WEB本の雑誌>【本のはなし】作家の読書道>第62回:夏石 鈴子さん
毎日を誠実に生きている女の人を書かせたらこの人! そんな夏石鈴子さん、小さい頃は翻訳家に憧れていたのだとか。そんな彼女は、どんな作品を読んできたのでしょうか? お勤めをしながら執筆活動をしているスーパーハードな生活や、仕事に対する真摯な思いも絡めて、語っていただきました。
(プロフィール)
1963年東京生まれ。97年、『リトルモア』に小説「バイブを買いに」を発表してデビュー。他のに、『愛情日誌』(マガジンハウス)、『いらっしゃいませ』(朝日新聞社/角川文庫)、『新解さんの読み方』『新解さんリターンズ』(角川文庫)、『夏の力道山』(筑摩書房)など。2007年春から、ポプラ社のPR誌「asta(アスタ)」でエッセイの連載を予定している。2007年4月に「家内安全」(筑摩書房)が発売予定。
――幼い頃の読書体験で記憶に残っているものは何でしょう。
夏石 : 5歳くらいで読んだ小川未明の『赤いろうそくと人魚』ですね。私は東京・葛飾の四つ木にいたんですが、今思うと母は古本屋で買ってくれたんじゃないかな。挿し絵を覚えているんですが、モノクロのとても悲しい、西洋の人魚姫とは違って、魚に近い人魚の絵だったんです。そのもの悲しい感じが、とても好きでした。
――挿し絵を鮮明に覚えているんですね。
夏石 : はい。その後、松戸に引っ越したんですけれど、その際に子供の頃に読んだ本は捨てたんだと思うんです。あれが残念。神保町にみわ書房という児童書の古本屋さんがあるんですが、たまに時間があると行って、昔見た『赤いろうそくと人魚』がないかな、巡り会いたいな、と探しています。子供の頃の視覚的な記憶って強いですからね。
――本好きな子供だったのですか。
夏石 : 好きでした。母の影響だったのかな。よく図書館に連れて行ってくれました。他に印象に残っているのは村岡花子さん翻訳の『赤毛のアン』。“想像力”という言葉が出てきて、それがすごく面白いなと思ったし、世の中には翻訳家という仕事があるんだなと思いましてね。私も翻訳家になりたいと思いましたよ。私は今出版社に勤めていて、翻訳出版部にいたこともあるので、翻訳家がどんなに大変な仕事か今ではよく分かっています。でもその5歳くらいの時は、村岡花子さんみたいになりたいって思っていました。村岡さんの訳でもう一度読みたいですね。それもみわ書房で探したい。昔読んで大好きだった本は、もちろんストーリーは覚えていますが、挿し絵を見たいですね。
――思春期の頃、夢中になった本は…。
夏石 : 片岡義男!
――即答ですね(笑)。
夏石 : 何十冊と本を出されていますが、全部持っていました! ファンレターも出しましたよ。ポストカードで返事がきました。嬉しかったです。ただ、私、一番影響を受けたのは本ではなくて歌なんです。
――どなたの歌ですか?
夏石 : RCサクセションの忌野清志郎さんと矢野顕子さん。本を読んで自分が作られたというよりも、特に忌野さんの音楽や作詞で、こういう世界があるんだな、こんな風に心の感じを表現するんだな、と深く思いました。でも、作家や物書きになりたいとか、だから出版社に入った、ということはないんですよ。
――その後、読書道はどのようになったのでしょう。
夏石 : 短大に入ったので、学校の図書館の本を読んでいました。でも、覚えているのは、マラマッド。ユダヤ人の作家なんですが、英文購読の授業で、先生がテキストにお使いになったんです。一生懸命働いているけれど、報われない人の話でした。卒業して何年後かに、マラマッドの死亡記事を新聞で読んで。ああ、と思い出して、学校の先生に手紙を出したんです。どうして19、20歳の女の子たちに対して、ああいう地味な作家の本をテキストに選んだのですかって。そうしたらお返事をくださって、私は若い人にだからこそ読んでほしかった、マラマッドの作品に出てくる人は、みんな苦しんで辛い目にあう人たちだけれど、誰一人として自棄を起こしたり、人生を投げ出したりしていない。そういう姿勢を学んでほしかった、ということでした。
――テキストの選択には深い意味があったんですね。
夏石 : ドラブルの『碾臼』もテキストでした。正式に結婚しないで子供を産む女の人の話。それをどうして短大生のテキストに使ったんでしょうね。それも聞いてみないと(笑)。人生というのは原則通りにいかないんだよってことを教えたかったのかもしれません。上智の短大の英語科だったんですが、英語に接することもあったし、翻訳家になりたいという5歳の時の寝言もあって、海外の文学は好きでしたね。
――国内の作家でお読みになったのは。
夏石 : わたしが19歳の時に村上春樹さんがデビューなさったんです。村上さんは本当に特別です。文学で、こういうことがあるのかと思いました。『風の歌を聴け』は当時のボーイフレンドがプレゼントしてくれました。すぐに別れてしまったんですが、彼が教えてくれたというのはすごい経験。何年かたって村上さんご本人にお目にかかることがあったので、「『風の歌を聴け』はボーイフレンドがプレゼントしてくれました」と申し上げたら、「いい生活してますねえ」って(笑)。
――学生時代、読書家だったんですか。
夏石 : とにかくたくさん読んでいました。本って、素晴らしいなと思っているんです。本は紙でできているでしょ。紙って重さがあった厚さがあって手触りがあって、匂いがある。そして装丁もあるでしょ。めくってみると、いろんな工夫があるんですよ。この先はどうなっていくのだろうと思いながら読み進めていくそれはとっても素敵なこと。本が紙で出来ていることは、なんて素晴らしいことなんだろうと思います。
電子書籍は目の悪い方や本が持てないという方のためのユニバーサルデザインとしての価値がある。でも差し障りがないのであれば、紙の本を楽しみたいですね。
――作家になりたい、というお気持ちはまったくなかったんですか?
本の雑誌編集部 : 全くありませんでした。
――出版社に就職し、現在もお勤めされていますが、就職先として選んだのは、やっぱり本が好きだったからですか。
夏石 : そこしか受からなかったんです。本当は資生堂で美容部員として働くつもりだったんです。でも落ちました。何年か後に、資生堂の社長さんにお原稿をちょうだいして、お目にかかったことがあるんです。「私はそちらの会社で働きたかったけれど、落ちたんですよ」と申し上げました(笑)。人のやることって計画通りにいかないですね。私の場合、自分で計画したことは何ひとつ成り立っていません。こんなはずじゃなかったのになあ、という気持ちはあります。
――小説をお書きになったのも、予想外のことですか。
夏石 : 友達に頼まれたんです。リトル・モアにいる友人から、新しい雑誌を作るんだけれど原稿が足りないから書いてくれ、と言われて。友達が困っている時に、私にできることあるなら、という思いで書いただけなんです。出版社で働いているから、ものを書くのがどんなに大変かよく分かっています。簡単に書けるものじゃない。どんな方も、みなさん苦労されてお書きになっている。私にとっては別世界のもの。なので作家になろうと思ったこともないし、憧れを抱いたこともなかったんです。
――デビュー作『バイブを買いに』で一気に注目を集めることに。お勤めと執筆活動の両立は大変だと思いますが、執筆のお仕事の依頼があった時は、どう対応されているのですか。
夏石 : その人と組んで仕事をすることと考えます。一緒に組んで仕事をする編集者を、どこまで信じられるか。『夏の力道山』も、この人と仕事をしよう、と思って書きました。
そもそも私は、原稿が手書きなんですよ。汚い字の手書き原稿を渡すということは、例えてみると、手足が自由に動かせない状態で着替えを手伝ってもらう感覚なんです。恥ずかしい気持ちがある。そういうことを許してくれる人、迷惑をかけてもいいかなって思える人なら、一緒に仕事をします。でも、あまりお受けすることはありません。
――え、断ってしまうのですか。
夏石 : 私自身、編集部のすみにいましたので、なんとなく相性が分かるんです。例えば編集者からの手紙が、花柄の横書きの便せんで、ボールペンで書かれてあると、それは困るんです。編集者なら、縦書きで書くべきなんです。日本語を横書きで書いてくる人に、ゲラの段階で「ここの文章のつながりが…」と言われても、私は言うことを聞く気になりません。私の問題ではあるけれど、どこまで信じられる人なのか、ということで仕事を決めます。締め切りを言われたって、校了日がこうならばこの締め切りはサバを読みすぎておかしい、と思う。あの、嫌な書き手です。すみません。
――縦書きで手紙を書く人も、今や少なそうですね。
夏石 : だから誰と仕事をすればいいのかすぐ分かります。私はとにかく、忙しい生活をしているんです。最初は子供と一緒に9時に寝て、夜中の3時に起きて7時まで書いていました。だんだん体がキツくなってきたので、最近は子供が9時に寝た後で12時まで書いて、朝4時半に起きて書いているんです。
――なんてハードな!!!
夏石 : そうすると、原稿を受け取ってくれる人が真剣じゃないと、書く気にならないんです。どれだけ本気で企画を考えてくれているのか、信じられないと、夜中に起きて字は書けないですよ。淡々としていては書けないんですよ、ものって。
――お勤めして、執筆して、家のこともして…。
夏石 : 会社では会社、子供といる時は子供。自分の生活の中で優先順位がはっきりしているのはありがたいですね。それに、会社員でいることもありがたいことだと思っています。今、広告部でタイアップを作っているんですが、スポンサーの方、代理店の方たちにお目にかかったりする。みなさんプロフェッショナルです。プロフェッショナルの仕事ってとても好きで、その人たちに敬意を払っています。一流の人たちとテンポのよい仕事をしている時は、本当に楽しい。それは実際に働かなければ分からないことだと思います。
――夏石さんは受付嬢のお話『いらっしゃいませ』でも、真摯に働くことの大切さを描いていらっしゃいますよね。
夏石 : やらなくちゃいけないことを普通にやるのは、大事なことだから。そういうのがとても好きなんです。
――お忙しいなかで、本を読む時間はありますか?
夏石 : 通勤の時間。それからうちに帰ってきて、締め切りがない日は、夜寝るまでの時間に読めますね。朝はやく起きて読んだりもします。写真集を眺めることも。私、假屋崎省吾さんを尊敬しているんです。目黒雅叙園の作品展を毎年楽しみにしていますし、お花の写真集も持っています。あの方は素晴らしい。普通の概念から自由なんですよ。突飛な組み合わせで驚かせるのではなく、そこから新しい美を生み出している。この間の作品展でも、菊の花と流木を組み合わせていて、斬新だけれど見るとやっぱり美しい。活けたお花の写真集などは、締め切りの前に見ます。自分を鼓舞するためかな。あれを見るとエネルギーが出てくる。假屋崎さんは最近、ややもするとカーリーなんて呼ばれてバラエティーの人になっていますが、とんでもない、もっともっと賞賛されていいと思います。
――目黒雅叙園の作品展は、毎回ものすごい混雑らしいですね。さて、最近読んだ小説やエッセイはいかがでしょう。
夏石 : ポール・オースターの『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』はどこのページで開いても面白い、とてもいい本。これから読もうと思っているのはロン・マクラーティの『奇跡の自転車』です。
――本はどうやって選んでいるのでしょう。
夏石 : 忙しくてふらっと本屋に行く時間はとてもないので、新聞広告ですね。新聞は全紙読んでいます。書評欄も当てにしているけれど、難しい本が多いでしょう。なので、書籍の広告を当てにします。これ面白そう、と思ったものは近所の書店に注文して取り寄せてもらいます。広告を見ての勘は外れませんね。あとは雑誌を読むのが好きなので、書評を切り抜いて注文することも。
――他にはどんな本を?
夏石 : 最近では光浦靖子さんと大久保佳代子さんの『不細工な友情』が面白かった。光浦さん、大好きです。佐野洋子さんや平田俊子さんの『ピアノ・サンド』も面白かった。私は、女の人が書くものは、結構意地悪で、知的であって、乱暴なものが好きなんです。佐野洋子さんはどのエッセイも面白いし、格好つけようとしていないところが好きですね。
――平田俊子さんは詩人でもある。
夏石 : 俳句とか詩とか短歌も読むのが好きなんです。言葉の使い方が光って尖っているというか、鋭い感じがするので、すごいなって思います。あとはなんといっても白石一文です。新刊の『どれくらいの愛情』もとてもいいですよ。読むと脳味噌が耕される感じ。人間はどうして生きていかなきゃいけないのかなとか、人間が生きていく道は平坦ではないけれど、どうやって心を強く持って立ち向かっていこうかな、という考えを与えてくれる。人間に生まれたからには白石一文を読め! と思います。
――白石さんは夏石さんと会社の同期なんですよね。白石さんはもう辞めになりましたが。
夏石 : なので、出たらすぐ買って、すぐ感想を伝えています。褒めるの本当は嫌なんですけれど、この人の作品は素晴らしいんです。あと尊敬しているのは、菊池寛です。藤沢周平先生と乙川優三郎さんも大好き。それに、藤沢先生と乙川さんがいいなと思うのは、一生懸命真面目に生きている人が、悲しい目にあっても自棄を起こさず生きる姿が描かれること。そのけなげさ。一寸の虫にも五分の魂、という言葉が好きなんですが、どんなに小さなものにも魂がある。その魂をつかんではなさない感じが、藤沢先生と乙川さんの作品にはある。うまく立ち回る人とか、ちゃっかりした人の小説は好きじゃないんです。
――『夏の力道山』は働く主婦のお話。
夏石 : 『新明解国語辞典』が5版から6版になった時に、“主婦”という言葉の語釈がものすごく変わったんです。なんなんだろう、と“主婦”に気持ちが傾いて書きたいなと思ったんです。
――一人の女性の一日を描く。時間の経過につれて、妻になったりお母さんになったり、働く女になったり…と表情が変わっていくところが面白かったです。
夏石 : アン・タイラーがそうなんです。『ブリージング・レッスン』という、ものすごく好きな作品があって。夫婦が遠くのお友達のお葬式に出かけるお話。それだけで1冊なんですよ、素晴らしいでしょ? アン・タイラーの影響はとてもあります。あと、田辺聖子先生です。簡単な言葉で、大事なことが伝わりやすく書かれてある。先生の本を読み終わると、そうだ、毎日を楽しく仲良く生きていこう、っていつもいつも思える。そんな気持ちになるところが、素晴らしいと思います。
――今後のご予定は。
夏石 : 光文社の『本が好き!』というPR誌で、「今日もやっぱり処女でした」という、24歳の派遣社員でイラストレーター志望のあおばちゃんの話を書いています。処女作が『バイブを買いに』だったので、初心に戻ろうかなと思って、処女の話にしました。マガジンハウスの『ウフ.』では奥さまシリーズを書いています。『夏の力道山』と『愛情日誌』で主婦を取り上げたので、それに続いて。
私の中で あれ? と思っているのが、みんなとにかく切ない恋愛が好きですね。でも切ない恋愛ってずーっと続けるわけにはいかないんですよ。私はそんなの嫌です。切ない生活とか切ない食事とか切ない子供とか切ない犬も嫌です(笑)。“切ない”は一種の娯楽だなというのが私の考え。その先は何かというと、平凡な暮らしだと思う。好きな人ができて、片思いして、両思いになって、キスしてセックスして、その後どうするかが大事。そして結婚して奥さまになったら、なんだこの生活は、って思うわけでしょう。結婚した後も恋愛したいっていう人もいるけれど、私はこの世でもう一番したくないのが恋愛だな…。みんな奥さまになる前は、女の子だったわけでしょ。その後のことをどう思っているのか、奥さまって観点で見て小説を書きたいなって思って。
――夏石さんならではのテーマだと思います。
夏石 : この先の目標は、主婦と奥さまと新解さんを書かせれば夏石だと言われるくらい精進すること(笑)。とにかく絶対“切なくない”話が書きたいです!
(2006年12月22日更新)
取材・文:瀧井朝世
WEB本の雑誌>【本のはなし】作家の読書道>第62回:夏石 鈴子さん