に太い眉、くりっとした目の草下さんを"三橋達也"似とは言い得て妙だが、温厚にみえても、若いころは、なかなかやんちゃな面があったのだろう。
さて、60冊目の著書『星日記 私の昭和天文史 1924 〜1984』の巻末に、全著書目録が載っているが、分量が少ないせいか本にはなっていないものの、草下さんは創作も手を染めている。
〈宇宙塵〉の創刊第2号(1957年6月号)に「月世界への水先案内」を、18号(1959年1月号)に「カスティリヨ・ゴメスの脚」を発表。後者は15号〜27号を対象に59年12月号で集計発表した同誌の掲載作品第2回コンテストで、星新一の「おーい でてこい」を押さえ第2位に輝き、柴野拓美・編の『宇宙塵傑作選Ⅰ』(出版芸術社・97年11月刊)に再録されている。(なお、同誌第5号、1957年9月号に掲載された「イナガキタルホと宮沢賢治」は、「SF作家の先駆者としての稲垣足穂と宮澤賢治」と改稿・改題されて、學藝書林版『宮澤賢治研究叢書①宮澤賢治と星』に収録)
また、〈子供の科学〉誌上で、石川英輔さんの連載「大地底」(単行本題『ソレマンの空間艇』)のあとを受けて、4話から成るジュヴナイル「ニュートン君の冒険」を、1959年11月号から61年1月号まで連載している。
そして、久々の創作「暗殺者」が、〈SーFマガジン〉66年4月号に掲載されたのだが、以後、創作の筆は折ったはずである......。
はてさて、ぼくが草下さんの名前を久し振りに思い出したのは、本誌の連載初期、誠文堂新光社が1950年に出した全7集の『アメージング・ストーリーズ』に関する下調べをしているときで、草下さんの〈子供の科学〉編集部在席当時だから、なにかご存じだろうと見当をつけた。さっそく、昔の電話帳を引っ張りだして、架電。
電話口にでた奥様に要件を伝えようとすると、「あの、草下は亡くなりましたけど」
一瞬、絶句。
もうウン十年も新聞をとっておらず、それで別段不自由を感じることもなかったのだが、唯一の例外が訃報を知らずに不始末をしでかすことで、このときも、お詫びとお悔やみをモゴモゴと口にし、電話をきった。まったく度し難い野郎である。
......〈草下英明(くさか・ひであき=科学解説家)22日午前0時36分、気管支ぜんそくのため、東京都目黒区の病院で死去、66歳。葬儀・告別式は25日午前11時から品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は妻三七子(みなこ)さん。自宅は......〉朝日新聞1991(平成3)年6月23日(日曜日)朝刊
合掌。