作家の読書道 第142回:川上未映子さん
詩人として、小説家として活動の場を広げる川上未映子さん。はじめて小説を発表してからまだ6年しか経っていないのに、今年は短篇集『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞も受賞。さまざまな表現方法で日常とその変容を描き続けるその才能は、どのようにして育まれていったのか。読書を通して感じたこと、大事な本たちについて語ってくださいました。
その2「太宰が面白すぎてまずいと思った」 (2/5)
- 『カント入門 (ちくま新書)』
- 石川 文康
- 筑摩書房
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- 『デミアン (新潮文庫)』
- ヘッセ
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- 『人間失格 (集英社文庫)』
- 太宰 治
- 集英社
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――中学、高校時代はいかがでしたか。
川上:中学生時代、最初は変わらず主に教科書を読んでいました。谷川俊太郎さんの詩を読んで、こういうものがあるのかと見ていましたね。ただ、本というものは身近にあるんだけれども、すごく遠いものに感じていました。それを誰かが書いているとはなかなか思えなかった。自分の世界のことっていう感じがしなかったんです。自覚的に本を読むようになったのは中学3年生くらいからです。自然と読むようになってきて、それで高校生になって図書室に行った時に、『カント入門』みたいな本があったんです。ぱらぱらと読んでみた時に、理解はできないんだけれども絶対に私が知りたいことがここに書いてあるんだっていう直観がありました。あ、見つけた、と思いました。目の前のコップは本当に存在するのか、なんで人間は1とか2とか3とかいう概念がわかるのか、世界中の全員が死んでも世界はまだあると言えるのか......そういったことがいっぱい書いてあった。それで哲学っていうものがあることを知ったんですよね。そこから一生懸命、誰かが噛み砕いて説明してくれているカントやニーチェをまずたくさん読みました。並行して、ふつうのお話ではない、文学というものがあるらしいということがわかってくるんです。いてもたってもいられないような不安が文学と結びつけてくれた感じです。図書室に行って怒濤のように読み始めました。何から読めばわからないから「あ」から順に芥川龍之介といったビッグネームを選んで読むと、中学校の頃に教科に抜粋が載っていたな、あれはこのシーンだったんだ、ということが分かってくる。読んでいたのは近代小説が多かったです。今生きている人ではなくて、歴史年表に載っているような、死んだ人ばかり。ヘッセの『デミアン』とか、太宰治とか、夢野久作とか。同じものを繰り返し読むタイプだったんですが、なかでも太宰治があまりに面白いからちょっと不安になって、誰かこんなものは駄目だと言ってくれないかと思って古本屋さんに行って批判集を買ってほっとしたり(笑)。まずいな、と思うくらい面白かったんです。あとは高校の図書館で村上春樹さんをはじめて読んで、それから今にいたるまで全部読んでいます。
――太宰がそこまで面白いと思ったのは、どの部分だったんでしょうか。
川上:太宰は私小説の人とくくられているけれど、私は当時も今もどうもそう思えないんですよね。実際私小説ではない作品もたくさん書いていますよね。自分にとっては、いくつか自分のことも書いたけれども......という按配です。よく言われる、自分のことが書かれているようだとか、僕だけがあなたのことをわかっていると耳元でささやかれるような気がする、といった楽しみ方はしませんでした。『人間失格』も読んだけれどもピンとこなくて、それよりも短篇集が好きでした。語りに惹かれたんですよね。書きだしと終わりの感じがよかったんです。こんなことをこんな風に言えるんだ、というところにも惹かれました。どこにも捨てるセンテンスがないくらい完成度が高いものが多くて。子供の頃にお母さんの字を真似して書いたように、憧れと実践の対象としてそれがあったんだと思う。書かれている物語とか太宰治自身の境遇に興味があったわけではなくて、文体と表現がよかったんですね。それは今でもそうだと思う。
――村上春樹作品はどうだったのですか。
川上:もちろん内容もあるけれども、でもやっぱり、技術に惹かれていると思うんですよね。どんな技術かはうまく説明できないんですけれども、いつも見ていたものがまったく違う描かれ方をしていて、そこに驚嘆し続けているんだと思う。私の読書の喜びというのは、そこに初発があるんです、きっと。シンパシーよりも、あ、この1行で2、3年のことを言えるんだとか、感情を書かずにこういう場面を書くんだ、とか。どの段階の読書も、基本的にはそういう読み方をしています。その頃はまったく自分では書こうとしていない時代なのに。でも今自分で書くようになって、その頃の読書体験をフィードバックしているのかなと思う時があります。読んだことのない言い回しでどうにか表現しようというところに喜びを求めてしまう。
――ところで、高校は美術系の学校に進まれたのですよね。
川上:中学校で絵がちょっと巧いレベルだったんです。画家になるとか絵で有名になるとか思ったことは一回もないんですが、絵を褒められて、そういう学校に進学しました。でも高校に行ったらいちばん下手だったんですよ。あーもう絶対駄目だと思ってすぐにやめました。3年間ヒマだな、どうしようって思いました。それくらいデッサンの取り方がみんなと違ったんです。ほかは画塾とかで習っている子が多かったんですよね。積み木みたいなものをデッサンする時に普通に輪郭から描こうとしたら、隣の子がサッサと木の幹の質感から書きはじめたんです。それがもう、本当に「取り出す」という感じで。あ、ぜんぜん違うなって思いました。それで何の躊躇もなくすぐやめました。一切興味もなくなったので、本当は好きじゃなかったのかもしれません。それからは歌うことが好きになって、20代前半まで歌をやっていました。