コラム / 高橋良平

ポケミス狩り その3
「ウールリッチ/アイリッシュの巻」

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装丁・浜田稔 1958年7月 再版(初版55年3月)
 A〈夜はまだ宵の口だつた。そして彼も人生の序の口といつたところだつた。甘美な夜だつたが、彼は苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた〉  B〈夜は若く、彼も若かった。が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった〉

 日本のミステリ界にも数々の伝説があり、そのひとつに"神田巌松堂の場"がある。
 江戸川乱歩が厳松堂でようやく見つけた1冊のペーパーバックをめぐって、〈雄鶏通信〉編集長の春山行夫と鞘当てをした有名な逸話で、〈私が戦争後最初に発見した新らしい西洋探偵小説作家がウールリッチ(別名アイリッシュ)であった〉と書き出す、江戸川乱歩のポケミス版『黒衣の花嫁』の解説「ウールリッチ=アイリッシュ雑記」に詳しい。この文章は、のちにポケミス解説を中心にまとめられた乱歩の研究書『海外探偵小説・作家と作品』(早川書房・1957年4月刊)に再録され、『探偵小説四十年』にも引用された。
〈それほどの思いをして手に入れたからでもあろうが、「幻の女」は私を夢中にさせた。そして、その表紙裏に「昭和二十一年二月二十日読了、新らしき探偵小説現わたり、世界十傑に値す。直ちに訳すべし。不可解性、サスペンス、スリル、意外性、申分なし」云々と書きこんだものである〉(同解説より)
 最初に掲げたのは、その伝説化した『幻の女』の冒頭の文章で、Aは、〈宝石〉50年5月号に一挙訳載され、同年に汎書房で単行本化、55年3月にポケミスに収録された黒沼健の訳文。Bは、早川書房の『世界ミステリ全集4』にウールリッチの巻が編まれた際に新訳され、75年6月に改訂版としてポケミスに入った稲葉明雄の訳文である。
 ふたたび乱歩の解説を引用すれば、〈この作家の魅力は、その文章にこもっている一種異様の淋しさにある。筋とは関係なく、文章そのもののトーンが、孤独で淋しくて怖いのである。私は彼の作品を二三行読むと、必ずそういう妙な魅力に引き入られるのを感じる。(中略)彼は犯罪者の孤独と、追われるものの恐怖心理を描くのが極めて巧みであるし、読者に一種の戦慄的な期待と焦慮を感じさせる手法に最も優れている〉
 詩情豊かな文章家という意味で、レイ・ブラッドベリにも通じ、いわば翻訳者泣かせでもある。Bは、ほぼ直訳であり、暗くロマンティック(メロドラマティック?)な原文の味わいをよく伝える訳文だが、こう訳すには、ちょっとした勇気が要るように思う。翻訳者は心情的に、まともな日本語の文章に訳しつつ、理解してもらいたいばっかりに、つい言葉を補ってしまうきらいがある。Aには、それがよく表われている。翻訳の良し悪しではなく、Bのように訳すには、訳者の力量とは別に、時代的な成熟というか、その詩的表現を感受できる読者の前提がなければならない。だから、英断を下す必要がある。

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『暁の死線』装丁・浜田稔 1955年5月3版(初版1954年1月)/『妄執の影』装丁・勝呂忠 1956年4月?版(初版1955年3月)/『黒衣の花嫁』(初版1953年9月・具象画装未入手)

 ウールリッチ=アイリッシュの魅力は、乱歩の言葉が尽くしており、巻き込まれ型、タイムリミット、成り済ましと、サスペンスの典型を知るには、初期作品いまも、必読である。その証左が、《裏窓》のヒッチコック、《黒衣の花嫁》のトリュフォーをはじめ、世界中の映像作家のイマジネーションを刺激してきたことで、フランシス・M・ネヴィンズJr. の評伝『コーネル・ウールリッチの生涯』上下巻(門野集訳・早川書房05年6月刊)の訳者労作のリストを見れば、その映像化の数に驚かされることだろう。
 50年代以降の長篇は、ファンならずば読まずともよいが、『野生の花嫁』(高橋豊訳)は、パルプ小説風の秘境冒険物に転じる、ウールリッチの珍品である。
 2012年7月の『ハヤカワ文庫解説目録』を見ると、アイリッシュ名義では『幻の女』(稲葉明雄訳・改訳版)『暗闇へのワルツ』(高橋豊訳)『死者との結婚』(中村能三訳)の3冊、ウールリッチ名では『喪服のランデヴー』(高橋豊訳・残部僅少)が残っている。なお、ハヤカワ・ミステリ文庫では、『黒衣の花嫁』を稲葉明雄、『黒い天使』を黒原敏行が新訳し、黒沼健訳は消えてしまった。私見では、メロドラマティックなノワール・サスペンス作家のウールリッチ=アイリッシュ翻訳の最適者は、高橋豊だったと思う。


[資料篇]"ポケミス"刊行順リスト#3(奥付準拠)
1954(昭和29)年・下半期
  7月15日(HPB 126)『ユダの窓』C・ディクスン(喜多孝良訳)
  7月15日(HPB 173)『密使』G・グリーン(北村太郎訳)
  7月30日(HPB 128)『放浪処女事件』E・S・ガードナー(文村潤訳)
  7月31日(HPB 152)『黒い死』A・ギルバート(平井イサク訳)
  7月31日(HPB 160)『神の燈火』E・クイーン(西田政治訳)
  8月31日(HPB 118)『孤独な娘』K・フィアリング(長谷川修二訳)
  9月10日(HPB 162)『シナの鸚鵡』E・D・ビガース(三沢直訳)
  9月15日(HPB 180)『殴られたブロンド』E・S・ガードナー(砧一郎訳)
  9月15日(HPB 138)『フランチャイズ事件』J・テイ(大山功訳)
  9月30日(HPB 154)『葬られた男』M・デイヴィス(青野育訳)
  9月30日(HPB 169)『ガラスの鍵』D・ハメット(砧一郎訳)
  10月15日(HPB 121)『ホロー館の殺人』A・クリスティー(妹尾韶夫訳)
  10月15日(HPB 157)『シルマー家の遺産』E・アンブラー(関口功訳)
  10月15日(HPB 136)『九尾の猫』E・クイーン(村崎敏郎訳)
  10月15日(HPB 149)『靴に棲む老婆』E・クイーン(宇野利泰訳)
  10月30日(HPB 134)『人の死に行く道』J・R・マクドナルド(中田耕治訳)
  11月15日(HPB 140)『ビロードの爪』E・S・ガードナー(砧一郎訳)
  11月15日(HPB 171)『美の秘密』J・テイ(河田清史訳)
  11月15日(HPB 135)『カナリヤ殺人事件』S・S・ヴァン・ダイン(瀬沼茂樹訳)
  11月15日(HPB 175)『牧師館の殺人』A・クリスティー(山下暁三郎訳)
  11月15日(HPB 179)『十二人の評決』R・ポストゲート(黒沼健訳)
  11月30日(HPB 166)『蝋人形館の殺人』J・D・カー(妹尾韶夫訳)
  11月30日(HPB 144)『アリバイ』A・クリスティー(長沼弘毅訳)
  12月15日(HPB 143)『ビッグ・ボウの殺人』I・ザングウィル(妹尾韶夫訳)
  12月15日(HPB 159)『三幕の殺人』A・クリスティー(田村隆一訳)
  12月30日(HPB 168)『木曜日の男』G・K・チェスタートン(橋本福夫訳)
  12月30日(HPB 199)『下宿人』ベロック・ローンズ(加藤衛訳)1月?
  12月31日(HPB 131)『細い線』E・アタイヤ(文村潤訳)
  12月31日(HPB 151)『夜歩く』J・D・カー(西田政治訳)
  12月31日(HPB 165)『霧の港』G・シムノン(松村喜雄訳)
  12月31日(HPB 167)『皇帝の嗅煙草入』J・D・カー(西田政治訳)
  12月31日(HPB 170)『学校殺人事件』J・ヒルトン(乾信一郎訳)
  12月31日(HPB 192)『カックー線事件』A・ガーヴ(高橋豊訳)
  12月31日(HPB 200)『ポケットにライ麦を』A・クリスティー(宇野利泰訳)

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