前説──最初からお詫びと訂正なのだ
いつものこと、とはいえ、じつにウカツでありました。本誌4月号の早川書房特集の下準備で、資料ファイルを読み直していたら、「あちゃー!」と、つい声が......。
それは、前回触れた"HAYAKAWA POCKET BOOKS"外装ケースに関することだ。
出てきたのは〈ハヤカワ・ミステリマガジン〉(HMM)のコピー資料だ。以前に熟読したはずだが、まったく情ない我が記憶力。それは同誌の「ポケット・ミステリ1500番記念特集」中、長谷部史親さんが書いた「ポケミスの秘密」という記事で、"秘密"はすっかり明かされていたのである。
その記事によれば、外装ケースは、1958年6月に"ポケミス"が300点を突破したのを記念して作られたとのこと。そして、ビニールカバー装に変わったのは、特定はできないが、71年3月ごろを境に切り替わったとしている。([ハヤカワ・SF・シリーズ]の場合は、71年4月発売の平井和正『エスパーお蘭』からだ)
また、"ポケミス"の表紙は、56年の半ばから抽象画が増えはじめ、翌年には抽象画オンリーになってしまい、具象とも抽象とも決め難い絵柄もあるが、初期の具象画カバーは200点にも満たないのではないか、と指摘している。
56年半ば──それは〈HMM〉の前身、〈EQMM〉の創刊と符号する。表紙はご存じ、勝呂忠画伯。抽象画の表紙は、当時、探偵小説マニアからは高踏的で気取っていると思われたが、そうでない人間にとっては、探偵小説につきまとっていたドロドロした猟奇的イメージが払拭され、おしゃれな都会的センスに取っ付きやすさを感じたわけで、その表紙は10年間つづく。
ところで、〈HMM〉の表紙が真鍋博さんに変ったのが創刊10周年記念号からで、さらに10年たった創刊20周年記念号に勝呂さんが回顧的エッセイを寄せている。
新進画家といっても、収入も不安定で明治大学に籍をおいていた勝呂さんを見兼ねた恩師・斎藤正直教授が、教え子の宮田昇さんの勤め先である早川書房に紹介したのが1953年春のこと。宮田さんと勝呂さんは明大の同期だった。
勝呂さんの早川での初仕事は、宮田さんが企画をたて、7月から刊行の始まる[現代藝術選書]の装幀と、[ハヤカワ・ポケット・ブック]のトマス・B・コスティンの『黒バラ』(井上一夫訳)のカバー画──上巻は54年4月、下巻は8月に発売──だった。後者の編集担当は福島正実さんで、表紙絵に面倒な注文をつけられ、勝呂さんは自信を失いかけたというが、いかにも福島さんらしいエピソードだ。ちなみに、書影を見ていただければ分かるとおり、このときはまだ、抽象画ではない。
話を戻すと、〈EQMM〉の創刊時、表紙に勝呂さんを起用し、抽象画でいこうと決めたのは、装幀に関してハイ・センスな編集部長の田村隆一さん。その年の3月に出たばかりの田村さんの処女詩集『四千の日と夜』(東京創元社)の装幀を勝呂さんが手がけており、酒仙詩人もお気に入りだった。
勝呂さんは前記のエッセイで、〈月刊誌の表紙、それも連続で描くというのは初めての経験で大いに緊張した。もちろん抽象画で従来の雑誌パターンを破り、アート紙にビニール張りというそのころ流行しはじめた新趣向は、油絵具のマチエールの効果を存分に生かして、それこそ触覚的視覚を楽しませるものとなった。当時美術界全体も、抽象画は若者の間に新鮮な造型表現として迎えられ全盛期であった。EQMMの表紙の成功もいってみれば時流の波にうまく乗ったわけである〉と、書いている。
そのフレッシュさで成功した表紙とイメージ統一をはかる戦略で、"ポケミス"のカバーを抽象画路線に舵をきったのは、容易に想像できる。
とはいえ、具象画カバーも、今から見ると面白くもあり、新鮮に映ったりしないでもない。そこで、この具象画カバーを回顧するカラー・ギャラリーを開設しようというのが、この企画。ただし、財力もない未熟なキュレーターのこと、全体の4分の1ほどしか収集していないのが現状で、すでに強力な助っ人の彩古さんに協力をあおいでいるが、全点制覇の道は遠い。温かく見守っていただければ、幸いであります。
蛇足的追記・『黒バラ』は1952年5月1日に日本公開された《黒ばら》(50年・廿世紀フォックス作品)の原作。ヘンリー・ハサウェイ監督、タイロン・パワー、セシル・オーブリイ、オーソン・ウェルズ、ジャック・ホーキンス、マイケル・レニー、ハーバート・ロム、ジェームズ・ロバートソン・ジャスティス、フィンレイ・カリー、ボビー・ブレイク、ローレンス・ハーヴェイ出演、撮影ジャック・カーディフ。