コラム / 高橋良平
ポケミス狩り その8
「アンブラーの巻」
いまもう、なかば忘れられた作家だけれど、"文学的スパイ小説の先駆者"エリック・アンブラー(1909〜1998年)もまた、いわばポケミス"生え抜き"のひとりだった。
アンブラーの本邦初紹介となったのが、ポケミスの第4回配本(6冊め)として、1953年10月に発売された『デミトリオスの棺』(村崎敏郎訳)。
......なのだが、ちょっと、書影を見ていただこう。私蔵の2冊──タイトルバックの地色がやや異なるが、これは褪色と思えなくもなく、装幀も同じなら、中身もまったく同じ。しかし、たった一点、表3の2文字だけ違っている。右の奥付は「昭和31年4月15日 印刷発行」、左のそれは「昭和31年4月15日 再版印刷発行」???
初期のポケミスは、奥付に重版(増刷)のデータまで抜けている場合が多く、とかく信頼できないのだが、2種類あるのは珍しい。よく見れば、「再版印刷発行」版は、数ミリ背が低いので、おそらく、返品されてきた「昭和31年4月15日 印刷発行」版の本文に、脱字2字を訂正して刷り直した表紙を付け、化粧裁ちして再出荷したものと思われる。ややこしいけれど、カバーのない本だからこその"化粧直し"にまつわる異本だろう。
さて、この『デミトリオスの棺』につづき、翌11月発売の『恐怖の背景』(平井イサク訳)、54年5月発売の『恐怖への旅』(村崎敏郎訳、未入手)、同年10月発売の『シルマー家の遺産』(関口功訳、具象画カバー版未入手)と、どれにも監修者であった江戸川乱歩の解説が付されているのだが、最初の2冊の解説文中の長篇リストからは、なぜか、デビュー作の『暗い国境』と第3作の『あるスパイの墓碑銘』が抜けている。
そのあたり、『恐怖の背景』の解説のなかで、乱歩自身、週刊書評誌〈「ジョン・オ・ロンドンズ」の筆者は戦前に六つの長篇があると書いているが、私は右の四篇(引用者註・『恐怖の背景』『裏切りへの道』『デミトリオスの棺』『恐怖への旅』)のほか知らない〉とエクスキューズしている。
海外のミステリ出版事情について、紙誌の書評や現物のほか知るすべはなく、原書に関しては、米軍放出の前線文庫やペーパーバックなど、もっぱらアメリカ版で手に入れるしかなく、手さぐりだった時代、『暗い国境』のハードカバーは、本国の英版しか出ておらず、『あるスパイの墓碑銘』の米版ハードカバーは、戦後の1952年になってようやく出版されたのだから、乱歩が知らなかったのも、無理もないのだろう。だが、『シルマー家の遺産』の解説では、さすが情報収集でも"鬼"の乱歩、遺漏なく著書リストは完璧に。
そのせいかどうか、『あるスパイの墓碑銘』(北村太郎訳)がポケミスに収録されるのは遅く、60年の6月発売。その前後、3月には『デルチェフ事件』(森郁夫訳)、7月に前年発表の最新作『武器の道』(宇野利泰訳)が翻訳されたのに加え、チャールズ・ロッダとの合作のエリオット・リード名義の『叛乱』(村崎敏郎訳)が7月、『恐怖のパスポート』(加島祥造訳)が10月、『スカイティップ』(村崎敏郎訳)が12月、『危険の契約』(中桐雅夫訳)が翌年3月と、アンブラー大棚ざらえの感じだった。
そのうえ、版権を取得する必要のなかった『あるスパイの墓碑銘』は、各社で翻訳されており、我が家にも、新潮文庫の木島始訳、集英社[世界文学全集]と筑摩書房[世界ロマン文庫]の田村隆一訳があるが、どれも訳者が詩人なのは興味ぶかい。
アンブラーはたしかに、早川書房の看板ミステリ作家のひとりだった。たとえば、ポケミスの一〇〇〇番に、アンブラーの『汚辱と怒り』(宇野利泰訳)が選ばれたり、[世界ミステリ全集]の第2回配本の第7巻はアンブラー篇にさかれ(1人1巻は、クリスティー、ガードナー、クイーン、ウールリッチ、チャンドラー、ロス・マクドナルド、アンブラーの7人のみ)、その際に、『デミトリオスの棺』は『ディミトリオスの棺』(菊池光訳)、『叛乱』も『反乱』(宇野輝夫訳)と改題・改訳され、新訳の『インターコムの陰謀』(村上博基訳)の3作が収録されたし、1976年4月、[ハヤカワ・ミステリ文庫]の発刊に際しては、一挙30点配本のなかに『ディミトリオスの棺』が選ばれるなど、重用されたのだが......。
しかし、75年3月に『インターコムの陰謀』が収録されたのを最後に、ポケミスとはお別れとなり、『ダーティ・ストーリー』(宇野利泰訳)は[ハヤカワ・ミステリ文庫]オリジナル、理由はいろいろ推測されるがディック・フランシスの競馬シリーズのように、[ハヤカワ・ノヴェルズ]のハードカバー版に移る形で、『ドクター・フリゴの決断』(加島祥造・山根貞男訳)と『薔薇はもう贈るな』(斎藤数衛訳)は刊行された。
けれども、全作が早川書房から出たわけではなく、デビュー作の『暗い国境』(菊池光訳)とCWA賞受賞作の『グリーン・サークル事件』(藤倉秀彦訳)は[創元推理文庫]に収まったが、最後の長篇 The Care of Time,1981は、現在まで未訳のまま。......直井明の〈HMM〉連載「ヴィンテージ作家の軌跡」、およびそれを単行本化した『スパイ小説の背景』(論創社)では、アンブラーの全作品に触れており、 The Care of Time の粗筋も詳述されているものの、アンブラーのファンとしては、ますます興味をそそられるばかり、やはり翻訳が待たれる。
ところで、ご存じのように、アンブラーはまた、映画人でもあった。映画化作品には、オーソン・ウェルズが製作し、ウェルズとジョセフ・コットンが脚本を書いたマーキュリー・プロ制作・RKO作品の《恐怖への旅》(43年)をはじめ、ラウォール・ウォルッシュ監督の《Background to Danger》(43年)と『デミトリオスの棺』が原作の《仮面の男》(44年)──この2本のワーナー作品は、前者の脚本をW・R・バーネット、後者をフランク・グルーバーと、ミステリ作家が手がけている──、ジェームズ・メイソン主演のRKO作品《あるスパイの末路》(44年)、ヒロインをロレッタ・ヤングが演じたMGM作品《Cause for Alarm!》(51年)とノワール風趣の映画がつづき、それに『真昼の翳』(宇野利泰訳)を原作にしたジュールス・ダッシン監督の《トプカピ》(64年)があるが、いずれにも原作者はタッチしていない。
戦時中から戦後にかけて、英国陸軍の撮影班で、将兵用教育映画を製作や助監督をつとめていたアンブラーが、最初にシナリオを手がけたのは、《トプカピ》アカデミー賞助演男優賞を受賞したピーター・ユスチノフと共同執筆したキャロル・リード監督の《最後の突撃》(44年)だった。その後の日本公開作を挙げれば、H・G・ウェルズ原作、デイヴィッド・リーン監督の《情熱の友》(49年)、ジェフリイ・ハウスホールド原作の《スパイ》(52年)、ニコラス・モンサラットのノンフィクションが原作の第二次大戦の海戦映画《怒りの海》(53年)、ロンドン大空襲で新婚初夜に妻を失った飛行士をグレゴリー・ペックが演じたH・E・ベイツ原作の《紫の平原》(54年)、ウォルター・ロードのノンフィクションが原作の《SOSタイタニック》(58年)、ハモンド・イネス原作の《メリー・ディア号の難破》(59年)などがある。
また、サンフランシスコのチェックメイト探偵社の探偵2人と顧問の元犯罪学教授の活躍を描くミステリ・ドラマ、米・CBS局のTVシリーズ《チェックメイト》(60〜62年)は、アンブラーの原案・企画の番組で、日本では全70話のうち36話が、61年8月から翌年4月にかけてフジテレビから放映されている。
(*1)ちなみに、五〇〇点刊行記念作品はエド・マクベインの『殺意の楔』(井上一夫訳)、一一〇〇番の一〇〇〇点めはジェフリイ・ハドスン(マイクル・クライトン)のMWA賞受賞作『緊急の場合は』(清水俊二訳)だった。
(*2)『デミトリオスの棺』は、74年6月に、ポケミスでも改訂版として旧版と入れ替わっている。
(*3)75年にカナダでリメイク、TV公開の邦題名は《怒りの凶弾》。
[資料篇]"ポケミス"刊行順リスト#6(奥付準拠)
1956(昭和31)年・上半期
1月15日(HPB 222)『夢遊病者の姪』E・S・ガードナー(宇野利泰訳)
1月31日(HPB 241)『途中の家』E・クイーン(青田勝訳)
2月15日(HPB 237)『黄色い部屋』G・ルルウ(日影丈吉訳)
2月15日(HPB 239)『修道院殺人事件』C・ディクスン(長谷川修二訳)
2月15日(HPB 240)『黒死館殺人事件』小栗虫太郎
2月28日(HPB 243)『闇からの声』E・フィルポッツ(井上良夫訳)
2月28日(HPB 245)『どもりの主教』E・S・ガードナー(田中西二郎訳)
2月29日(HPB 236)『デイン家の呪』D・ハメット(村上啓夫訳)
2月29日(HPB 242)『100 %アリバイ』C・ブッシュ(森下雨村訳)
2月29日(HPB 250)『名探偵登場 1』早川書房編集部編
3月15日(HPB 235)『七つの時計』A・クリスティー(赤嶺彌生訳)
3月15日(HPB 244)『プレード街の殺人』J・ロード(森下雨村訳)
3月15日(HPB 251)『名探偵登場 2』早川書房編集部編
3月31日(HPB 247)『さらば愛しき女よ』R・チャンドラー(清水俊二訳)
4月15日(HPB 246)『指はよく見る』B・ケンドリック(中桐雅夫訳)
4月15日(HPB 248)『鑢(やすり)』P・マクドナルド(黒沼健訳)
4月15日(HPB 252)『名探偵登場 3』早川書房編集部編
4月30日(HPB 258)『エジプト十字架の秘密』E・クイーン(青田勝訳)
5月15日(HPB 256)『プレーグ・コートの殺人』C・ディクスン(西田政治訳)
5月15日(HPB 261)『眠れるスフィンクス』J・D・カー(西田政治訳)
5月31日(HPB 249)『トレント最後の事件』E・C・ベントリイ(高橋豊訳)
5月31日(HPB 262)『シタフォードの秘密』A・クリスティー(田村隆一訳)
5月31日(HPB 263)『疑惑の影』J・D・カー(村崎敏郎訳)
6月15日(HPB 253)『名探偵登場 4』早川書房編集部編
6月30日(HPB 211)『大あたり殺人事件』C・ライス(長谷川修二訳)
6月30日(HPB 257)『死体置場で会おう』J・R・マクドナルド(中田耕治訳)