特別対談
『不夜城』前夜の馳星周
「目黒考二×宍戸健司特別対談」
目黒 新宿では何十年も呑んでいるけど、ゴールデン街ってよく知らないんだよ。馳君がアルバイトしていた〈深夜プラスワン〉も実はそんなに行ってない。せいぜい3回以上10回未満ってところかな。だから今回の小説で描かれている1980年代半ばの〈深夜プラスワン〉、小説だと〈マーロウ〉という名になっているけど、こんな人たちも出入りしていたのか、と初めて知る話も多くて新鮮だった。宍戸はおれよりゴールデン街に詳しいよね?
宍戸 一時期はよく通ってましたけど、〈深夜プラスワン〉はそれほどでもないです。目黒さんよりちょっと多いくらい。行きつけの店が別にありましたから。馳君と仲良くなったのも、彼がバイトをしていた頃よりずっと後だしね。
目黒 店の雰囲気なんかは覚えているな。カウンターの隅に古いピンクの電話があって、毎晩のようにシミタツ(志水辰夫)さんや藤田(宜永)さんが呑んでてね。なにせ日本冒険小説協会公認酒場だから、作家や編集者は多かったですよ。
宍戸 マスターの内藤陳さんとは深い付き合いがありました?
目黒 日本冒険小説協会の会合でちょいちょい顔を合わせる仲、という感じかな。〈深夜プラスワン〉を開店する前に電話がかかってきて、「今度ゴールデン街に店を出すからよろしく」と挨拶されたこともあった。おれと陳さんは冒険小説について語り出した時期がちょうど同じくらいで、「小説推理」と「プレイボーイ」でそれぞれ書評を連載していたから、お互いに「同志」という連帯感があったんだよね。一度〈深夜プラスワン〉で鏡明と待ち合わせて、原稿の受け渡しをしたことを覚えているな。カウンターの下で原稿を受け取ると、陳さんがにやにやして「何か受け渡してやがるな」という顔で見ていた。
宍戸 陳さんは普段はいい人だけど、酒癖が悪くて、酔うと人が変わるというのは有名でしたよね。ただ店でバイトしていた馳君が、こんなにひどい目に遭っていたとは今回の小説を読むまで知らなかった。一緒に呑んでいても、陳さんに対する愚痴というのは聞いたことがなかったし。
目黒 カウンターの中で酒を作ってくれた馳君のことは覚えているけど、こんなに愛憎半ばする感情が渦巻いていたとはね。それでも本当にやばい話は、巧妙に避けて書いているはずですよ。当時の常連客でも、小説に出てこない人がたくさんいるから。
宍戸 そりゃそうでしょう。そのまま書いたら大変なことになる(笑)。30年前のゴールデン街って、今とは全然違いましたから。殴り合いの喧嘩なんてしょっちゅうだし、ぼったくりの店も多かった。
目黒 馳君がバイトしていたのは1985年か。ってことは「本の雑誌」は創刊9年目で、まだ隔月刊だった時代だね。エンタメ小説の流れで言うと、北方さんが『弔鐘はるかなり』でデビューして数年後、大沢さんが「佐久間公シリーズ」を書き継いでいた頃か。シミタツさんの傑作『裂けて海峡』が83年だから、じわじわと冒険小説の新しい波が起こってきた頃だね。
宍戸 馳君はそれらの影響を受けて出てきた、新しい世代という位置づけですよね。特に志水辰夫さんの影響は大きかったと思う。『裂けて海峡』に興奮したというエピソードは、『ゴールデン街コーリング』にも出てきますし。
目黒 シミタツさんはデビュー当時から上手かったけど、北方さんや大沢さんがこんなに大家になるとはなあ。上手い作家はたくさんいるけど、デビュー作からの伸びしろということなら、北方、大沢の2人が断トツじゃないかな。当時、北方さんが『水滸伝』や『チンギス紀』のような歴史大作を書くことになるとは、誰も予想できなかった。この2人はそれだけ努力しているんですよ。北方さんは意地でも認めないだろうけど(笑)、読者の目に触れないところで血のにじむような努力を重ねた結果、今があるんだと思う。小説って才能もあるけど、やっぱり書き手のたゆまぬ努力なんだよね。話がずれちゃったけど。
宍戸 馳君が「本の雑誌」で書評を書くようになったきっかけは何だったんですか。
目黒 バブル期に札幌の映画館が出していた「BANZAIまがじん」というヘンな雑誌があって、そこで馳君が――当時の名前でいうと坂東齢人君が「バンドーに訊け!」という書評を連載していたんです。これがぶっ飛んでいて非常に面白かった。それですぐにうちでも書いてくれと声をかけたの。だから日本で最初に坂東齢人を発見したのは、「BANZAIまがじん」の人たちなんですよ。
宍戸 先見の明がありましたよね。札幌の映画館の人たちが、どうやって東京在住の馳君に行き着いたのか気になるけど。
目黒 不思議だよね。「バンドーに訊け!」という連載のタイトルがよかったので、後に本の雑誌社から馳君の書評集を出す時に、タイトルを使わせてもらいました。
宍戸 小説だと日本冒険小説協会の機関誌のコラムを読んで、目黒さんが声をかけたということになっているけど、あれはフィクションなわけだ。
目黒 そうそう。馳君がライターになったのは大学を出て、数年勤めた出版社を辞めた後だから、時期的にもっと後の話です。事実関係はだいぶ異なっているんだけど、そこはフィクションであって全然構わないと思うわけ。うちの椎名誠が書いた「本の雑誌」の回想録なんて、かなり事実と異なる部分が多い(笑)。その人なりの歴史があって構わないと思うんです。
宍戸 書評集の『バンドーに訊け!』を読むと、90年代前半の馳君がどんな本を面白がっていたかがよく分かりますね。たとえばおれが担当した花村萬月さんの『ブルース』を、馳君は高く評価してくれたんです。あと陳さんもね。
目黒 彼の書評というのは特異でね、たとえば冒頭30行くらいは、まったく本と関係のない話題がだーっと続くの。たとえば自分が競輪に負けていかに悔しいか、いかにそのレースに出た選手が馬鹿であるかが、汚らしい言葉で書き連ねてあるわけ。一度あんまり罵倒が激しいんで、「馳君、もうちょっと柔らかい言葉にできない?」って電話したことがありますよ(笑)。つまり本のあらすじ紹介ではなく、それを読んだ時の自分の感情を中心にした書評なのね。それでいて絶妙に本のポイントを押さえた原稿になっている。なかなか余人には真似のできない芸当だと思います。「本の雑誌」の連載は書店員にもファンが多くて、「次に坂東さんがどの本を取り上げるか、店員同士で予想しあっています」というハガキをもらったこともある。そういう熱心な読まれ方をする、希有な書評家だったよね。
宍戸 おれもライター時代の馳君には、日本ホラー小説大賞の下読みなどでお世話になっています。今日みたいな対談や座談会のまとめもすごく上手かったし、小説家にならなくてもライターとして立派にやっていける人だった。
目黒 で、宍戸のところに『不夜城』の原稿を持ち込んで96年にデビューするわけだけど、どうして宍戸だったんだろうね。彼のまわりには集英社の山田(裕樹)さんとか、敏腕編集者がごろごろいたはずだけど。
宍戸 山田さんや他の編集者よりも年齢が近いし、お互いに熱烈な山田風太郎ファンということもあって、声をかけやすかったんじゃないですか。
目黒 よくそれを本にしたよね。当時の角川書店には、新人の持ち込み原稿でも出版するという流れがあったの?
宍戸 ちょいちょいありましたよ。もちろん内容次第ですけど、出来が良くて、作家の熱意が感じられたらやってみようという姿勢はありました。当時は本が売れていたし、他社もそうだったんじゃないかな。馳君に「ちょっと読んでほしい原稿があるんだけど」と手渡されたのが95年の10月で、しばらく忙しくて放ってあったんだけど、年末に落ち着いて読んだら最高に面白かった。それで大晦日に「すぐ本にしたい。3冊はうちで一緒にやろう」と電話をかけたんです。
目黒 大晦日に出版決定の連絡をしたの? いいプレゼントだなあ。原稿から大きな手直しはあったんですか。
宍戸 いくつか細かい表現を修正したくらいで、基本的には原稿のままです。もともと完成度が高かったし、一人称視点でかっちり出来上がっている作品なので、後から手は入れられないんですよ。持ち込み原稿から一番変わったのは、作品タイトル。原稿では「黒色夢中」というタイトルだったんです。馳君は香港映画が大好きで、ペンネームも俳優の周星馳(チャウ・シンチー)から取っているくらいだから、タイトルも香港映画的な雰囲気を狙って漢字4文字だったんだけど、おれはなんとなく3文字の方がいい気がして。「歌舞伎町なら、不夜城がいいんじゃない?」と変えてもらったの。
目黒 あの坂東君が作家デビューするというので、宍戸に頼まれて推薦文を書いた。おれは生涯で推薦文を書いたのは一度きり、『不夜城』が出た時だけなんですよ。それ以外、帯で使われているのは書評や解説からの引用なんです。「とてつもない新人が登場した!」と「1996年は、この長編がぶっち切りでリードする!」という2つのコピーを送って、どちらか選んで使ってくれといったら、この人は両方繋げて使いやがったね(笑)。
宍戸 目黒さんは実際のところ、『不夜城』の評価ってどうだったんですか。
目黒 すごい才能だとは思った。面白い書評が書けるのは知っていたけど、小説を書く才能まであるとは思わなかったからね。ただ好きか嫌いかでいうと、『不夜城』のようなタイプの小説はあんまり好きじゃないですよ。
宍戸 角川文庫の解説でも「こういう小説は好みではない」ってはっきり書いている。世の中であんな解説も珍しいですけどね(笑)。
目黒 おれは馳君が愛してやまないジェイムズ・エルロイの『ホワイト・ジャズ』を、10ページで投げた男だから。ああいう救いのない話は苦手なの。個人的にはもっと温和で、感動できる話が好き(笑)。親しい友人の書いた本じゃなかったら、推薦することはなかったかもしれない。当時馳君はレギュラーでゲーム評を書いていた雑誌がなくなって、金に困っている様子だったんだよね。そんな事情を聞いたら、好みであろうがなかろうが、ますます応援したくなるじゃない。並外れた才能があるのは間違いないと思ったしね。宍戸は『不夜城』のどこに惹かれて本にしようと思ったの?
宍戸 あれだけ複雑な物語を一人称視点で書ききった、ということに対する驚きですよね。普通なら三人称のカメラアイで書くべきストーリーを、主人公劉健一の視点にあえて限定して書ききった。こういうタイプの犯罪小説は今までなかったと感心したんです。年明けすぐに社内の編集会議を通して、春先にはゲラが出ていたのかな。刊行が96年の8月だから、数か月かけてゲラの修正作業をしたという感じだったと思います。そういえば馳君と打ち合わせをしている最中、突然おれが痔になってしまって......、ケツから血を流しながら話していたことがある(笑)。
目黒 初版はどのくらい?
宍戸 8000部です。当時としては決して多い数字じゃない。それが再版時には5万部に跳ね上がった。読者や書評の反応が良かったし、うち(角川書店)の会長が面白がってくれて、勝負をかけようとプッシュしてくれたんですよ。増刷が決まった直後、馳君に「大変なことになったぞ」と電話したのを覚えています。
目黒 そりゃ嬉しいだろうなあ。彼自身そんなに売れるとは思っていなかっただろうから、デビュー後もしばらく「本の雑誌」の仕事は続けていたんだよね。ただあまりに『不夜城』がヒットして、馳星周名義の仕事が殺到したので、坂東名義は整理することになった。デビュー翌年の「本の雑誌」4月号で「さよなら、坂東齢人!」という特集を組んで、馳星周の正体があの坂東齢人だったことを読者に公開したの。
宍戸 いい話だなあ。
目黒 カンのいい読者は薄々気がついていたかもしれない。あれほど評判になった『不夜城』を、レビュアーの誰一人として取り上げていなかったからね。いかにも坂東齢人好みのクライムノベルなのに、彼の連載でまったく言及がないのはおかしいもの。で、結局『不夜城』はどのくらい売れたんですか。
宍戸 単行本だけで20~30万部はいったと思います。98年に出た角川文庫は、映画化の影響もあってさらに売れました。
目黒 ところで最近ずっと探している写真があるんですよ。昔「野性時代」で日本全国のギャンブル場を巡る、という元手のかかる連載をやっていて。君も担当でもないのに、なぜか毎回顔を出していたよね(笑)。
宍戸 そもそもあの企画、おれが発案者ですから。
目黒 競馬、競輪、競艇、オートレースと4種のギャンブル場を巡る企画で、おれは競馬以外詳しくないから、よく解説役のゲストを招いていたんですよ。岸和田競輪場に行った回では、競輪に詳しい坂東君に参加してもらって、ついでに大阪在住の中場利一も呼んでみんなで呑んだことがあるの。坂東がデビューするという話は、その時に聞いたんじゃなかったかな。
宍戸 ちょうどゲラのやり取りをしている時期で、その日に目黒さんに推薦文をお願いした記憶がある。
目黒 まさに『不夜城』前夜だよね。その晩、坂東、中場とおれの3人で岸和田駅前通商店街というアーケードの下で並んで写真を撮っているんです。滅多に写真なんか撮らないのに、なぜかそんな気になって、編集者にシャッターを押してもらった。すごく好きな写真でね、ずっと事務所の仕事机に貼っていたんだけど、ちょっと前に机まわりを大掃除したせいで見えなくなったんですよ。どこにやったのかなあ。今日の話にぴったりだから、持ってこようと思っていたんだけど。
宍戸 デビュー前の馳君は、ぼさぼさの長髪に、怪しい中国人マフィアみたいな丸眼鏡をかけて、今とはイメージがだいぶ違いますよね。あの当時の先輩編集者は、みんな定年退職しちゃったし、ゴールデン街もすっかり様変わりして、国際的な観光地になってしまった。〈深夜プラスワン〉は残っているけど、経営者が代替わりして当時の面影はないし。
目黒 当時から才能があるとは思っていたけど、あの馳君が20年以上も第一線で書き続けるとは思ってもみなかったな。この小説を読んでいると、85年が昨日のことのように思い出されてきて面白かったです。
宍戸 あの馳君が自伝的小説を書くんだもんな。おれたちも年を取るはずですね。
目黒 そうそう。